カミュ『ペスト』を読了。NHK「100分で名著」の「ペスト」を視聴。

午前中に、カミュ『ペスト』(新潮文庫)を読了。

カミュの『異邦人』に次ぐ、第二作である『ペストは』、第二次大戦終了直後の 1947年に発表された。この作品によってカミュは世界的な作家となった。

それから73年後の2020年、世界中が恐れおののいている新型コロナによる混乱を予言した書といえる内容だ。日本でもそうだが、武漢やイタリアなどの惨状を髣髴とさせる。カミュの想像力とそれを表現する乾いた文体で、読者は架空の世界に没入させられる。現在世界で進行中の悪疫と闘う人々の心境をあますことなく記しいて驚いた。この名作は奥が深い。何度も読まねばならない。

この本には極限状態の中で対応する人間の類型が登場する。私はこの難局にあたって「永遠の敗北」と知りながら自分の仕事を誠実に立ち向かう医師リウーと、役所の矮小な仕事の中に心の平和を見出し、夜には小説を書きているグランに共感を持った。

この本は、「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、、、、おそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な年に彼らを死なせに差し向ける日がくるであろうということを」で終わっている。この傑作は今読まれるべき必読書であることは間違いない。

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

 午後、ジムから帰って、録画してあったNHK「100分で名著」の4回分の「ペスト」をみた。本の内容の深い読み方、書かれた背景などが語られており、理解が深まった。カミュのファンだという内田樹ナチス時代批判という見方には納得できた。この本の真意はペストという題材に名を借りたナチス批判だったのだ。確かにこの本の扉には「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」(ダニエル・デフォー)という言葉が確かに掲げてあった。

この本は奥が深い。何回か読む必要がある。

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 ヨガ2本。足と肩。

ジム再開。2か月半ぶりに様子を見に行く。コロナ対策で様子が変わっている。まずウオーキング3キロから。

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「名言との対話」6月2日。長沼健「サッカーが上手になる人は、必ずあいさつや整理整頓がきちんとできる人なのです。なぜかはわかりません」

 故郷広島で被爆被爆者手帳を持ち、白血球過多で生涯苦しんだ。以下、日本サッカーアーカイブの「サッカー人物史」から。

関西学院大学卒業。1953年、西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現ユニバーシアード競技大会)代表。日本代表として、第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)、第2回アジア競技大会(1954/マニラ)、同第3回大会(1958/東京)等に出場。
国内においては、古河電工の選手として1961年度第1回年間最優秀選手に輝く。1962年、32歳の若さで日本代表監督に就任。第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ)に出場し、メキシコオリンピックではチームを3位・銅メダルに導く。
技術委員長、専務理事、副会長を経て、1994年会長就任。1996年、FIFAワールドカップ初の共同開催を決定する。1998年FIFAワールドカップ・フランス大会では、日本代表のワールドカップ初出場を果たす。
同時に、2002年FIFAワールドカップの日本招致委員会副会長、日本組織委員会副会長を務め、ワールドカップの招致と開催にも尽力。
また、日本サッカーリーグ常任運営委員、Jリーグ理事等を歴任。日本体育協会副会長、日本オリンピック委員会委員、ユネスコ・日本フェアプレー委員会委員等を務め、広くわが国のスポーツ界の発展にも貢献。1990年 藍綬褒章、2004年 旭日中綬章。2005年 第1回日本サッカー殿堂入り。2008年没。

NHK「あの人に会いたい」では、1997年に66歳で、生きている間にできないだろうがやりたいなという事業を3つ挙げて回想している。ワールドカップの日本開催、プロサッカーを興す、そしてスポルツシューレだ。ドイツのそれはサッカー場、宿泊設備、体育館が揃った施設である。それもインタビューを受けた年に福島にできると語っている。ドイツで「サッカーを通じてジェントルマンの第一歩をスタートさせたい」という言葉を聞いてあたためていた夢である。これで3つの夢がすべて実現した。名選手、名指導者、そして優れた組織運営者として日本サッカー界を先導し功績を挙げ続けた長沼健ほどの幸福者はいないであろう。

日本サッカー界の財政基盤の確立のための手腕は大したものだ。オフィシャルサプライヤー制度、講演会の会費と個人登録制度、興行、体協からの補助金、そしてキリンやトヨタなど大企業のトップをスポンサーに引き込む人間力も素晴らしい。サッカーを野球と並ぶ人気スポーツの地位に押し上げた基礎は長沼健の功績だった。

冒頭の「挨拶と整理整頓」は、あいさつや整理整頓ができなくても、サッカーはうまくなれるのでしょうか、あいさつや整理整頓ができなくてもサッカーはうまくなれるのでしょうか、という子どもの問いに、「いません。絶対にいません。何千人という選手を育ててきましたが」に続き、答えた言葉である。誰もが意外に思うこの言葉が、サッカー少年に与える影響は大きく、そして長く続くだろう。そして多くのジェントルマンを生むだろう。