梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」の図解化が終了。計25枚。

梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」。第3部「 日本文明論ノート」が終了。「日本文明における江戸時代の意味」「日本文明の時空構造」「文明史からみた日本の商業と工業」「文明の未来ーひとつの実験」「昭和とわたし」。第7巻は計25枚の図解で完結。

数日前から手にしていた2冊の本を読了。

・工藤美代子『寂しい声 西脇順三郎の生涯』(筑摩書房

・『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫

ウオーキング。寝る前にヨガ2本。

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「名言との対話」6月3日。山口蓬春「思想とともに絵画は進展する」

山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、日本画家北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。

泰明小学校、東京府(現東京都高輪中学校を卒業後、東京美術学校西洋画科に進学。在学中に二科展に2度入選し話題になる。指導教官から日本画の材料が合うといわれ、日本画へ転科する。そして松岡映丘に師事し、大和絵の研究を熱心に行う。1923年、30歳で首席で卒業し、日本画科の助教授になる。 

1924年新興大和絵会に参加する。師の松岡映丘は「古典の教養に立脚して時代に生きよ」と語っていた。西洋画、日本画を両方学んだ蓬春が力を発揮する。1926年の第7回帝展では特選と帝国美術院賞、そして皇室買い上げと三重の栄誉となった。蓬春は作品に非の打ちどころがなく、人がらも好感を与えた。そして熱心に勉強を重ねて「大和絵の新興」を担っていく。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授に就任する。日本画と西洋画の流派を超えた六潮会を結成する。1935年帝展の改組に反対の師・映丘は国画院を創設するが、蓬春はどちらにも加わらず自由な立場となった。「右顧左眄を止めて己に頼むことのみが構図と云はず、画人の妙諦だと云ひたい」。従軍画家として台湾、中国、南方諸国を訪問し、戦争という題材も自分の中に取り込んでいく。

1949年ヨーロッパのモダンな感覚と日本画の伝統表現を融合した「とう上の花」が代表作となる。蓬春モダニズムと呼ばれた。「時代の要請にぴったりと即応するような新しい形式や様式を、自分の創意に基づいて創り出すのだ」と、時代に流れを先取りしていった。時代とは戦後の急速な社会変動だ。現代である。静物画から花鳥画に取り組み、日本画の絵具を使って現代的な視角に耐える画面を創り出そうとしていた。

蓬春の新日本画の技法は、最初は「観たままの写生」、次に「感じたままの写生」、更に「知ったままの写生」へと進んでいる。

1965年、72歳で文化勲章を受章。「果敢に前進しようとする作家が居なければ、芸術は進展しないのである。時代や社会は常に進み動いて居るのであるから」。

同級生の吉田五十八は、「あらゆる意味で完成されたひと」と語っている。世田谷区祖師谷のアトリエ、後の1953年に完成した葉山の新アトリエも吉田の設計である。葬儀委員長もつとめた。享年77。葉山の新アトリエは、山口蓬春記念館となっている。ここは訪れたい。

時代の流れを先取りしながら、自らの思想を進化させていこうとする姿勢と覚悟。それを伝統ある日本画という仕事に展開していこうとする道程。その姿に感銘を受けた。葉山の記念館はぜひ訪れて、蓬春の画業の進化を確かめたい。

井上研一郎『山口蓬俊ー新日本画への展開』(北海道新聞社)