「大岡昇平の世界展」(神奈川近代文学館)ーーー「おーい、みんな、、、、」

先週の神奈川近代文学館で開催中の「大岡昇平の世界展」の報告。

大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年明治42年)3月6日 - 1988年昭和63年)12月25日)は、日本小説家評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。

京都帝大仏文科卒。帝国酸素、川崎重工業などに勤務。若き日に小林秀雄中原中也らと出会い、スタンダール研究家として知られた大岡は、1944年、35歳で出征し、フィリピンのミンドロ島に赴くが、マラリア熱で一人残され、翌年米軍の俘虜となり、レイテ島収容所に送られる。九死に一生を得て帰還。

1949年、戦場の経験を書いた『俘虜記』で第1回横光利一賞を受ける。小説家としての活動は多岐にわたり、代表作に『武蔵野夫人』『野火』(読売文学賞)『花影』『レイテ戦記』(毎日芸術大賞)などがある。1971年、芸術院会員に選ばれたが辞退した。
企画展では「知識人である大岡が、一兵卒として体験した戦争。その透徹したまなざしが描き出した作品は、人間の根源的な問いを内包する、優れた世界文学として読みつがれています。戦後75年を迎える今、大岡作品が伝えるメッセージを改めて見つめ直す機会となれば幸いです」と趣旨を説明している。

f:id:k-hisatune:20201013222456j:image

 

 師表としたスタンダールに従って「自分とは何か」を考え続け、還暦を過ぎたあたりから「幼年」「少年」「わが師わが友」という自叙伝を書いている。相場師で財をなした父への反発、母が芸妓であったことを知った衝撃などが記されている。漱石への傾倒を経て、高校時代にランポーを読んだことがきっかけで小林秀雄を家庭教師にしてフランス語を習得した。24歳で死んだ富永太郎と30歳で亡くなった中原中也の詩作品と生涯は終生のテーマとなった。また、大学卒業後に桑原武夫から勧められてスタンダール研究も生涯のテーマとなりスタンダリアンとなった。青山二郎との交友で通称「青山学院」の一員となる。

文体を持っていなかった大岡は 「俘虜記」は特異な体験を翻訳体という新しい表現で書こうとしてできた作品で、人間社会と日本社会の縮図への風刺を意図した。「野火」では飢餓、殺人、人肉食、神など、極限状態の人間を描いた。そして「武蔵野夫人」で人気作家となる。

1953年アメリカ留学し、1年2ヶ月を欧米で過ごす。

1960年代からは人気作家となった。恋愛小説、推理・裁判小説、歴史小説、そして文芸批評では先鋭で辛辣な文章を発表した。「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家となった。以下、論争相手と対象となった作品をあげてみる。 井上靖の『蒼き狼』。海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』。松本清張の『日本の黒い霧』。、中原中也の評価について、篠田一士と。江藤淳の『漱石アーサー王伝説』。森鷗外の『堺事件』。

 この作家は私の「人物記念館の旅」でも何度か登場する。2017年に北九州市小倉の松本清張記念館で「1909年生まれの作家たち」という企画展が行われておりこの記念館を再訪した。「中島敦太宰治大岡昇平埴谷雄高、そして松本清張という並べれた作家たちの生きた時代に興味を持った。1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。この同年生まれの5人の作家の全集が並べてあった。中島は3巻、太宰は12巻、埴谷は19巻、大岡は23巻、そして清張は実に66巻と圧倒的な仕事量だった」。

 2018年に 山口県湯田温泉中原中也記念館を訪問した時の記録。「中原中也を語る 大岡昇平」展をやっていた。2歳年下の友人大岡昇平からみた中原中也像が語られている。強要される。歴訪癖。なぐる(4尺9寸5分の中原が、5尺5寸5分の大岡をなぐった)。からむ。毒舌。茶目。酒に弱い。不幸。いつも自分の感覚しか語らない。「人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」「生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人」「伝説を作る趣味」「生涯すべてを自己の力を通して見、強い、独創的な自分、弱い、雷同的な他人という簡明な対立から世間を眺めた」

