大学でひと仕事。多摩大OBの岡俊輔君と夕食。『名言の暦 平成命日編』の見本が届く。

多摩大卒業生の岡俊輔君と食事。

博報堂傘下のIT企業の中国法人の社長として北京に赴任するそうだ。32歳。多摩センターの但馬屋という焼肉屋で歓談。岡君はIT技術と中国語を強みとして、中国の技術を日本に展開することを専門にしている。まず順調にキャリアを積み重ねている様子。大学生時代に彼からはイケダハヤトさんを紹介してもらったことがあり、講義を持ってもらったことがある。赴任前に、寺島学長、樋口先生、そして私に挨拶と報告をしている。『図解コミュニケーション全集』第一巻と『平成時代の366名言集』を贈呈。次は中国で会いたい。

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大学でひと仕事。

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編集中だった『名言の暦 平成命日編』の見本が自宅に届いた。512ページ。プリント・オン・デマンドでの出版になる。今から中身をチェックするが、問題はなさそうだ。

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「名言との対話」10月7日。和田誠「長男に唱と名前をつけたら、歌手になった、次男に率と名付けたら、数学が得意な子になった。やっぱり、何かあるよね」

和田 誠(わだ まこと、1936年昭和11年)4月10日 - 2019年令和元年)10月7日)は、日本のイラストレーターグラフィックデザイナーエッセイスト映画監督。妻は料理愛好家・シャンソン歌手平野レミ。

行きつけの世田谷文学館で「和田誠展--書物と映画」を2011年にみた。名前を聞いてもピンとこないが、丸谷才一井上ひさしなどの著書の表紙の絵を描いている人と言えばイメージが湧くかも知れない。その丸谷才一が、「イラストレーター、装幀家、デザイナー、似顔絵画家、漫画家、エッチング画家、エッセイスト、映画監督」とあげて、インタビューや対談もうまい、パロディスト、俳人、作曲家、、、と並べながら、むしろできないものは何かというふうに移っていくエッセイを書いている。それほどの多彩な才人だった。

装幀の仕事としては、丸谷才一の本の一連の独特の絵を見て、ああそうか、この絵を描いている人かと納得した。井上ひさし村上春樹谷川俊太郎などの人の本のかなりの部分もこの人の仕事だ。
著作の欄を見ると、1960年から間断なく本が出ている。1936年生まれだから24歳からだ。2011年までの著作数を数えると、188冊だった。それ以降、2018年まで著書は18冊積み上がっているから、200冊を超えている。

以下は、2011年までの業績を挙げてみる。
映像作品は、1957年の21歳かのテレビCMのアニメーションから始まりNHK「みんなのうた」のアニメーションなど35本。
音楽は、1964年28歳から、映画やラジオ、テレビ、ミュージカルなど30本。
個展・グループ展は、1965年の「ペルソナ展」を皮切りに55本。
2011年の時点でも仕事のペースは落ちず、むしろ後半になるにつれて、しり上がりに増えている感じもある。
丸谷は、日本デザイン史の三大デザイナーは歌麿竹久夢二に続き和田誠を挙げ、「この天才的な三人を持つことは、われわれの文化史の花やかな光栄と言っていいでせう」とまで言っている。

文学館で買った「5・7・5交遊録」(和田誠)を読むと、人柄の面白さと、それがゆえに多くの友達を持っている愛すべき人柄がみえてくる。出て来る友人たちをあげてみよう。横尾忠則篠山紀信立木義浩永六輔小沢昭一黒柳徹子渥美清植草甚一草森紳一小松左京野坂昭如寺山修司色川武大阿佐田哲也)、角川春樹、、、。

40年以上続いている「話の特集句会」。メンバーは、黒柳徹子中山千夏下重暁子山本直純中村八大色川武大吉行淳之介吉行和子小室等山本容子南伸坊横尾忠則妹尾河童中村桂子阿川佐和子佐藤充彦、小田島雄志井上ひさし俵万智三谷幸喜、、、、。
小沢昭一の俳号は変哲、永六輔は並木橋吉永小百合は鬼百合、渥美清は風天、田村セツ子はパル子、岸田今日子は眠女、黒柳徹子は桜蘭、中山千夏は線香、山本直純は笑髭、、、。「青リンゴ点となって海に落ちた」(並木橋)、「妖怪のふりして並ぶ冬木立」(眠女)、、。人に宛てて俳句を読むのも面白い。「梅雨空に「悲槍」流れくれゆけり」(岩城宏之あて)、「国語辞典版新しき夜長かな」(井上ひさしあて)

和田誠の句をいくつか。「月冴ゆる大河に小舟出しにけり」「朝粥に汗ばむ街の広東語」「「もう春」と弾みて淹れし紅茶かな」「戒名を拒否せし父に夏花摘む」「早世の友想ひけり帰り花」。

この人は人生を謳歌した人だ。読書界の巨人の谷沢永一渡部昇一との対談で、和田誠『お楽しみはこれからだ』を読むことを勧めている。この本も手にしたい。

2020年4月4日の日経新聞では、「長男に唱と名前をつけたら、歌手になった、次男に率と名付けたら、数学が得意な子になった。やっぱり、何かあるよね」とも語ったと紹介されている。

確かに人は名前のとおりの人になることがある。政治学者の朝河貫一は一筋の道を歩いた。羽田孜首相の「孜」という名前は、孜々としてひたすら励むという意味、その通りの人柄だった。政治家の田川誠一は誠実な人であった。パイオニアの創業者の松本望はいつもひと筋の希望を持ち続けていられた。川喜多長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政からとり、その名のとおりに「映画」をテーマに世界に雄飛した。小説家の 大西 巨人(のりと)は「きょじん」と読ませてその名の通りの巨人になった。日清食品の安藤百福も、人に幸せを与えるようにと命名されて、チキンラーメンカップヌードルを世に出した。、、、、

筆名、四股名、芸名、俳号、筆名、四股名なども面白い。大鵬命名された力士は不世出の大横綱になった。尊敬する先達の名前を自分でつけるケースも多い。谷啓ダニー・ケイ江戸川乱歩エドガー・アラン・ポー久石譲クインシー・ジョーンズ。花登筐は、バーナード・ショー

和田誠の観察のとおり、「名前」には、やはり、何かある。