中津。同級生達と久しぶりの交歓。

午後2時過ぎに中津に到着。

夕方5時から深夜の午前1時過ぎまで8時間にわたって同級生たちと交歓した。店は5軒。

途中、井上尚哉の鮮やかなノックアウトシーン。そして大阪都構想の否決のニュース。

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「名言の暦」11月1日。石堂淑朗「私の文章の仕事は本書で終りました。後は明快で実相寺昭雄今村昌平と会うだけです」

石堂 淑朗(いしどう としろう、1932年7月17日 - 2011年11月1日)は、日本の脚本家評論家。  

 広島県尾道市生まれ。東京大学文学部卒業後、松竹に入社。シナリオ執筆、助監督を務めた後、独立。日本映画学校校長、近畿大学教授を歴任。

という経歴だけを見ればまともな人生を送ったとの感じをするが、実はそうでは無い。一筋縄ではいかない人であったというのが私の印象である。

学制改革期に共学化に反対して高校を2年で中退し、大検に合格して1年早く広島大学に入学。中退して東京大学文学部独文学科に入学した。東大では種村季弘吉田喜重らと知り合い同人誌を刊行し、卒業後は松竹大船撮影所に入社して助監督として働く。
1960年には『太陽の墓場』で脚本家デビューし、大島渚らと「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれる映画革新運動の中心的役割を果たしていた。1961年に大島との共同脚本である『日本の夜と霧』が安保闘争をテーマにしていたためか、松竹が無断で上映を打ち切ったために退社し、大島主宰の「創造社」の同人となった。
1965年以降は大島と決別し、フリーの脚本家としてテレビでの活動が増え、『マグマ大使』、『シルバー仮面』や『帰ってきたウルトラマン』などの特撮ヒーローもの、『必殺仕掛人』や『子連れ狼』といった時代劇、SFドラマ『七瀬ふたたび』、銀河テレビ小説の第1回作品『楡家の人びと』などさまざまなジャンルの作品を手がけている。
ウルトラシリーズで有名な実相寺昭雄とは友人であり、名作と名高い『怪奇大作戦』京都編の「呪いの壺」、初映画監督作品にしてロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞した『無常』をはじめとした映画脚本を担当した。

また、今村昌平が創設した日本映画学校で、大庭さんが演出、そして石堂が脚本の講師となって、人材育成にもかかわっている。

著書「偏屈老人の銀幕茫々」を読んだ。毒舌が満載の本だ。まさに本人が気にいっているという「偏屈老人」の自叙伝である。

「木下くんは才能があったが教養ない、私は教養はあるが才能がない。へつへつへ」。その通りなので、そのまま聞いたとある。他にも、映画界の著名人のエピソードが面白い。

この本のはじめには「私の文章の仕事は本書で終りました。後は明快で実相寺昭雄今村昌平と会うだけです」との文章が目立たないように記してある。遺書のつもりで、毒舌をふるったのだ。

 

石堂淑郎「偏屈老人の銀幕茫茫」(筑摩書房