三鷹市美術ギャラリー「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」

三鷹市美術ギャラリー太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」。

青森県五所川原三鷹太宰治文学サロン、そして「津軽」「人間失格」などの小説では知ることのなかった太宰治の人となりや生涯についてのエピソードを楽しんだ。

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12月にオープン。15年の作家生活の半分以上が三鷹。6畳、4.5畳、3畳の12坪の借家。30歳で娶った妻の美知子とのあいだに、長女の園子を授かった。東京女子師範出の美知子は初期の太宰の著作を2冊読んで才能に感銘を受けた。意外なことに太宰は子煩悩だった。手紙魔だった。

小説150作のうち90冊。「走れメロス」「斜陽」「人間失格」などの代表作を書いた。60カ国以上で翻訳されている。

中央線沿線の三鷹は、終生の師で後に「私は太宰には情熱をかけました」と語った井伏鱒二の住む荻窪や、妻の実家のある甲府に便利で、死後の全集編集を託したいと願っていた亀井勝一郎の住む吉祥寺も近い。また新宿や出版社の多い神田にも便利だ。また新宿や出版社の多い神田にも便利だ。

太宰の人となりに惹かれる友人も多かった。無頼派の二大作家と呼ばれた坂口安吾は「世界文学史に残る作家」と讃えている。また「」一緒に勉強しよう」と受け入れてもらった小山清は「太宰さんと飲むよさは、それを共にした人でなければわからない」と言っている。太宰の墓前で自死を謀った田中英光ら弟子も多かった。

「無趣味」という文章。「どこに住んでも同じことである。どうでもいい事ではないか」「私は衣食住については全く趣味がない。大いに衣食住に凝って得意顔の人は、私にしては、どうしてだか、、、、。

 多才。絵を描く。実にうまい。自画像も多い。トレードマークの二重廻し。

1947年半ばから体調不良。5月頃から精神に異常。被害妄想、行方不明、不眠症、酒量が増えた。3月に心中する山崎富栄と知り合う。11月、太田静子(自宅を訪問した読者の一人)に女児。1948年は喀血しながら執筆。

納税告知書。所得税額21万に対し、納税額1174771円。これに狼狽し、審査請求書を書いている。著作業は、参考書、旅行、探訪、資料入手などの調査費支出がある、、。

1948年6月「太宰治情死」。39歳の誕生日の6月19日の早朝に発見された。

書斎兼応接間に佐藤一斎の額がかかっているのは意外だった。妻の実家の石原家から借りたものである。「寒暑栄枯夫地之呼吸也 苦楽寵辱人生之呼吸也 在達者何必驚其遽至哉」。『言志四録4』(佐藤一齋 川上正光全訳注 講談社学術文庫)には「寒暑栄枯。天地之呼吸也。苦楽栄辱。人生之呼吸也。即世界之所以為活物。」とsり、読み下し文として「寒暑、栄枯は、天地の呼吸なり。苦楽、栄辱は人生の呼吸なり。即ち世界の活物たる所」とある。

引き出しが二つある小さな机。200字詰めの原稿用紙。蔵書は持たない。亀井勝一郎の世話。リンゴ箱をタテにして本棚にしていた。

一日5枚が限度。朝9時から午後3時前後まで。夜は執筆しない。

佐藤春夫「美しき子とよき文とを残して君去りき」。夫人に短冊、娘にサイン帳。

「春風や麦の中ゆく水の音 待ち待ちてことし咲きけり桃の花 白と聞きつつ花は紅なり」「川沿ぞひの路をのぼれば赤き橋 またゆきゆけば人の家かな」

桜桃忌は1992年まで続けられた。

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朝:今年最後のヨガ教室で1時間。

午後:車の点検。

夜:深呼吸学部:アイムの佐藤典雅さんの映像に感銘を受けた。発達障害自閉症の学校。GAKU君。アイム。7施設。放課後デイサービス。ノーベル高等学院。就労支援。ピカソカレッジ。アインシュタイン川崎市宮前。生涯スパン。アート。金の管理。生活保護があるから心配ない。引きこもりが困る。特性を個性に。楽しさ。意味不明の事件は発達障害者の事件。IQ70-85。自己肯定感。マジメは危険。明るい、爽やか、可愛がられる子に。NO!。最低限のルールで自由に。耐久性。危機を乗り越える力。家庭環境の安心。生きる強さとコミュニケーション。、、、。

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「名言との対話」12月26日。和辻哲郎「僕の知識の乏しさは反って容易に結論を掴ませる」

和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)は、日本哲学者倫理学者、文化史家、日本思想史家。

 「医は仁術」を信奉している父に影響を受ける。文学に興味があり、一高では戯曲や翻訳も書くが、谷崎潤一郎と友人になり、文学は谷崎に及ばないと感じ、哲学にすすむ。夏目漱石を敬愛した。法政大教授、京都帝大教授、東京帝大教授を歴任する。『風土 人間学的考察』『日本古代文化』『原始仏教の実践哲学』『鎖国 日本の悲劇』など、日本の精神史に影響を与える名著を多く書いた。文化勲章受賞。

日本的思想と西洋哲学の融合、止揚しようと志した。さまざまな「間柄」に応じた「役割」を引き受けて生きるのが人間という考えだ。その「間柄」は「信頼」によって支えられていると、日本の伝統的な生き方に根ざしている哲学、倫理学を提唱した。

『古寺巡礼』を改めて読んだ。感受性にあふれたみずみずしい文章だ。「僕」という書き方に若さを感じる。戦地に赴く青年が一期の思い出に奈良を訪ねるとして手に入れたという。この書に導かれて奈良を旅する人は多い。有島武郎、水原秋櫻子、白洲正子。日本とは何か、日本人とは何か探るときに手にする書物となっている。東大寺唐招提寺薬師寺法隆寺中宮寺久米寺、岡寺、、、。法華寺十一面観音、薬師寺吉祥天女百済観音、法隆寺金堂壁画、、。実感、印象記、感想の収録であり、和辻の若さがにおってくるようだ。

「漠々たる黄土の大陸と、十六の少女の如く可憐なる大和の山水」。「日本文はむしろ教養の不足から生まれたのである。即ち平安朝の和文は漢字の素養の少い女の世界から生まれ、漢字まじりの文は漢文を作る力のない武士の階級から生まれ、口語体は文章体をさえ解しない民衆の間から生まれた」「模倣は問題ではない。ただかくの如き傑作の生まれたことが、---ただそれのみが、重大な問題である」

和辻は「僕の知識の乏しさは反って容易に結論を掴ませる」と書いている。先入観にとたわれずに、ひたすら「観た」のだ。そして次のように言う。「「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかし、そのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない」。和辻哲郎はあくまでも自分の目で観ようとした人である。奈良には何度か足を運んだが、この『古寺巡礼』を手に再度訪れたいと思う。しかし、和辻はそれを叱るであろう。

初版 古寺巡礼 (ちくま学芸文庫)