新雑誌「BALL」第2号の取材。秋学期授業のリハーサル。原稿の整理。

けやき出版の「多摩で働き、多摩で暮らす 新しい働き方の新情報誌「BALL」第2号の取材を受ける。カメラマンも含め、大型の取材だった。

副業・複業・リモートワーク。多様化する働き方の中で、自分らしく仕事をする新しい価値とは? 多摩(たま)エリアを「ボール」のような遊び心を持って仕事をする楽しさを伝える一冊、という志の雑誌。創刊号の会社訪問の図解化を手伝った雑誌で、このシリーズにも関与する予定。

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長島先生と私の「多摩」をめぐる対談。以下、私の提示したキーワード。

国道16号線圏央道。中央リニア。人生100年時代。ウィズ・コロナ。テレワークタウン。八ヶ岳型。公人・私人・個人。生き方革命。ライフコンシャス。アーバンカントリー。、、、、、。長島先生の多摩を深掘りしている経験と各種の数字と実感と、以上のキーワードがからみあって1時間半の良質の対談となった。10月に発刊。

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秋学期の授業のリハーサル。大講義室での対面授業でリモートでも配信。機器の確認と資料の映り具合を確かめる。

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明日の出版社へ渡す原稿案の最終整理。

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「名言との対話」9月15日。マリア・カラス「マリアとして生きるには、カラスの名は重すぎる」

マリア・カラスMaria Callas, ギリシア語: Μαρία Κάλλας, 1923年12月2日 - 1977年9月16日)は、ギリシャアメリカ人ソプラノ歌手

ギリシャ系移民の子としてニューヨークで生まれ、18歳でプロデビューする。ルチアノルマヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術と同時に内面に深く踏み込んだ表現で際立っていて他を圧していた。エキゾチックな美貌、強烈な美声、劇的な表現力で、20世紀最高のソプラノ歌手、世紀の歌姫、と呼ばれた。

貧しく悲しい生い立ちからの成功の物語は、カラスをヒロインにした。マリア・カラスは芸術に対する圧倒的な賛美と、私生活に対する強烈なバッシングが続くドラマのような生涯だった。カラスの個人としての生涯を追ってみよう。カラスは恋をすると手紙魔になる。その手紙にはマリアとしての愛情と屈辱と孤独な心情が語られている。それを資料として書かれた『真実のマリア・カラス』を読んだ。

30代となったカラスの最初の夫は28歳年上のイタリアの実業家メネギーニであった。37歳では、ギリシャの船舶王であるオナシスのもとに出奔し離婚する。オナシスとは愛人関係で、最初の2年が過ぎる頃、マリアはすでに奴隷扱いだった。46歳、ケネディ大統領未亡人ジャッキーとオナシスの結婚により9年間でオナシスとの生活は終わり、カラスは自殺未遂をしている。 その後、かつての同僚だったディ・ステファーノと恋愛関係に入るが、その関係も1976年12月末に終わった1977年、カラスは53歳で死去し、遺骨はエーゲ海に撒かれている。

カラスは1973年と1974年に来日している。1974年には東京、福岡、大阪、広島、札幌でリサイタルを行った。この日本公演は前年から始まっていたワールドツアーの最後を飾るものとなった。これが生涯における最後の公式な舞台である。

懸命に生きたにもかかわらず、それに値する評価や愛情は得られなかった、というのが私が読んだ本の結論だった。ユーチューブで歌声を聴いてみたがその映像で、マリア・カラスは「 二人の私がいる」と言い、「マリアとして生きるには、カラスの名は重すぎる」と語っていたのが印象的だった。「何事にも最高を望みます」と考えていたのだが、芸術上の成功と私生活の幸福は両立しなかったのである。

真実のマリア・カラス

真実のマリア・カラス