FACEBOOKの「ストーリーズ」を試す。

FACEBOOKに「ストーリーズ」というサービスがある。24時間で消えるというコーナーで、今まで敬遠していたが、試みに2つほど投稿してみた。閲覧者がわかるのが面白い。街の広告、注意書き、看板などの書き方に注目してみようか。

 

「一切責任を負いません」じゃなくて、「負えません」でしょ。

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コンビニで。

画像に含まれている可能性があるもの:食べ物、、「辛さ。 辛さは、 もう 少しで、 幸せになれ そうな字だなあ、 旨辛肉まん 139円 (150.)」というテキスト

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大学院のZOOMでのフィールドミーティング。

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スイミング:500m

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「名言との対話」9月1日。坂倉準三「ル・コルビュジェの何かを日本に残したい」

坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年明治34年)5月29日 - 1969年昭和44年)9月1日)は、日本の建築家

1927年 東京帝国大学文学部美学美術史学科美術史卒業。 フランスに渡り、パリ工業大学で学ぶ。1931年 前川國男の紹介でル・コルビュジエ建築設計事務所に入る。1936年に帰国。パリ万博の日本館建設のため、再びフランスへわたる。この設計でグランプリを獲得している。帰国後の1940年には坂倉準三建築研究所を設立。1964年には日本建築家協会会長となる。

「Casa BRUTUS特別編集 最新版 建築家ル・コルビュジエの教科書。 (マガジンハウスムック)」を読んだ。

坂倉をめぐる師と先輩たちとの交流や影響がわかる。坂倉は20世紀最大の建築家・ル・コルビュジェの3大弟子の一人である。東京文化会館東京都美術館紀伊国屋ビルなどを設計した前川國男(1905-1986)、新宿西口広場も設計した坂倉準三、ヴェネチアビエンナーレ、大学セミナーハウスを設計した吉阪隆正(1917-1980)だ。それ以外にも、今井兼次、丹下健三安藤忠雄、伊藤豊雄、谷口芳郎などがル・コルビュジェの影響を受けている。世界遺産となった国立西洋美術館を設計したル・コルビュジェの影響は極めて大きいことがわかる。

坂倉の代表作の「旧神奈川県立近代美術館鎌倉」は日本初の公立近代美術館で、1951年開館、そして2016年に閉館している。ここには師のコルビュジェも訪れている。鶴岡八幡宮によって、2019年より「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として運営されているから、今でもこの無限成長美術館の概念に基づいた建築をみることができるようになった。坂倉が設計した渋谷の東急文化会館の映画館の中に、コルビュジェが設計した世界最大級の緞帳が保管されていたことが最近わかった。

 偉大なル・コルビュジェは77年の生涯で320以上のプリジェクトを手がけたが、実現したのは76件で、勝率は2割3分だった。この人にして安藤忠雄の著書のタイトルのように「連戦連敗」なのだ。建築家とは厳しい職業だと改めて思った。

 大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。文化学院創立者としても知られる西村伊作の娘である坂倉の妻・百合は坂倉を建築一本鎗の人であるとし、「氏の何かを日本に残したい」と語っていたと述懐している。日本家屋の傑作といわれる坂倉が設計した飯箸邸は、実業家團琢磨男爵の長男の團伊能の別邸として建てられて飯箸氏が居住し、後に後輩の美術評論家の今泉篤男氏に譲られ、息女家族の住まいとなっていた。取り壊し寸前だったのこの住宅は、フレンチシェフの三國清三氏の理解によって軽井沢に移築され、原型を出来る限りいかして、2007に「ドメイヌ・ミクニ」というレストランとして残っている。

「何かを残したい」と言っていた坂倉準三が残した「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムと軽井沢のレストラン「ドメイヌ・ミクニ」は見ておきたい。