小川環樹「魯迅は、あんなんでなかった」

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夜:ZOOMミーティング。

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「名言との対話」8月24日。小川環樹魯迅は、あんなんでなかった」

小川 環樹(おがわ たまき、1910年10月3日 - 1993年8月31日)は、日本の中国文学者 

主著に「唐詩概説」、「蘇軾」などがあり、初心者向けの啓蒙書や訳書も多数著している。

小川環樹は、有名な学者一族の出である。父の小川琢也は冶金工学の研究者の京大教授。長男は経済学者で東大教授の貝塚啓明。次男は 冶金学金属工学者で九大教授・東大教授の小川芳樹 三男は東洋学者、中国史学者で文化勲章受章者の京大教授の貝塚茂樹。四男は原子物理学者で日本初のノーベル賞受賞者で京大教授の湯川秀樹。そして 小川環樹は、中国文学者で東北大教授・京大教授である。湯川秀樹の子供の頃を回想したラジオを聞いたことがある。学者の家だったので、自然に学問の道を進んだという述懐だった。

そこで思い出したことがある。2007年、仙台に住んでいた頃、山形の阿部次郎の故郷を訪ねた。このとき、阿部次郎記念館でなくて、阿部記念館という看板がかかっていて不思議に思った。中に入ると、次郎は次男であり、兄弟はみなそうそうたる人物だったことがわかった。阿部余四男(動物学者、広島大学教授)、阿部次郎(東北大教授。法文学部長)。竹岡勝也日本史学者、九州大学教授)、阿部六郎(ドイツ文学者、東京藝術大学教授)。次郎が一人偉かったのではなっかたのだ。

2011年に九州熊本の荒尾の宮崎兄弟資料館を訪問したことがある。孫文と交流のあった宮崎滔天の記念館と思っていたら、四兄弟は皆傑物だったので驚いた。宮崎八郎自由民権運動家)、宮崎民蔵(哲人)、宮崎弥蔵(思想家)。宮崎滔天((寅蔵、革命家)だ。この宮崎家は革命気質の家風であった。

産業界はどうか。永野6兄弟が有名だ。長兄の護(岸内閣運輸大臣)。永野重雄新日鉄会長)、永野俊雄五洋建設会長)、伍堂輝雄日本航空会長)、永野鎮雄参議院議員)、永野治石川島播磨重工会長)とそれぞ経済界と政界で重きをなしている。

以上の例を眺めると、遺伝子の力を感ずるが、さらに環境要因も大きかったと想像できる。両親がととのえた環境、そして身近な兄弟の影響をもろにかぶっていると思う。

2020年07月20日の「人民中国」の劉檸のコラム「あの人を語る」を読んだ。それによると、中国文学研究の名著を書いている小川環樹は、中国留学時代に魯迅と交遊があった。「背低けれど眼光鋭し。自信に充ちた様子にて率直に語る」が第一印象だった。魯迅の「中国小説史略」について教えを請うている。小川が42年ぶりに中国の上海を訪れたときに魯迅公園の銅像をみた。そのとき、小川はこういっている。「あの銅像は、魯迅に威厳がありすぎる。ぼくが見た魯迅は、あんなんでなかったんだがなあ。もうちょっと心やすく話してくれた。ひとつには、病後でやつれていたということはありますがね。あんなえらそうな人ではなかった」。

西郷隆盛の妻いとは、上野の西郷さんの銅像をはじめてみたとき、「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ!」と言ったそうだ。今でいうと「あらまあ、うちの人はこんな人ではなかったよ」という意味だ。風貌もそうだが、身なりはいつもきちんとしていた、それを言ったという説もある。

後世には銅像の姿で残っている偉人が多いのだが、それは必ずしも実像ではないことは知っておきたい。

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「名言との対話」(平成命日編)8月24日。中野重治「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」

中野 重治(なかの しげはる、1902年明治35年)1月25日 - 1979年昭和54年)8月24日)は、日本小説家詩人評論家政治家

代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。

中野重治は653通の書簡を残している。160通の獄中書簡もある。書簡集『愛しき者へ』(上下)に掲載されている。中野重治はプロレタリア劇女優の原泉と28歳で結婚している。妻の写真をみると、よくテレビでみかけたた女優だった。

中野は生涯を通して日本共産党との縁が深い。32歳で転向出獄。44歳、「アカハタ」文化部長。45歳、参議院議員。56歳、日本共産党中央委員。そして62歳では、除名されている。

中野は『学芸封鎖の悪令』(読売新聞)で「国民は飢ゑてゐて天皇とその一家は肥え太っている」と皇室を、『安倍さんの「さん」』(読売報知)では文部大臣安倍能成を批判して、志賀直哉から絶縁されている。

以下、中野重治の言葉。

・その40年以上をとおして、私は「作家」としてよりも「文学者」として生きたいと思い思いながら来てしまったようにまずまず思う。

・いちばん下のところにいる人びと、全く普通のところにいる人びと、そこでの言葉で書きかつ語ることを私は求める。(70歳のとき)

新日本文学アルバム 中野重治』を今回読んだのだが、中に重要な箇所をみつけた。それは、柳田国男の「書くと読むとは後々の発明であり、元からあったものには言ふと聴くとの他に、考へるといふ一つがある」とし、「書く、読む」とに偏重した近代学校教育を危惧していたことを知った。「言ふ、聴く、考へる」に、読むのではなく聴く、書くのではなく言ふ、そして「考へる」が入っていたのには驚いた。

冒頭の「書いて行きたい」は、自伝的小説で、福井弁でしゃべる地方の自作農の父親が、獄中で転向し里帰りした左翼作家の息子にながながと説教したあと、「よくわかりますが」と前置きして語った言葉である。中野は74歳で『中野重治全集』(新版)の刊行を開始し、77歳で死去する翌年に全集28巻が完結する。書いた量は膨大である。中野重治はその通りの生涯を送った。その証がこの全集である。

 

新日本文学アルバム 中野重治』(新潮社)