中津2日目:「週刊現代」の取材。母を見舞う。

中津で「週刊現代」からズームで取材を受けた。はしだのりひことシューベルツの「風」についての取材という珍しいテーマだった。

日本人の美意識。無常観。本よりも短詩、短詩よりも歌。いつか詠み人知らずに。40年周期。記憶の集積。茫茫。戦後世代。口笛。国道16号線きたやまおさむ福岡伸一。カラオケ。一人旅。、、、。

ズームでの雑誌取材は2回目だ。お互いの顔を見ながらの会話なので、電話取材よりもうまくしゃべれるような気がする。来週発売の「週刊現代」に載ることになった。

3月から施設に入っている93歳の母親を訪ねた。コロナの影響で短い時間だったが、スタッフや友人たちに紹介された。快適な暮らしで満足の様子で安心した。母と明日の県知事賞受賞式の打ち合わせ。

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昼は蓬莱軒でラーメン。夜はたっとり屋。いずれも藤田君と。

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「名言との対話」11月2日。高橋昭博「憎しみで憎しみを消し去ることはできない」

 高橋 昭博(たかはし あきひろ、1931年7月26日- 2011年11月2日)は、日本の元地方公務員(広島市元職員)、原爆被爆者広島平和記念資料館元館長。

1931年、広島市生まれ。14歳で被爆した。広島市職員となり、1979年から1983年まで原爆資料館館長を務めた。

高橋の著書「ヒロシマ いのちの伝言」(平凡社)を読んだ。

被爆者として天職を得たと感じた高橋は、今までやってきた「語り部」活動を思いっきりやることになった。1幕資料の整備、被爆者の証言テープの設置、などを行なっている。また、ローマ法王ヨハネパウロ2世、世界各国の大統領や首相、王室、デクエヤル国連事務総長夫妻、など訪れた人に説明を行っている。

高橋は1960年以降、毎年行われる8月6日の平和記念式典で広島市長が読み上げる「平和宣言」の作成作業にも関わっている。特に原爆資料館長の後に就いた広島平和文化センター事業部長として、「宣言」の作成に直接関わるようになった。そのドラマも興味深い。

「志を共にした人たち」という項目では、荒木広島市長、平和文化センター理事長の河合護郎、小倉馨、木山香寿美、、などを上げている。

高橋はNHK放送文化賞を受賞するのだが、この受賞を励みに、「語り部」と言う定年のない務めを果たすことになる。

アメリカ軍の原爆投下作戦命令書には何が書いてあったか。アメリカは無傷の都市を対象として原爆の効果を確かめようとし、広島にはウラン原爆、長崎にはプルトニウム原爆という異なった種類の原爆を投下した。破壊効果を比較しようとしたのである。広島での攻撃目標は「市中心部」であった。これは人体実験であった。アメリカの原爆投下正当化のための論理は、原爆投下がなければ日米合わせて100万人の命が犠牲になったであろうというものであった。しかし広島では長崎では30数万人の犠牲があったのである。

高橋の「語り部」としてのメッセージには最後に必ず次の5つがある。「出会いを大切に生きてほしい、人の痛みを共に分かち合う心を持ってほしい、憎しみで憎しみを消し去ることはできない、1人の力は決して無力ではない、勇気とチャレンジ精神を忘れないでほしい」。最後まで「語り部」として天職に励んだ高橋の「憎しみで憎しみを消し去ることはできない」を受け止めたい。

 

ヒロシマ いのちの伝言―被爆者 高橋昭博の50年

ヒロシマ いのちの伝言―被爆者 高橋昭博の50年

  • 作者:高橋 昭博
  • 発売日: 1995/06/01
  • メディア: 単行本