後姿探検隊、秋の公園をゆく。深呼吸学部の授業「吉本隆明と林雄二郎」

 

後姿探検隊、秋の公園をゆく。

f:id:k-hisatune:20201121190949j:image

f:id:k-hisatune:20201121190953j:image
f:id:k-hisatune:20201121190957j:image
f:id:k-hisatune:20201121190941j:image
f:id:k-hisatune:20201121190936j:image

 

ギャラリーカフェを発見。

f:id:k-hisatune:20201121190945j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

20時から深呼吸学部(ZOOM)に参加し、橘川さんの講義を聴く。

触発されて浮かんだアイデア:父の世代。独学の人。転向論。構造と関係。漱石のキャリア論。職種と業種。死と影響力。2000年前後の「レイランド」(久恒バーチャル総研はどこに?)。2007年頃の「セカンドライフ」。

2007年「VOICE」11月号。

k-hisatune.hatenablog.com

k-hisatune.hatenablog.com

k-hisatune.hatenablog.com

  • 吉本隆明:詩人。転向論。偽物との論争。糸井重里渋谷陽一。廃人の歌。「大学を卒業して企業に就職することが転向ではない。自分の問題意識を追求しなくなることが転向なのだ」。「あそこにあるものはここにもある。ここにあるものはどくにでもある」「大衆には知識人の顔で向かい合い、知識人には大衆の顔で向かい合う」。意識は幻想。個人幻想、対幻想(関係の中で生まれる)、共同幻想(社会全体でつくられる幻想)。
  • 分類:シソーラス。図書分類法。Cコード。検索の便利と退化。辞書を引けない。研究テーマを見つけていく過程で幅が身についていたが、今は最先端の問題がわかるようになった。専門バカ化。世界観。構造。体験と実感。ライフ&ワーク。シーンと動詞。実感(カオス)と体験(システム)。直感と客観。
  • 林雄二郎:手紙。友人。社会的ソフトウェア。「人の死は出会った人間がすべて死ぬときだ」(橘川)
  • 旅芸人一座(平野座長):日曜日10時、人を喜ばせる仕事。VRは世界をつくれる。不登校。メタバス。3つの世界(リアル・リモート・バーチャル)、、、。

--------------

「名言との対話」11月21日。会津八一「日々新面目あるべし 」

会津 八一(あいづ やいち、會津 八一1881年明治14年〉8月1日 - 1956年昭和31年〉11月21日)は、日本歌人美術史家・書家

 会津八一は、1881年8月1日に新潟県で生まれた。すべて8と1で構成されていたので八一と命名された。19歳の頃、新潟での坪内逍遥の講演会に出席し、逍遥の態度と雄弁に感動し、後に生涯の師と仰ぐ端緒となった。1900年に上京するが、脚気を病み帰郷する前に、俳句の正岡子規を訪ねている。八一は逍遥と子規を文芸の師として尊敬する。

早稲田大学文学部を卒業した八一は、26歳で新潟県の有恒学舎の英語教師となる。その後、早稲田中学の英語教師となり、33歳の頃早大文学科講師、40歳で東洋美術史講師となり、美術品の収集を開始する。51歳文学部教授、54歳文学博士、58歳文学部芸術学専攻主任教授、65歳辞任、76歳死去。

早稲田大学の「会津八一記念博物館」は、早稲田大学キャンパス正門近くに位置する旧・図書館を用いている。2005年に坪内逍遥記念演劇博物館訪問の帰路に見つけて入った。この建物は1925年に建てられ、早稲田大学の中でも最も古くかつ優美な建物と言われている。様々な機会にこの人の名前を聞くことがあった。勉強会の先輩の言葉の中だったり、中津市池大雅の書や絵を保存している自性寺で出会ったりしている。いつもこの人はどういう人なのだろうかと関心を持っていた。演劇博物館の表にある逍遥の銅像に添えた歌も会津八一だった。2016年にも企画展で訪れている。

2019年に新潟市の縁の深かった新潟日報の高層ビルにある会津八一記念館を訪問した。ここで会津八一についてじくり向かい合った。まず、1950 年生まれのリービ英雄のビデオ解説「会津八一の愛した社寺、仏」を聞く。中学時代から、良寛の歌に惹かれ、子規にも影響を受け、「東北日報」に投稿する。20歳にして「東北日報」俳句欄の選者となる。坪内逍遥の講演を聴き、態度と雄弁に感動シュル。上京後、尾崎紅葉正岡子規と面談している。子規に『良寛歌集』を贈る、それが越後の良寛から日本の良寛になるきっかけだった。逍遥のいる東京専門学校に入学し、逍遥の指導を受ける。東京帝大を離れ一時早稲田で教鞭をとった小泉八雲にも刺激を受けている。女子美術学校の渡辺文子という才女と恋仲になるが、文子の父から応諾は得られない。八一は生涯独身であった。

