日経新聞で「図解コミュニケーション全集」が紹介され、その威力を実感。YAMI大深呼吸学部の授業。

12日の日経新聞「読書欄」の「活字の海で」で、「久恒啓一図解コミュニケーション全集」が写真付きで大きく紹介された。

中沢義則編集委員による「クラウドファンディング活用」がテーマの文章で、このプロジェクトでお世話になった橘川幸夫さん(クラウドファンディング)、日本地域社会研究所の落合英秋社長(商業出版)など、関係者も一緒に紹介されていて嬉しい記事に仕上がっていた。

友人・知人からの連絡や、アマゾンのランクアップなど、あらためて日経新聞の威力を感じている。朝40万位、昼5000位、夜1900位。

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午後から夕方にかけて、調布で知研の福島さん、根岸さんとビールを飲みながら懇談。今後の方針が決まった。

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 夜はYMAI大学深呼吸学部の授業。20名。

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 常に「時代のホットポイントにいる」ことを信条としている橘川さんのみる「時代の流れ」が下記だ。自分の歩みを重ねて考えると、70年代の「ロック&コミックス サブカルの源流の時代」を除いて納得感がある。確かにその時代のホットコーナーに集まってくる若者と仲良くしながら歩んできたのだろう。70年代の「ロック&コミックス サブカル」の時代は、私は上京しサラリーマン生活を始め、札幌、ロンドンと東京を留守にした期間だったこともあり、この時代の潮流とは縁がなかった。

橘川さんはホットポイントに集まる人を、カンがよい人、可能性のある人、今からの人、無名の人、未完成の人などと表現していた。そういう人たちが時間を経ると、それぞれの領域でのしてくる。そういうながい付き合いだから、慕われるという構造になっている。

毛沢東が創造的な仕事を成し遂げる条件として3つをあげていることを思い出した。「若いこと」「貧乏であること」「無名であること」だ。橘川さんの言っている条件と同じだ。彼らが力を蓄えて、創造的な仕事を成し遂げつつあるのだ。

2020年代は「アフターコロナ(近代の次の時代に開始)へ向けての胎動の時代」という認識だから、ZOOMにいち早く反応しているムーブメントに人が集まっている。ここが時代のホットコーナーだ。ZOOM読書会、リモート図解塾などを体験して、そのホット感を浴びている毎日だ。ここに未来がある。

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この時代観と私のキャリアをふり返る。

  •  60年代後半「学生反乱の時代」--九大での学生運動。「創造と交流」の探検の時代
  • 70年代「ロック&コミックス サブカルの源流の時代」ーー社会人生活を開始。東京、札幌、ロンドン。青春の彷徨、模索の時代。
  • 80年代前半「異業種交流の勉強会とマーケティングの時代」ーー知的生産の技術研究会で活動を始める。JAL客室本部で労務対策。
  • 80年代後半「地上げ屋の時代」--本社広報部でマスコミ対応、週刊社内報の創刊などの新機軸。マンション購入。
  • 90年代前半「デジタルの開始の時代」--管理職になって、民営化広報、社内改革の先頭に立つ。初の単著を上梓。
  • 90年代後半「インターネットの時代」--宮城大学に転身。図解ウェブというHPを始める。
  • 00年代「金融バブルの時代」--「図で考える人は仕事ができる」を発刊。
  • 00年代後半「ソーシャル・コミュニティの時代」ーーゼミ生と地域活性化に取り組む。東京の多摩大へ。
  • 10年代「教育、地域などの再復興の時代」--多摩大の改革の先頭に立つ。
  • 20年代「アフターコロナへ向けての胎動の時代」--ZOOM革命に参加。

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 存在論(掘り下げる中での自己発見)から関係論(関係の中での自己発見)。岩谷宏。関係論の視座。伊藤伸平地球の歩き方。1000本ノック「誓い。中華料理。熟睡。告白。祖父、、」。メモ。決める。10月18日は未来フェス。(図解は関係学。人は関係の中に浮かんでいる。エーゲ海。図メモ。岡本太郎。、、)

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朝はヨガ

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「名言との対話」9月13日。徳光寿雄「『パパは何でも知っている』」

徳光 寿雄(德光 壽雄、とくみつ としお、1910年明治43年10月11日2014年平成26年9月12日)は、日本映画監督実業家。103歳まで生きたセンテナリアン。

1932年大倉高等商業学校東京経済大学の前身)卒業。1932年、河合映画製作社1933年大都映画に改組)に入社。宣伝部を経て、助監督、監督を務める。新興キネマに移籍し、太秦撮影所、東京大泉撮影所で監督。毎日新聞に移籍し、映画部ニュース映画を担当。日本映画社のニュース映画部に勤務する。

戦後の1953年日本テレビ放送網の開局社員として入社し、初代映画部長となる。外国映画を日本語吹替でテレビ放送することを発案した。『ロビンフッドの冒険』『名犬リンチンチン英語版』『パパは何でも知っている』などを担当した。東京12チャンネル(現:テレビ東京)に出向、同チャンネルの経営再建を手がけた。

徳光寿雄は103歳で亡くなったセンテナリアンだ。長男の和夫は1963年日本テレビ放送網に入社し、アナウンサーとして勤務し、1989年よりフリーアナウンサーとして活躍している有名人だ。「とくさん」に愛称で呼ばれている。今でも『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系)などに出演中の姿はよくみかける。父が亡くなったときに、和夫は「大往生でした」と語っている。次男の息子に女装家のミッツ・マングローブがいる。

寿雄の日本テレビ定年対退職後の、50年近くの詳細はわからないが、韓国併合の1910年から、ソチ五輪の2014年までの長い長い生涯をどう過ごしたのだろうか。

この人の言葉を探したが、なかなか見つからなかった。私も子どもの頃にテレビで夢中になった外国映画の番組を輸入した人だったことを知った。「ロビンフッドの冒険」「名犬リンチンチン「パパは何でも知っている」などのタイトルと、戦後憧れたアメリカの豊かさなどに驚いた映像は今でも思い出すことができる。アメリカは日本統治の一環として版権を無料で提供したということも聞くが、こういったテレビ映像の威力はすさまじく、戦後日本人が持った豊かな民主主義国家というアメリカ観と親米感を形成したのは間違いない。