「立志人物伝」の3回目の授業。テーマは「仰ぎ見る師匠の存在」の2回目。
○渡辺崋山。師・佐藤一斎。○横山大観。師・岡倉天心。○平櫛田中。師・岡倉天心
前回講義のアンケートから。この回答から始めた。
・教室が大きいので画面が見えづらい。ズームにしてもらえると助かる。
・もう少し一人一人の話を掘り下げてほしい。・テキストに書かれていないことをかなり話しているので、メモしきれません。
・オンラインの学生のミュートされておらず音声が混ざって聴き取れない部分があった。
・スライドにもう少し内容を書いて欲しい。
・オンラインで、先生側の声が時たま聞こえなくなってしまうなどあった。
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昼休みは樋口先生と久米先生と歓談。
六本木ミッドタウンのフジフィルムスクエアで「音楽を奏でる写真たち 木之下晃 世界の音楽家」展。木下さんはJAL時代に仕事での知りあったカメラマン。写真集『栄光のバーンスタイン』を購入。
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ロシア料理の「スンガリ」(新宿東口本店)で、橘川さんと中沢さん(日経新聞)との食事会。料理と酒が素晴らしかった。常連らしいお客でいっぱい。
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「名言との対話」10月9日。林房雄「歴史なき民族は民族ではない。言葉を失ったら、、」
林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分市出身。
東大法科中退。在学中新人会に入り学生運動家として活躍。その後プロレタリア文学運動の活動家になり、京大事件により下獄。出獄して「青年」を発表。1933年小林秀雄らと「文学界」を創刊。文学の政治への従属を否定し、プロレタリア作家の廃業を宣言した。のち天皇制護持・戦争推進の立場をとり、戦後はGHQから追放処分を受けた。その後、「息子の青春」(1950年)などの中間小説で復活した。
1963年に 三島由紀夫『林房雄論』が発表される。林は『中央公論』に『大東亜戦争肯定論』を発表。1966年に 三島由紀夫と対談した『対話・日本人論』を刊行。1972年『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を発表。1970年11月25日に、三島由紀夫が自衛隊の決起を促し割腹自殺。葬儀の弔辞で「満開の時を待つことなく自ら散った桜の花」、「日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております」と述べてその死を悼み、「憂国忌」の道筋をつけた。
以上にみるように、林房雄は22歳年下の三島由紀夫との親交が深い。二人の対話を記した『対話・日本人論 林房雄・三島由紀夫』(番長書房)を読んだ。
この本の中で林は「自殺の自由」「自殺の能力」を論じ、それに引きずられて、三島は「文士でもできれば非常にドラマチックに、きれいに死ねば、文学も生きるのだけれでも」と言い、太宰や芥川の死に方は文学が生きるような死に方ではなかったと言っている。私は大学時代、三島のファンであり、割腹自殺に衝撃を受けて、様々の論評を読み漁ったが、この言葉に、やはりそうであったかと自分なりに納得している。
林は天皇の人間化によって戦後の空洞化と頽廃が生じたとし、三島が「人間天皇の名において決起できるか、できたら面白い」と問い、林は「決起するときには天皇は再び神となるでしょう」と答えている。
天皇制は日本人の創作で政治的芸術品であり、象徴である限り人間天皇は神であり得る。その神を求める精神を喪失すれば日本人は単なる俗衆に堕落する。それを守るのが文学だというのが林の考えであった。権力の外にあるものが芸術、文学であり、人間の能力と精神の最高のものが集中され、表現される。だから、芸術は政治に関与してはいけないし、政治は芸術に関与してはいけない、ということになる。
梅雨空のごとくのペシミスト・三島とは反対の青空のごとくの楽天主義の林は、「大衆化社会に対抗できるのは民族だ」、「民衆が歴史をつくるというびは、嘘っぱちです」と持論を語る。「武士道には神道も仏教も儒教も入っているが、中心び天皇があったから、武士道ができた」。そして「人間には仕えないという、高等な精神が日本人にあった」とする日本人論を展開している。
民族のことばの成立には最低1万年、それが文字が生まれる1万年かかる、そこから歴史が始まる。「歴史なき民族は民族ではない。言葉を失ったら、、」とも林房雄は語っている。戦時中の日本のふるまい、現在の多民族国家における少数民族の弾圧など、その中心には、言葉と歴史への攻撃がある。