早稲田を卒業し郷里新潟県の有恒学舎で英語を教える傍ら、小林一茶を研究し、一茶の「六番日記」を発見した。29歳で再び上京し逍遥が校長をつとめている早稲田中学校の教員となる。一茶についての講演は相馬御風も聴いていた。相馬は新潟県人で良寛研究家、早稲田大学の「都の西北」の作詞者となった人だ。」で新渡戸稲造柳田国男鳥居龍蔵らの郷土研究会に参加。3年後、

1918年(大正7年)以来、八一は早稲田中学の教頭の地位にあったが、受験名門校にしようとする方針と相いれず、悩み中国、四国、九州へ旅する。このとき、私の故郷の中津を訪れて、自性寺の大雅堂をみている。「葡萄の図並びに賛」をみた。「自己が書家として開眼し、その独自性の自信を得たのは、この自性寺の大雅との出会いのときからである」。「大小すべて四十七枚あり。一巨観たるを失はず。山陽の為に山国川を遡るものは甚だ多きも、下流に此一勝あるを忘れるるもの少からず。これを霞樵山人のために悲しむ」。八一は42歳であった。別府から再び自性寺に寄り、耶馬渓に入る。「谷川のきしにかれふすばらの實のたまたまあかくしぐれふるなり」「ひとみなのよしとふ紅葉ちりはててしぐるる山をひとりみるかな」」「時雨ふる山をしみれば心さへぬれ透るべく思ふゆるかも」

教頭職を辞した八一は、毎年のように奈良を歩く。写真家・小川晴暘と出会い、協力し『室生寺大観』に結実する。「ふじはら の おほき きさき を うつしみ に あひみる ごとく あかき くちびる」。八一初の歌集は43歳で『南京新唱』。部数800.152首。斎藤茂吉は真淵らが及ばなかった境地であると評している。1923年、関東大震災。「うつくしき ほのほ に ふみ はもえはてて ひと むくつけく のこり けらし も」「わが やどの ペルウ の つぼ も くだけたり な が パンテオン つつがあらず や」。1925年(大正14年)早稲田中学を辞し、大学の付属高等学院教授、翌年には大学文学部で東洋美術史の講座を持つ。「法隆寺 法起寺 法輪寺 建立年代の研究」で昭和9年に文学博士号が授与される。還暦を迎え、全歌集的な『鹿鳴集』を刊行し多くの文化人から賛辞が寄せられた。この歌集は完全なひらがな表記である。「仮名のみにして記しても、尚ほ人のたやすく理解しくるる如き歌作らばや、と己を鞭ちつつある」。1946年(昭和21年)、新潟に新しい新聞「夕刊ニヒガタ」の創刊にあたり、社長就任を要請され承諾する。『会津八一全歌集』、『自註鹿鳴集』を刊行。『全歌集』では読売文学賞を受賞した。ひたがな表記に加え、品詞ごとに一字をあける区切り法を実行した。1950年(昭和25年)古希。新潟県立図書館に歌碑「みやこべ を のがれ きたれば ねもごろに しほ うちよする ふるさと の はま」

1953年(昭和28年)、宮中歌会始の召人。「ふなびとは はや こぎ いでよ ふき あれし よひ の なごり のなほ たかく とmも」。会津八一は1036首と寡作である。与謝野晶子は5万首超、43歳で亡くなった若山牧水は8000首。味わい深い作を詠むというのが作歌観であった。詞書とセットだった。短歌と自註が一体となって鑑賞者を挑発するのである。1956年(昭和31年)、75歳で永眠。1998年(平成10年)、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館前に、逍遥の胸像の下に組み合わされて歌碑が建立された。「むかしびと こゑ も おがらに たく うちて とかしし おもわ みえ きたる かも」。 「わたしのすべての芸術上の主義は、誰にもわかるようなことを誰にもわかるように表現して、その上に詩でも、あるひは歌でもあらねばならぬと思っている」。 

1927年、大隈講堂において早稲田大学創立45周年祝賀式典が行われ、会津八一が講演をしている。演題は「実学論」であった。この博物館の2階の入り口に掲げてあった額が、「実学」という言葉だった。

会津八一は早稲田大学英文科講師時代に自宅を秋草堂と呼び書生を教育する。「秋草堂は我が別号なり。学規は吾率先してきゅう行し、範を諸生に示さんことを期す。主張この内にあり、同情この内にあり、反抗また此内にあり」。この学校の学規は「一、深くこの生を愛すべし 一、省みて己を知るべし 一、學藝を以て性を養ふべし 一、日々新面目あるべし」だ。これを生きる指針とした学生は多い。「人間の条件」「東京裁判」などをつくった小林正樹監督は戦争が終わったとき、「将来の事は東京の地を踏んでから、ただただ先生の学規にそくした生活に一生をささげる覚悟で居ります」と八一への手紙で報告している。この手紙は世田谷文学館でみつけた。坪内逍遥会津八一、小林正樹という師弟の歴史をみても、教育が人に与える影響力の強さを思わざるを得ない。

 秋草堂の学規の項目はすべて心に響くが、特に「日々新面目あるべし」が私には刺さる。日々新しい自分であれという意味だろう。 

会津八一 (新潮日本文学アルバム)

会津八一 (新潮日本文学アルバム)