世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展」ーー読む。考える。書く。

世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展ーーー希望へ橋渡しするひと」。

f:id:k-hisatune:20201013082713j:image

 

以下、会場でメモした言葉と、会場で買った『井上ひさし展』から、井上ひさしの言葉をピックアップする。

・本の読み方十箇条:「オッと思ったら赤鉛筆」「索引は自分で作る」「本は手が記憶する」「本はゆっくり読むと速く読める」「目次を睨むべし」「大事な事典はバラバラにしよう」「栞は一本とは限らない」「個人全集をまとめ読み」「ツンドクにも効用がある」「戯曲は配役をして読む」。

・作文教室:文章とは何か。これは簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人氏しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです。

・文章を書くときの心得:1なによりも一つ一つの文を短くすること。2一般論は絶対に書くな。常に自分を語れ。だれにも書けないことを、だれにも分かるように書く。3主語(S)と述語(V)はなるべく近くに置く。4文の基本形は次の三つしかない。何がどうする(犬が歩く)。何がどんなだ(海は広い)。何がなんだ(彼は会社員だ)。文章を書くときに、この三つのどれにあたるか、つねに確認する。

・演劇そのものが、つまり舞台のそれ自体が絵画であり、音楽でもあり、彫刻でもあり、詩でもあると感じました。演劇はすべてを備えている表現のこと。

・言葉を選ぶときも、私は主に大和言葉を使っています。「洗う」「洗濯する」「クリーニングする」、、自分の皮膚感覚に訴えてくる大和言葉で話し、考えたほうがいいと思います。

・まだ調べのついていないところを空想力と想像力でがばと押しひろげて芝居にする。

・大問題の前に、周縁部の人間や市井の普通人を立たせると、一気に喜劇の要素が立ち上がる。

・「平和を守れ」というかわりに、「この日常を守れ」という。

・日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。

・自分の好きなもの:「大根おろしをのせた炊きたての御飯」「湯呑から立ち上る煎茶の香」「洗濯物を嗅いだときの陽の匂い」「雨上がりの木々のあざやかな緑」「わが子の寝顔」「なにか食べているときの妻の顔」「なにも書いていない原稿用紙の束」「稽古場に差しこむ光の中に浮かぶ埃」「成功した芝居の休憩ロビーのざわめき」「自作新刊本の手ざわり」。

ーーーーーーーーーーーー

多摩:大学にて打ち合わせ

神保町:神保町ブックセンター。

九段下:寺島文庫:寺島学長と面談。

荻窪日本地域社会研究所:「図解コミュニケーション全集」第2巻のスケジュールの相談。社長と懇談。自分史本、富士山、FUJI、集合、、、、、。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月12日。佐田稲子「言葉は不完全と、思うようになって、一層、表現することの、大切さを思う」

佐多 稲子 - 窪川 稲子(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904年明治37年)6月1日 - 1998年平成10年)10月12日)は、日本の小説家である。

18歳の中学生と 15歳の女学生の恋愛の結果として誕生。母親を結核で亡くし、小学校を中退し、神田のキャラメル工場で働く。そして中華そば屋、料亭、メリヤス工場などを転々とした。

上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になり、芥川龍之介菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。芥川は「十七にしては小造りな、むしろ弱々しい体の持主」「形の好く整った鼻と切れの長いきれいな眼と、濃い眉」と書いており、また小島政二郎は「しじゅうニコニコ笑っているかわいい少女」と描写している。

日本橋丸善書店の女店員を志願し店員になる。本が読めると思ったからだ。模範店員であった稲子は資産家の息子である慶應大学の学生と結婚するが、夫の親に反対され、二人で自殺を図る。未遂で終わったがその後離婚している。

「私の青春は、子どもひとり生んでそこからようやく輝き出すようであった」と後に書いている稲子は、東京本郷のカフェーにつとめる。そこで中野重治堀辰雄たちと知り合い、文学への目を開かれていく。1926年、『驢馬』同人の窪川鶴次郎と結婚(のち離婚)。佐多と窪川は中野に女優の原泉を世話している。中野重治は稲子の額の美しさを「edel Stirn」(高貴な石、宝石)と得意のドイツ語でほめている。美人という評判が高かったが、中野重治は「一人の女窪川稲子を見つけたのは窪川鶴次郎であるが、そのなかにすぐれた小説家を見だしたのは私であったといっていいと私は思う」と言っている。

1928年「キャラメル工場から」を発表し、プロレタリア作家として出発した。日本共産党へ入党し、逮捕、転向、再入党、そして除名されている。戦後も長く旺盛な執筆活動を重ねた。左翼運動や夫婦関係の中での苦悩を描く自伝的な作品が多い。また、婦人民主クラブを創立し、女性の地位向上や平和運動に力を尽くしている。

多作な作家であり、受賞歴も豊富だ。1962年、『女の宿』により第2回女流文学賞受賞。1972年、『樹影』により第25回野間文芸賞受賞。1976年、『時に佇(た)つ(十一)』により第3回川端康成文学賞受賞。1983年、『夏の栞』により第25回毎日芸術賞受賞。1983年、長年の作家活動による現代文学への貢献により朝日賞受賞。1986年、『月の宴』により第37回読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞。

プロレタリア文学出身者らしく、「自由にモノが言えることを大事にしたい」と語っていた佐田稲子は、ものを書く中で言葉というもの不完全さを知り、かえって表現の奥深さを思うようになり、小学校中退から、93歳で没するまで自分の入る場所で精進を重ね、作家としても人間としても成長していく姿には感銘を受ける。