立川のけやき出版発行の「BALL」第2号が届くーー素晴らしい仕上がり

立川のけやき出版発行の「BALL」第2号が届く。

新しい働き方を提案する情報誌。30-40代のファミリー層や、多摩への転入者、23区の自然愛好者などが読者ターゲット。第2号は素晴らしい仕上がりになっている。第1号は日本地域情報コンテンツ大賞2020 タウン誌部門で最優秀賞を受賞している。編集は多摩エリアのクリエーターたちとの共同作業というスタイルもいい。

私も第1号に続き、第2号では2度登場している。

  • 「絶対的エース、多摩」:長島先生と私の対談で登場。「アーバンカントリー」「公と私だけでなく個を大切に「国道16号線」「幸せとは何か」「八ヶ岳型の多中心がいい」「多摩の時代」
  • 「図解で理解 多摩の会社図鑑」:株式会社けやき出版を対象にした図解の監修者で登場。

情報誌BALL. タウン誌部門で最優秀賞受賞! | BALL. WEB MAGAZINE

地域資源を仕事にする会社や人を通して、新しい生き方や働き方を提案する内容をコンセプトにした。30~40代のファミリー層や、多摩地域への転入者、23区在住で自然に興味のある人を主な読者層に設定する。
地域資源を仕事にする会社や人を通して、新しい生き方や働き方を提案する内容をコンセプトにした。30~40代のファミリー層や、多摩地域への転入者、23区在住で自然に興味のある人を主な読者層に設定する。

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10時:大学にてスケジュール確認、授業準備。

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15時:自宅:ZOOMで研究開発機構評議員会の総研所長として出席。

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19時半:デメケン・ミーティング

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 「名言との対話」12月14日。サハロフ「最も重要なのは、熱核戦争で文明と人類が破滅することである」

アンドレイ・ドミートリエヴィチ・サハロフ: Андре́й Дми́триевич Са́харов1921年5月21日 - 1989年12月14日) は、ソビエト連邦理論物理学者・政治家物理学博士

1975年発刊のサハロフー原卓也訳『サハロフは発言する』(新潮社)を読んだ。 サハロフはモスクワ大学を卒業し大学院で学び、ソ連のスーパー兵器をつくるグループに入る。1953年8月12日に実験(RDS-6)は成功し水爆が完成する。後に「ソ連水爆の父」と呼ばれる。しかし核実験の際の放射能汚染問題で責任を感じるようになる。フルシチョフ、ブレジネフら首脳に核実験の中止させる試みをしつように行って、異端の思想家と警戒された。不正への反対、人権の擁護などの行動を起こし、国内社会の変革、国際協力の必要性を提唱していく。こうした活動は、西側世界の支持もあり、1975年にはサハロフはノーベル平和賞を受賞する。物理学賞ではなく、平和賞である。1980年代には反体制知識人として弾圧される。1908年のソ連アフガニスタン侵攻を批判し、逮捕され、全ての称号と勲章をはく奪され、国内で監禁される。良心と勇気に基づく発言は人々の尊敬を集め、ゴルバチョフ登場後に解放される。サハロフは「ペレストロイカの父」とも称された。

 「大量殺りくの開発で得た財産は血で汚れている」「心臓を締めつけられる思いだ。この悲劇を二度と繰り返してはならない」から出発したサハロフは、世界を脅かすのは、人口増加、資源の枯渇、環境の破壊などがあるが、最も重要なのは核戦争で人類とその文明が破滅することだと考えるようになる。サハロフは社会主義と資本主義の両体制の接近と収斂が人類滅亡の唯一の解決策という考えを持ってソ連という体制と戦い続けた。

 東西冷戦の象徴であったベルリンの壁は、1989年11月9日に崩壊した。サハロフはそれから1か月後に亡くなっているから、生涯を賭けた活動の行く末に希望をもったことだろう。

 1988年に、欧州議会はサハロフを記念した「サハロフ賞」を創設した。言論及び思想の自由の擁護に尽くした人々や組織に賞を贈っている賞である。マンデラドプチェクアウンサンスーチー国境なき記者団アラブの春の活動家たち、マララなどが受賞しており、現在もこの賞は続いて世界を励ましており、サハロフの影響は30年後の今も健在だ。

環境破壊による気候変動で世界は揺れ動いており、アメリカのパリ条約復帰、SDGs(持続可能性)などの声が高まっている。しかし我々の足元には、核戦争の恐怖があることは忘れてはならない。

サハロフは発言する (1975年)