「亀田武嗣の地域と食べ物塾」

YAMI大の新学科「亀田武嗣の地域と食べ物塾」の開講講義をZOOMで聞く。

肉、魚、果物、菓子など、地域との関連でものすごい情報量だ。真珠をつくるあこや貝が輸入のウイルスで危機となり五島列島で新機軸。醤油の味は違うのに量をいうレシピは疑問。日本独自の釣り文化を観光化、、、、。

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ジム:ウオーキング30分3キロとバス。

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「名言との対話」10月4日。今村均「勝ち目のない戦争で部下将兵の命を失うことほど大きな犯罪はない」。

今村 均(いまむら ひとし、1886年明治19年)6月28日 - 1968年昭和43年)10月4日)は、日本陸軍軍人

宮城県仙台市出身。陸軍士官学校、陸軍大学を経て、第16軍司令官、第8方面軍司令官となり、大将に進級。ラバウルで敗戦を迎え、戦犯として禁錮10年の判決を受ける。「武将は戦術・戦略の研究と、将に将たる徳の修養のいずれも欠いてはならぬもの」とした温厚で高潔な人柄は、旧占領国の現地住民のみならず、敵国であった連合国側からも称えられた。

第16軍司令官としてジャワを攻め、9日間でオランダ軍に勝利し、1605年から300年以上続いた圧政を終了させた。北から同一種族が追い払ってくれるという現地のジョヨボヨ予言が実現したことになる。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。 かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」として政治犯スカルノとハッタを釈放した。そして学校の建設など民生に配慮した善政を敷いた。

1942年には、第8方面軍司令官としてニューブリテン島のラバウ ルに赴任。米軍の攻撃を見越して田畑を整備し、自給体制を構築。また、5000人収容の病院を擁する広大な地下要塞を建設した。島への攻撃は損害が大きいとみて米軍は手出しをしなかったため、孤立無援ではあっても自給体制を整えた7万人の将兵は生き残った。ラバウル駐留軍だった漫画家の水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と後に述べている。

戦後の裁判で、オーストラリア軍に対して、「日本の将兵のなかで戦争犯罪人として処罰するものがいるならば、私一人だけを裁けばよい。将兵はみな私の部下で、私の命令を忠実に実行したにすぎないからだ。全責任は第8方面軍令司令官としての私にある」と述べた。死刑の可能性もあったが、善政の評価があり、禁固10年となった。

1950年に巣鴨へ移送されるが、「(部下 は南方の監獄なのに)自分だけ東京にいることはできない」GHQマッカーサー元帥に三度の直訴の手紙を送り、マヌス島へ戻る。マッカーサーは、「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった」と語ったという。

1954年に釈放されると、自宅の庭に三畳の掘立小屋を作り、自主幽閉生活を送った。軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら「今村均回顧録」を4年かけて出版し、印税は全て戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に拠出した。若い頃住んだことのある山梨県韮崎に謹慎のした小屋が移築されている。

敗戦時に決起にはやる部下たちに「勝ち目のない戦争で部下将兵の命を失うことほど大きな犯罪はない」と考え、「君たちは、ラバウルに難攻不落の要塞を見事に築き上げた。そんな優秀な人材たちが、ここであたら命を失っては、日本の再起は覚束ないじゃないか。ラバウルで活躍した君たちのエネルギーを、帰国して国の復興にこそ役立ててほしい」と言い、部下の命を守った。そして戦後には部下を死地に送った責任を取ろうとした。「歎異抄」と「聖書」を座右の書とした今村均は、名将であったが、真価はむしろ戦後にあるともいえる。こういう立派な軍人もいたことを忘れてはならない。