お盆休み期間の宿題をなんとかこなした。

8日から16日の休みの間に、「名言との対話」(平成編2。2019年)で欠けていた11人の文章を仕上げるという目標をなんとか達成した。

蝋山晶一。溝口茂。荒垣秀雄山田風太郎。E・H・エリック。コフィ・アナン。牛山清人横山隆一ロナルド・ドーア。安部欣一。

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6月19日。蝋山晶一「一生を通じて生きがいを追求する社会」「強い、安定した、自由な個人が新しい社会の人間像」。

 蝋山晶一(1939年10月19日。2003年6月19日)は経済学者。

東京大学助手を経て、1969年大阪大学経済学部講師、1970年助教授、1982年教授。1998年高岡短期大学学長に就任。

金融問題の論客として知られ、日本の銀行の横並び体質を批判して金融自由化を唱えるなど金融制度改革を強調した。橋本内閣時代に証券取引審議会総合部会座長として日本版ビッグバンの政策立案に尽力。2001年から金融審議会金融分科会長を務め、不良債権問題に揺れる金融システム立て直しに力を注いだ。公正取引委員会参与も務めた。主著に「日本の金融システム」「金融自由化」などがある。

大阪大学では、蝋山昌一は助教授の兄貴分で、中谷巌本間正明猪木武徳、宮本又郎といった助教授らに慕われたリーダーであった。元気だった頃の阪大経済の牽引者だった。

 1975年に発刊された『生涯設計計画ーー日本型福祉社会のビジョン』(村上泰亮。蝋山昌一ほか著)を読んだ。村上は東大教授で、蝋山は当時は大阪大学助教授だった。アドバイスをもらった人々の名前が記されている。井原哲夫慶應大学助教授)、鈴木淑夫(日銀特別調査課長)。助言と援助は、内田忠夫、大来佐武郎加藤寛小宮隆太郎、辻村江太郎、永井道雄、正村公宏。当時の日本の最高峰の人びとの知恵がつまった論考であろう。

明治維新から100年後の立ち位置を確認し、新しい社会システムを構想している。「一生を通じて生きがいを追求する社会」、その前提としての「強い、安定した、自由な個人が新しい社会の人間像」を想定している。それから半世紀、こういう人間像は成立しているとはいいがたいと思う。

人口は、1975年に1.1億人であり、2025年まで増え続けて、2020年には1.4憶人という推計になっている。実際は2008年に1.28億人でピークとなって、人口減少の波が大きくなっている。この本では高齢化は論じられていたが、少子化は俎上にのぼっていないかった。この点は大きな誤算だ。

当時の定年は55歳だった。定年後は55-59歳の向老期、60-64歳の初老期(老後生活の基盤整備)、65-69歳の中老期(社会との結びつき)、70歳以上の長寿の高老期(安寧の生活を求めて)という人生の区分を提唱している。平均寿命については、1950年は男性59.6歳。女性63.0歳。そして1975年時点では、男性71.7歳。女性76.9歳。その後も伸び続けると考えているが、人生100年時代が視野に入って来るとは予想はできなかったようだ。

蝋山たちの未来計画を45年後に検証して読んでいったが、その通りにはなっていない。未来を予想するのは難しい、未来を設計するのも難しいと感じる結果となった。しかし、「一生を通じて生きがいを追求する社会」、その前提しての「強い、安定した、自由な個人が新しい社会の人間像」の追求。その理想は今後も掲げていくべきだろう。

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「名言との対話」8月16日。木田元「普通の人間は、ちゃんと考えて書かれたテキストを一行一行読みながら、著者の思考を追思考することによってしか、思考力の養成はできそうにありません」 

木田 元(きだ げん、1928年9月7日 - 2014年8月16日)は、日本哲学者。専攻は現象学研究

山形県出身。3歳で、満州国の官吏となった父と長春市に移住。1945年、広島県江田島海軍兵学校に入学し、広島の原爆投下を目撃する。敗戦後、17歳で佐賀、東京を転々、上野の地下道にも野宿。テキ屋の親分に見込まれ、その手伝いで糊口をしのぐ。その後に山形県新庄市の遠縁の家へ。満州から引き揚げてきた家族と母方の郷里の鶴岡市に移る。代用教員、鶴岡市の臨時職員、闇屋と綱渡りの人生で家族を養う。

闇屋で手にした大金を頼りに、山形県立農林専門学校に入学。父のシベリア抑留からの帰国後、読書に耽溺。ハイデカーの主著『存在と時間』と邂逅し、運命の書と直観した。深く学ぶには専門的な学問が必要と旧制最後の東北大学文学部哲学科を受験し合格。特別研究生に選ばれ奨学金で博士課程まで修了。2年間の助手、講師を経て中央大学の専任講師に転出。波乱に満ちた前半生だ。

テキストの一語一語をゆるがせにしない東北大学で身に着けた真摯な研究でハイデガーやその周囲の哲学者の思想に肉薄していく。メルロ=ポンティの翻訳書で一躍注目された。現代西洋哲学の主要な著作の翻訳と、ハイデッガーフッサールの研究でも知られる。哲学の著書も、本質をわかりやすい文章で説くと評判をとった。反哲学、反アカデミズムの旗手と呼ばれた。中央大学名誉教授。2014年没。享年85歳。

東北大学ひと語録」というサイトが以下のように木田の人となりを説明してくれる。

「反哲学の旗手」の哲学者。ハイデガー研究から日本人の哲学を探る。喧嘩ならいつでもこい! 海軍兵学校生徒から闇屋、そして、世間に知られた異色の哲学者に。

ハイデガー研究の第一人者である木田が、なぜ多くの読者を獲得し、その人格まで愛され、社会に影響を与え、人気を集めたのか。、、、 自伝『闇屋になりそこねた哲学者』(晶文社 2003年/ちくま文庫 2010年)が面白いらしい。

 目標は、3ヶ月で一つの外国語の習得。一日8時間を語学の習得に充てました。1年目はドイツ語、2年目はギリシャ語、3年目はラテン語、大学院1年目にフランス語。そのほかに大学での演習の準備がありますから、一日十五、六時間は勉強をした。

 彼(ハイデガー)が企てているのは、いわば<哲学批判>であり<反哲学>なのである。ハイデガーが、ソクラテスプラトンより前のギリシャの哲学者が考えていた自然観「すべてのものは生きておのずから生成するものだ」に<反哲学>のヒントを得た。

私が最近読んだ池内記「亡き人ヘノレクイエム」(みすず書房)は、新聞や雑誌から、死去を告げられ、書いた追悼文に加筆したもので、28人との交友を回顧し、人物の肖像に仕上げた本だ。著者がみた、その人物の本質をきっちりととらえて書いた、と後書きで述べている。木田元については、「「いやな男」のいやなところを指摘しながら、同時にその人物の大きさ、天才性をきちんと伝えるなど、なかなかできないことなのだ。他人の悪口を言うとき、おのずと語っているの人となりとスケールが出てしまうのである」とある。

さて、木田元は一行一行読みながら、著者の思考を追思考するしかないと「思考力」を身につける語っている。50年以上にわたってハイデガーの本を読み続けた木田の言だからうなづくほかはないが、しかしそれは誰にもできる方法ではない。日本人の課題とも言うべき「考える力」の養成については、様々な方法論を俎上に載せるべきだと思う。