東京オペラシティ・アートギャラリー「生誕100年 石元泰博写真展 伝統と近代」

東京オペラシティ・アートギャラリー「生誕100年 石元泰博写真展 伝統と近代」。

移民の子としてアメリカ合衆国サンフランシスコに生まれる。3歳のときに、両親の故郷である高知県高岡町(現・土佐市)に移り住む。1939年高知農業学校を卒業後に再渡米し、カリフォルニア大学農業スクールで農業を学ぶ。第二次世界大戦中1942年から1944年まで、日系人の強制収容さされる。、この収容所で写真に興味を持つようになる。1944年、シカゴに移住。ノースウェスタン大学建築科から転じて、シカゴ・インスティテュート・オブ・デザインで「一日29時間写真に向かう」と言われるほどの勉強ぶりだった。在学中にモホリ・ナギ賞を2回受賞している。

1953年に再来日。ニューヨーク近代美術館建築部長のアーサー・ドレクスラー、建築家の吉村順三らとともに日本の伝統建築を調査し、1954年には1ヶ月にわたって桂離宮の撮影を行う。1955年、桑沢デザイン研究所講師。1956年、華道家の滋子と結婚。仲人は丹下健三だ。1957年、「日本のかたち」「桂離宮」で第1回日本写真批評家協会作家賞を受賞。1966年、東京造形大学教授。1969年、日本国籍を取得。1978年、「伝真言両界曼荼羅」で芸術選奨文部大臣賞、日本写真協会年度賞、世界書籍展の「世界で最も美しい本」金賞を受賞。1993年、勲四等旭日小綬章受章。1995年に式年遷宮撮影の機会があり、モノクロで撮影された「伊勢神宮」を上梓。「実際の建築より石元さんの写真のほうがいい」という評価ももらう。1996年文化功労者。2006年、80歳で滋子死去。2012年90歳で没。高知県立美術館に「石元泰博フォトセンター」があり、深める・広める・つながるという分類になっているコレクションがある。3.5万枚の写真、15万のフィルムが所蔵されている。

 東寺(教王護国寺)の両界曼荼羅の写真に興味があり、この企画展を訪問した。やはり圧巻だった。胎蔵界の400尊超、金剛界の1461尊と諸尊に最低4回ずつシャッターを切った作品。できた当時の色合いを出すことに苦心した写真は「復元」と評価された。カラーのふくよかな表情はエロスを感じさせる。この写真を使った杉浦康平の構成・造本、田中一光の企画展などで、密教ブームが起こった。

石元は曼荼羅の仏のように「いやなものを切り捨てるのではなく、フレームに区切られた空間というのは、すべてを凝縮したものでなくてはいけない」と思うようになる。物事の両面を全体として見る視点に共感している。

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多摩ニュータウンの造成中の写真が数枚。近代建築では、国立民族学博物館があり、梅棹忠夫が民博とともに写っていた。

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 東京オペラシティの中庭で。

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永田町のP社会議室にてロングインタビューの5回目。3時間。対話という方式のよさを実感。

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「名言との対話」12月8日。三波伸介「ギャラが一番高くなっても、喜劇王になった訳じゃない。良い芝居を残さなくては、、、、、」

三波 伸介(みなみ しんすけ、1930年6月28日 - 1982年12月8日)は、コメディアン俳優司会者タレント

 日大芸術学部映画学科中退。「三波伸介戸塚睦夫伊東四郎の3人でぐうたらトリオを結成していたが、後に「てんぷくトリオ」に改名し、舞台やテレビのバラエティ番組で人気となった。

三波は1970年に日本テレビの「笑点」の3代目司会者となる。番組はもちろん、南自身も芸人とてブレイクする。NHK総合テレビお笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナー、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会や、『スターどっきり(秘)報告』や毎日放送TBS伸介のグリコがっちりショッピング』、東京12チャンネル→テレビ東京三波伸介の凸凹大学校』などの司会をつとめた。

 多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の1982年に52歳で急死する。墓石には、三波の座右の銘であった「喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介」と刻まれている。

後輩のコント55号の萩本欣一からは「お兄さん」と呼ばれ、同世代のザ・ドリフターズいかりや長介とは親友だった。渥美清藤山寛美にはライバル意識を持っていた。テレビ出演料が日本一高くなった時も、「ギャラが一番高くなっても、喜劇王になった訳じゃない。良い芝居を残さなくては…」と、50歳あたりからテレビの活動を減らし、心機一転して舞台に力を入れ始めたのだが、わずか数年で断たれてしまった。映画は渥美清、舞台は藤山寛美、そして、テレビは三波伸介といわれていたが、喜劇という同じ土俵で彼らと戦おうとしていた。戦前のエノケン、ロッパ、金語楼の時代と同じように、2つ上の渥美清と1つ上の藤山寛美と黄金時代を築こうとしたのだ。
HPの「三波伸介記念館」が三波伸介を紹介している。昭和40年代後半~昭和の終わりまでのTV番組の黄金期は、ドリフ、コント55号三波伸介の時代であり、三波伸介は高い視聴率を稼いでいた。「笑点」は40%を超え、「お笑いオンステージ」は大河ドラマより高く、「三波伸介凸凹大学校」はテレビ東京初の20%超、「スターどっきり(秘)報告」は25%台を常に取っていた。確かにこの人のお笑いのセンスは群を抜いていたとの記憶がある。12月8日のブログには、「12月12日と12月19日 二代目三波伸介が 笑点三代目司会者の初代三波伸介役で出演した笑点ドラマの再放送があるそうです」との情報が載っている。このHP記念館は38年経っても生き続けているようだ。

三波伸介といえば、「びっくりしたなあ、もう」というギャグが今でもその表情とともに耳目に残っているが、「テレビで名は売った。残りの人生は、喜劇黄金時代の復活だ!!」と決意し、「良い芝居を残そうと」したのだが、その志が未達に終わったのは惜しまれる。