6月が始まった。いざ!

・6月になった。いくつか、人と会うスケジュール調整を始めた。

・大学:授業資料の準備。金銭処理。都心での会合に出席。

・息子から電話で近況を聞く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」6月1日。ヘレン・ケラー「それでもいつの日にか、ぎこちない、借り物の作文の段階を卒業したい」

ヘレン・アダムス・ケラーHelen Adams Keller1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国教育家社会福祉活動家著作家である。

1歳7か月で視覚、聴覚、そして話すこともできなくなり、三重苦を背負う。電話を発明したウイリアム・ベル博士の導きもあり、6歳のとき盲学校からサリバン先生が家庭教師としてやってきて、指文字を習う。ものには名前がある。すべてものには学ぶべきものがある。果樹園、化石の標本、オウム貝、オタマジャクシ、ピルグリム記念館でもらったプリマス・ロックの模型、海、、、、10歳からは話すことを学んだ。自分が書くものは自分のものかという問いが常にあった。いつの日にか、借り物の作文の段階を卒業したいと切望する。19歳、ハーバード大学女子部のラドクリフ・カレッジに入学する。教授たちはひからびているとし、偉人な文学を鑑賞するには、理解よりも深い共感が必要だと批判的な目を持っている。

22歳、『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載。24歳、ラドクリフ・カレッジを卒業、文学士の称号を得る。29歳、 アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、作家としても活動を続ける。38歳mハリウッドで自叙伝を映画化した「救済」に出演。

以下、3度来日した軌跡。

1937年昭和12年)(56歳)、訪日し3ヶ月半に渡り日本各地を訪問した。横浜で財布を盗まれれる。全国からの支援金は盗まれた額の10倍以上となった。新宿御苑での観桜会昭和天皇に拝謁。日本各地を旅した。日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。

1948年(昭和23年)(68歳)、2度目の訪日。2か月滞在財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。

1955年(昭和30年)(75歳)、3度目の訪日も実現し熱烈な歓迎を受けた。勲三等瑞宝章。赤毛のアン』の翻訳で有名な村岡花子は講演の通訳をしている。「三重苦の私を、日本の皆さまが心からご歓待くださるので、感謝にたえません。しかし、あなたがたの国、日本には私以上に不幸な人たちがいるのに、なぜその人たちにもっと温かい手をさしのべてくださらないのでしょうか」と話した言葉を花子はことあるごとに子供たちに伝えた。

1961年(81歳)、軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。1964年9月(84歳)、 アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。87歳で死去。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。

私は2013年に渋谷の塙保己一史料館(社団法人温故学会)を訪問している。7歳で失明した塙保己一は、36歳から41年かけて「群書類従」670冊(25部門)を刊行した人だ。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館していた。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話があった。「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。

22歳の女子大生が書いた『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)を読んだ。ヘレンが書いた「奇跡の人」とはサリバン先生だったが、いつの間にかヘレン自身が「奇跡の人」と呼ばれるようになっている。この本に 女優の大竹しのぶの文章が載っている。大竹は「先生」であるアニー・サリバンを「奇跡の人」の舞台で6度演じている。サリバンは「続けること、ただ信じ続けることーー私にできるのはそれだけです。ヘレンの内なるものが、内なるヘレンが待っているんだってー」。

自分の中から出てくる自分自身の言葉を希求したヘレン・ケラーの言葉は心に響く。

 

  • うつむいてはいけない。いつも頭を高くあげていなさい。世の中を真っ正面から見つめなさい。
  • 自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。
  • はじめはとても難しいことも、続けていけば簡単になります。
  • 人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。
  • 危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません。
  • 盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。
  • 幸福は自己満足によってではなく、価値ある目標に忠実であることによって得られる。
  • 目に見えるものは移ろいやすいけれど、目に見えないものは永遠に変わりません。
  • 私たちにとって敵とは、「ためらい」です。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。
  • 元気を出しなさい。今日の失敗ではなく、明日訪れるかもしれない成功について考えるのです。
  • 人の苦しみをやわらげてあげられる限り、生きている意味はある。
  • 悲観論者が、星についての新発見をしたり、海図にない陸地を目指して航海したり、精神世界に新しい扉を開いたことは、いまだかつてない。
  • ベストを尽くしてみると、あなたの人生にも他人の人生にも思いがけない奇跡が起こるかもしれません。
  • ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない。
  • 世界で最も哀れな人とは、目は見えてもビジョンのない人だ。
  • 喜びとは、目的をあたため続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。
  • 光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い。
  • 人生は胸おどるものです。そしてもっともワクワクするのは、人のために生きるときです。
  • 私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。
  • 世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています
  • 世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。
  • 楽天は人を成功に導く信仰なり

冒頭の言葉の前には「私は独創的はないかもしれない」という言葉がある。それでも、、」と自分を信じ、希望をもってヘレンは崇高な旅をして、ついには独創の人となった。この奇跡の人は、世界中の人々に勇気と希望を与えた。偉大な影響力の人、ヘレン・ケラーは偉人の中の偉人である。

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)