企画展で買ってきた『成城だより』を読んだ。「赤い鳥」の少年投稿家、旧制成城高校の一期生であり、自由と童心の人。褒めているのは、新田次郎大西巨人高橋義孝大野晋遠藤周作渡部昇一は批判されている。ゴルフ。88から115までのスコア。優勝からビリまで。「自分をコントロールする興味」だそうだ。

この中公文庫には「作家の日記」がついている、1957年11月から1958年4月までの日記だ。物忘れがひどくなってから「日記」をつけるようになった。それを材料に膨らませた作品である。1958年1月20日は圧巻。「おーい、みんな」から始まる詩は鬼気迫る絶品だ。三島由紀夫は「作家の日記」書評で、「私は鬼気を感じた」と記している。「あんなひどい目に会わしておきながら、また兵隊なんていやな商売をつくろうとしている奴んところに化けて出てやってくれ」「二度とおれ達みたいな、あんな目に、子供や孫は会わせたくない」。

大岡昇平の作品はまだまともに読んでいない。何から読もうか。

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

  • 作者:大岡 昇平
  • 発売日: 2019/08/22
  • メディア: 文庫
 

ーーーーーーーー

午前:大学。

午後:ジム:45分のウオーキング。前後にスチレッチ、バス。

夜:デメケンのミーティング

 ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月19日。上野季夫「1年生のつもりで天体物理学の勉強に取り組みたい」

上野季夫(1911年2月26日ー2011年10月19日)は天体物理学社者。京都大学教授。100歳のセンテナリアン。

第二次世界大戦が終わった翌年の1946年7年余りの軍務を終えて京都大学宇宙物理学教室へ戻る「1年生のつもりで天体物理学の勉強に取り組みたい」という強い思いで研究活動を再開した。当時星の大気モデルの研究において懸案となっていた「opacity table」を早速作成し、再びその研究成果が国際的に脚光を浴びることになる

1950年代半ばライフワークとなる輻射輸達論の基礎となる確率論的手法に関する研究を開始。1957年にはフランスに留学し、2年の間に10編もの論文を発表し「輻射輸達問題の確率論的解析」の第一人者として「世界のウエノ」となった。

1960年にはアメリカの応用数学者ベルマンに招かれランドコーポレーションで共同研究を始めた。

1971年に京都大学を退官し、アメリ南カリフォルニア大学教授を3年間務めた後金沢工業大学に移り13年間つとめた。金沢工業大学を退官後京都コンピュータ学院情報科学研究所所長として活躍した。

 研究者としての面。輻射輸達論の世界的権威。輻射輸達論は「放射伝達論」ともいわれ地球環境問題を科学的に実証する重要な研究分野として注目されているこの問題が起こることをいち早く察知し人工衛星データを用いて地球環境問題に精力的に取り組んだ。生涯400編以上論文発表

教育者としての面。京「本質を見抜く目と純粋な魂を持たれた真の科学者」は、京都コンピュータ学院の長谷川靖子学院長をはじめ教え子も多く彼らは上野の百歳を記念して2011年3月にシンポジウムを開催している。その人柄を慕う後輩たちは百歳のお祝いのシンポジウム。誠実で高潔な人柄のナなせるわざだろう。これが特筆すべきところだ。

そういえば、還暦を迎えた柳田国男は、「還暦祝賀会は呑気な江戸の町人隠居のやること」であり、お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」と弟子たちにはっぱをかけている。またその影響受けた梅棹忠夫は、還暦記念として比較文明学シンポジウム「文明学の構築のために」が開催しており、梅棹は「生態系から文明系へ」という基調講演を行った。

百寿記念シンポジウムの開催は、100歳でもなお前を向き続ける精神の表明だ。還暦、古稀喜寿、米寿、白寿、百寿、、。こういった節目には単なるお祝いをすべきではない。上野季夫のセンテナリアン人生からは、「 1年生のつもりで取り組む」精神を学びたい。