高根正昭『創造の方法学』(講談社現代新書)を40年ぶりに再読了。

高根正昭『創造の方法学』(講談社現代新書)を40年ぶりに再読了した。1979年に刊行された本だ。1982年に刊行した『私の書斎活用術』という本で16人の知的生産者を取材しときに、気鋭の学者だった高根先生のご自宅を訪問したことがある。高根先生は当時は50歳頃であったのだが、本の発刊の直後に亡くなってしまった。

 当時話題になったこの本は、自身の半生の現場体験と理論構築の往復をふり返りながら、創造という知的生産に向かうための方法について語った名書だ。当時はこの本の凄みはわかってはいなかった感じがするが、フィールドワークと読書体験を積み重ねてきた今の私には、「我が意を得たり」と大いに共感できる内容だった。9月の「名言との対話」でじっくりと論じたい。

創造の方法学 (講談社現代新書)

創造の方法学 (講談社現代新書)

 

午後:立川のけやき出版を訪問し、相談にのる。

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「全集」に関する、メールや葉書が届き始めた。中津の吉森君からは電話あり。

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「名言との対話」8月20日。平沢貞二郎「現代詩人会に役立つなら金を出そう。しかし、あくまでも私の名は出さないでもらいたい」

平沢貞二郎(1904年1月5日ーー1991年8月20日)は、実業家。

福井県三国町生まれ。15歳で上京し、大沢商会、報知新聞社等に勤務のかたわら、詩作にも励む。1925年、萩原朔太郎室生犀星らの詩誌「感情」の流れをくむ「帆船」に参加。1927年、詩誌「金蝙蝠」を創刊。1928年、詩集『街の小民』を出版。1930年、プロレタリア詩誌の合同によるプロレタリア詩人会の委員長に就任、機関紙「プロレタリア詩」を13号まで刊行した。

1936年、詩作を断念し、実業一筋に専念する。1937年、電気材料を扱う三国商会を創立。1947年、協栄産業株式会社を設立し代表取締役となった。三国商会、協栄産業ともに1962年に、東証二部上場会社になった。

1950年に、旧知の仲であった村野四郎と偶然再会する。現代詩人会を創設したばかりの村野から資金面の苦労を聞かされ、「君のやっている現代詩人会に役立つなら金を出そう。しかし、あくまでも私の名は出さないでもらいたい」と匿名を条件に援助を申し出る。それは詩壇の芥川賞と呼ばれる「現代詩人会賞H氏賞」(通称「H氏賞」)である。平沢は当時としては大金の1万円を毎年寄付した。

村野四郎は1965年の日経新聞の「交遊抄」で、「最近になってH氏とは、佐藤春夫のことだなどという、まことしやかな臆説もながれだしてきたので、やむをえず、このへんで真相を発表する次第だ」と前置きし、H氏が平沢貞二郎であると書いた。同年に開催された第15回H氏賞の席上で、村野は平沢を紹介した。平沢は「私が死んでも賞が残るように、信託基金を設定したい」と正式に挨拶し、1985年に日本信託平沢貞二郎記念基金を創設した。 

H氏賞からは、石垣りん富岡多恵子吉岡実黒田喜夫入沢康夫白石かずこなどの詩人を輩出している。現在でのすべての新人詩人を対象としたこのH氏賞は続いており、記念品と賞金50万円が贈られている。

このH氏賞は文学関係の本でよく見かけて不思議な賞だと思っていたが、有名な詩人の村野四郎を調べていた時に、この経緯を知った。多摩大の私のゼミ生が協栄産業に内定が決まったと報告にきたとき、創業者の平沢貞二郎のエピソードを話したことがある。彼は今その会社で働いている。内村鑑三が残すべきは「金、事業、思想、さもなくば高尚なる生涯」と最上位に金を挙げている。その真意は、平沢のような貢献ができるではないか、ということだ。平沢貞二郎は創業者だけでなく、新人登竜門の賞の創設基金提供者として名を残した。匿名にしたことで、かえって賞の名前が知れ渡ることになったのである。