ZOOMによる講演「梅棹忠夫からのメッセージ」、田原真人さんとの対談の動画。

日本未来学会オンライン研究会。2020年7月24日。
久恒啓一「生誕100年ーー梅棹忠夫からのメッセージ」

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田原真人さんとの対談。2020年7月23日。

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「参加型社会宣言」著者(橘川幸夫)との対話シリーズ第7回に登場。

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・杉田先生

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「名言との対話」7月27日。石田礼助「粗にして野だが卑ではない」

石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年明治19年2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本実業家

京商大を卒業し、三井物産に入社。シアトルボンベイ大連カルカッタニューヨークの各支店長を歴任し、1939年には社長になった。1956年に実業界に復帰し日本国有鉄道監査委員長、その後国鉄諮問委員を務める。1963年、財界からの起用を望んだ池田勇人総理は石田を国鉄総裁に指名した。77歳での登板であった。

国鉄総裁に就任する際には「私の信念は何をするにも神がついていなければならぬと言うことだ。それには正義の精神が必要だと思う」との信条で引き受けている。「年間50億人と言う人命を預かる色は、金をもらってやるべきではない」と給料を返上しようとした。月給は10万円からとし、列車事故の際はウイスキー一本(年間)とした。副総裁には「日常の仕事は、すべて君に任せる。君の嫌な仕事は全部俺が引き受ける」と言い、国会対策を引き受けた。「能率を上げるにはね、全体の統制を乱さない範囲において、独断専行をできるだけ許す、と言う事ですね」と仕事のやり方を語っている。

城山三郎の『粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯』(文春文庫)を読んだ。

石田の60代は単なる石田農園主であった。楽しみは旧友たちとの付き合いと、「金儲けの楽しみは、その道行きにあるんだよ」とした株だった。誰かが「野心も私心もない。あるのは素心だけ」と評したが、石田には侠気もあった。「人と作るには一点の素心を存することを要す。人と交わるには須く三分の侠気を帯ぶべし」(菜根譚)にあるような人物だった。

アメリカ駐在中に、政府に頼まれたり、社会事業に手を貸したりして、公職に手を染めるのが理想の老後として記憶された。給与が出ても、形式的に1ドル受け取るだけで、「ワンダラーマン」と呼ばれるそういう男たちがいることを知った。それが理想の老後として記憶されたのである。

国鉄では、切符の持たせ切りをやめさせた。私鉄への顔パス乗車もやめさせた。一等、二等の呼称やめさせ、普通車とグリーン車とした。改革を進めたが「労使の関係だけは何らなすことはなかったな。手に負えんのだ」と述懐している。石田が6年間にわたる国鉄総裁職を辞したのは数え年84歳であった。「勲章を私は老人のワッペンとしか思っていない」と言って辞退している。中山素平、宮嶋清次郎、桜田武、前川春夫などもその系譜の人たちだ。

自宅では「家でとれた間違いのないものを、上手にやりくりして食べる。それでこそ最高の贅沢、最高の醍醐味だ」とした。また屈伸運動20回、体の横ひねり20回など、自分で工夫した体操を10分間行う。さらに木剣の素振りを300回。朝の運動が終わると全身に水をかぶるという習慣を持っていた。

「葬式にはむやみに行くものじゃない。本当に親しい者だけが行くんだ」という考えの石田礼助の遺言は、「死亡通知を出す必要は無い。葬式は家族だけで営む。香典や花は一切断る。祭壇は下から2番目位にせよ。形見分けをするな。戒名はなくてもよい」であった。

「卑ではない」は、卑しくないという意味である。金、地位、名誉などに執着しない。品格を大事にする。筋が通っている。「粗にして野だが、卑ではない」は私の信条に近い。『落日燃ゆ』の広田弘毅など城山三郎の描く人物には私はいつも共感している。石田礼助の生涯は、爽やかな一幅の絵のようだ。