VRで遊ぶか。

オキュラスを購入。VRの世界へ。リアルとリモートとバーチャルの3つの世界へ。

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・U社:新宿のサザンタワー20階で、「偉人の名言」に関わる新企画を聞き、アイデア出し。来年はこの大型企画を楽しもうか。

・新宿3丁目の「らんぶる」。橘川さんに日販の柴田さんを紹介してもらう。橘川、平野で、VRの手引きも考えている模様。

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「名言との対話」11月24日。岸田稚魚「投げ出せし大足拝す夜寒かな」

岸田 稚魚(きしだ ちぎょ、1918年大正7年)1月19日 - 1988年昭和63年)11月24日 )は俳人

東京生まれ。代々の酒屋で父も俳人だった。水原秋桜子主宰の「馬酔木」の新年句会に参加し、翌年から「馬酔木」に投句を始める。1940年、結核の療養のため、茅ヶ崎南湖院に入院し、「療養俳句」とも言われた石田波郷が選者の「療養知識」の俳句欄に投句を始める。1943年、波郷の主宰誌「」に参加する。1948年、「鶴」の休刊にともない、波郷の命により、加藤楸邨主宰の「寒雷」に所属する。加藤楸邨は波郷とともに、自己の生活を見つめ、人間性に深く根ざした作風によって人間探求派と呼ばれた波郷の同志だ。「俳句は私小説である」とする 境涯俳句を主張した師の波郷は、作者の人生・境涯に根ざした俳句が大事であるとして、病気・逆境・貧困を詠うことをすすめた。花鳥諷詠ではなく、人間探求派と呼ばれた人生俳句の流れである。

戦後最初の「鶴」句会のときは、波郷は33歳、岸田は27歳であった。岸田は1953年の「鶴」復刊に伴い、翌年「鶴」に復帰する。「鶴」復刊の巻頭言にある「俳句は生活の裡に満目季節を望み、蕭々又朗々たる打座即刻のうた也」に感動し、岸田は青春を賭ける。

師の波郷は1969年に死去するが、その前年に岸田は超結社の勉強会「塔の会」を結成する。1976年には同人誌「琅玕」を創刊し、翌年、結社誌「琅玕」を創刊する。

 句集は、1951年の『負け犬』から始まり、『筍流し』、『雁渡し』、『雪涅槃』、『萩供養』、『花盗人』、 1989年の『紅葉山』まである。選集としては、『岸田稚魚集』、『花神コレクション〔俳句〕 岸田稚魚』。また評論・入門書として、『俳句添削教室』(共著)、『俳句上達の早道-添削300句』などがある。1957年の第3回角川俳句賞、1973年の第12回俳人協会賞を受賞している。1986年の第29回新協美術展で東京都知事賞を受賞するなど、写真の分野でも活躍した。岸田は多才な人であった。

岸田稚魚の俳句を眺めて気に入った句を以下にあげる。「をのこ子の父となりける秋刀魚苦し」「春愁や身籠りの腹美しき入学の日の雀らよ妻と謝す」「鳥なんぞになり炎天に消えなむか」「バス降りし婆が一礼稲穂道」「寒の坂女に越され力抜け」「胸ぐらに母受けとむる春一番」「少女と駈く一丁ほどの夕立かな」「露霜の紅さして母残りけり」「水温む赤子に話しかけられて」。

「初対面の波郷先生は、病やつれはしていたが、しかしたのもしい師であった」と述懐する岸田稚魚は、「投げ出せし大足拝す夜寒かな」との句を詠んでいる。大足の持ち主は波郷である。岸田稚魚の俳風は、「鶴」の境涯性に加え、洗練された都会的なスマートさや豊かな韻律性が特色である。この人は師の掲げた松明を継ぎながら、自分の特色を加え、新たな自分の城を築いた人である。