21人の合同歌集『紫苑』を読んだ。「歌はいい」と改めて感じる歌集だった。
選者・久恒啓子の「はじめに」は、「年を重ねると人生から学びとった深い想いを詠えるはずです。それらを表現して、命つきるまで、人生を、日常を、家族を、現代社会を歌い続けていこうではありませんか」とのメッセージだ。
久恒啓子「風のいとなみ」から。(「子」は私です)
・憶良らも旅人も梅香の宴より「令和」と決むとはゆめ思ふまじ
・「韋駄天の」ドラマに映る東京高等師範(こうし)亡き父の通ひし登り坂見ゆ
・今際のことは思はず明日のみを考えよと子に言はれたりさうかも知れず
・次の世もこの二男一女の母でゐたし古きアルバム捲りつつゐて
・「出身は福澤諭吉の中津」と子カメルーンの中津江村かと聞かれ
・「啓坊」と幼名にて起こす盆休み古稀同窓会に帰省せし子を
近藤恭子「一粒の真珠」から。(「夫」は私です)
・宇野千代の着物の柄を描くように濡れし舗道に桜散り咲く
・母危篤の知らせに駅へ急ぎ行く空はこんなに何故青いのか
・来年も見られるかねと言う母の髪にふわりと花びら散りく
・紫のネオンをまとう東京タワー貴婦人のごと街を見下ろす
・読みさしの本重ねたる枕辺に今朝くずれ落つ子規も茂吉も
・良き歌を詠みたし今日も一粒の真珠のごとき言葉を探る
・眠られぬ夜などなしと言う夫の艶やかな顔うらやみて見つ
・携帯で見えない人と繋がる夫目の前のわれと係りもなく
・「うん、うん」と条件反射の生返事夫は手元の活字を追いて
・隣室より聞こゆる夫のしわぶきに編む手をやめて耳をすましぬ
・発表会にわたしが歌う「アヴェマリア」口遊(ずさ)みいる休日の夫
植山恵美子・万葉集の庶民に光をあてし師の訪ひし歌の地文献あまた
植山ヒロ子・白鷺の舞ふ下り水面(みのも)の影うつし後継者なき田をゆっくり歩む
岡野公子・友の家捜しあぐねてふと見あぐつるし柿ありここぞ友の家
尾坐新子・大樹なるあふちの花房ゆらぎをり万葉集の師送りゆく道
黒川厚子・投票をすませて庭の草取りす雑念もともに抜き去りてゆく
後藤マサエ・ルノワールの「浴女たち」とふ乙女らの肥満度に吾の安堵をしたり
佐田正子・去年逝きし老いの空家に真白なる鉄線咲きぬ仏花のごとく
自見則子・此処にいたよと玄関口に足跡を残して帰り行きたり子らは
田中清美・仕合せはささやかくらゐでちやぅどいいたとえば笑ってごはん食べたり
恒成美代子・『豆腐屋の四季』の舞台の消え失せて松下竜一の下駄の音聞こゆ
友松扶美子・文化の日に祝われる人は二十六名短歌学びいる啓子氏もいる
長岡玲・夫の古希祝ってくるるは教え子ら離れ住む子は知るや知らずや
中島陽子・朝の床手足の動き確かめて今日のひと日を大事に生きむ
不二夫かかつよ・柚子ちぎり香り散らして落ち葉掃くこの一時を惜しむ日も来む
古田たきえ・才あらば仕上げて見たし亡き夫の描きし油絵の未完成品
水野妙子・熊本の地震は大地を切り裂きて行く手に伊方原発がある
三原養子・少女のごとき微笑み見する横松さんの遺影の「前に涙ぬぐひぬ
山本玲子・郷土史を語る友逝く糟糠の妻に感謝の言葉なきまま
横松知子・亡き夫の著書読みふけり居て真夜三時活字が夫の声にかわり来
「おわりに」。後藤マサエ「いつも的確に短歌の批評を頂き、頭脳明晰の上豊かな情感を持ち合わせて、またこの合同歌集の選者として本を組んで頂いた久恒啓子先生へお礼申し上げます」。
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「立志人物伝」の5回目の授業。「敵・ライバル」がテーマ。
岡本太郎とピカソを中心に講義。他は、三島由紀夫と川端康成。ゲイツとジョブス。大鵬と柏戸。 以下、前回4回目の課題レポートから。
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昼休み:樋口先生と久米先生。大森拓也先生
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「名言との対話」10月23日。宋美齢「もしわたしを捕まえようとしたら、あなた、すぐこれでわたしを撃ってね」
宋 美齢(そう びれい、ソン メイリン、1898年3月4日(1898年2月12日、1901年など諸説あり) - 2003年10月23日)は、中華民国の指導者蔣介石の妻。
客家の宋耀如の娘たちは 「宋氏(家)三姉妹」と呼ばれた。長女宋靄齢は、孔子の末裔で財閥の孔祥熙夫人。次女宋慶齢は、孫文夫人で中華人民共和国副主席。三女宋美齢は、蔣介石夫人。孔祥熙と宋慶齢はともに日本で孫文の秘書をつとめ、ともに日本で結婚式をあげている。中国では宋家の三姉妹について、1997年の映画『宋家の三姉妹』の影響から「宋靄齢は金を愛し、宋慶齢は国を愛し、宋美齢は権力を愛した」と評されることがある。
宋美齢はアメリカのウェスリアン女子大学卒業。 1927年蒋介石と結婚。 1930~32年国民政府立法委員。 1938年婦女協会新生活運動理事長。第2次世界大戦後訪米してアメリカの対国府援助引き出しのために活躍した。 1946~50年国民党執行委員。 1950年国府の婦女反共抗俄 (露) 連合会会長。 1969年党第 10期中央評議委員。1975年蒋の死後、後継者は異腹の蒋経国となり、主としてアメリカに滞在し政治活動を行った。
1943年のアメリカ下院での抗日の演説、そしてカイロ会談での蒋介石の通訳として活躍した。アメリカと蒋介石を結んだ功績は大きいものがある。1981年には宋慶齢が危篤となり、中国は帰国しての見舞いを誘ったものの、断っている。
1936年 12月の西安事件では、張学良軍に捕らえられ、監禁されていた蔣介石の解放に向けて自ら西安に飛び、側近に「もしわたしを捕まえようとしたら、あなた、すぐこれでわたしを撃ってね」語った。張学良との会談を行い蔣介石の解放へ向けた折衝を行い救いだした。そして蔣介石に張学良軍や中国共産党軍との「統一戦線」の構築(国共合作)による抗日を訴えて実現させている。宋美齢は覚悟の人だった。その宋美齢は106歳のセンテナリアンであった。
私は中国の上海と広州の孫文記念館、神戸の孫文記念館、中国青島の蒋介石の旧居、台湾の国立国父紀念館(孫文記念館)、中正紀念堂(蒋介石記念館)、北京の宋慶齢故居などを訪ずれたことを思い出すが、宋美齢は、波乱万丈の劇的な生涯を記す回顧録も残すことを拒否している。