渋谷の東急Bunkamura美術館の「ベルナール・ビュフェ展」。

渋谷の東急Bunkamura美術館の「ベルナール・ビュフェ展」。

ベルナール・ビュフェ1945‐1999

ベルナール・ビュフェ(1945-1999)は、黒い描線と抑制された色彩によって第二次世界大戦後の不安感や虚無感を描出し、世界中の人々の共感を呼んだ。その虚飾を廃した人物描写は、当時の若者に多大な影響を及ぼしたサルトル実存主義カミュの不条理の思想の具現化として映り、ビュフェ旋風を巻き起こす。

1958年、ビュフェは30歳でアナベルと結婚。ビュフェはアナベルの豊かな才能や表情に魅せられ、創作活動において多様な表現を試みている。「人は愛する女性の中にいつだって何かを発見するものだ」。アナベルは、ビュフェにとって生涯の女神(ミューズ)であり、彼女をモデルにした作品も多く残した。

17歳の日記には「少なくとも1日に4、5時間を(手を動かして)作業する。言い訳をして怠けない。精神的に立ち止まらず描く。毎日、朝昼晩の深い瞑想」という記述がある。その態度は晩年まで変わらなかった。

「風景画のなかで僕が重んじるのは構図です」

「素直な愛情をもって、絵と対話してほしい。絵画はそれについて話すものではなく、ただ感じ取るものである。ひとつの絵画を判断するには、百分の一秒あれば足りるのです」。

1973年、岡野喜一郎によって静岡県長泉町に「ベルナール・ビュフェ美術館」が開館している。今や、世界一の2000点のフビュフェコレクションを誇っている。喜一郎はスルガ銀行初代頭取の岡野喜太郎の子で第3代頭取をつとめた人物だ。喜太郎については私の「名言との対話」で取り上げている。岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日元治元年4月4日) - 1965年昭和40年)6月6日)は、駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身の銀行家静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。

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「名言との対話」12月27日。加藤保男「回ってきたチャンスはその場でとびかからないと逃げてしまう」

加藤保男(かとう やすお、1949年3月6日 - 1982年12月27日)は、日本の登山家

加藤保男『雪煙をめざして』(中公文庫)を読んだ。登山家として著名な加藤保男とは私と同じ学年だったことが分かった。エベレスト登頂三度の快挙を果たしながら、三度目の下山途中で亡くなったのは33歳のときだった。「僕」という言い方を含め若い登山家の放つ英気を感じるさわやかな自伝だ。亡くなる前年に書いた本である。

兄・滝男に先導され、日本の穂高に登り、ヨーロッパのアルプスでアイガー北壁の直登ルートを征服し、さらにヒマラヤへと向かう。岩と氷の世界に果敢に挑戦し続けた天才クライマーは、8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパールチベット両側から登頂したのは世界初である。加藤自身は「二つの別の山、チョラモンマとエベレストに登ったのだと思っている」と述べている。エベレスト3シーズン(春・秋・冬)登頂も世界初だ。

1974年、エベレスト登頂で、両足指、右手中指、薬指、小指の第一関節から先を切断し、身体障碍者になった。1980年5月3日 - エベレスト(チョモランマ)にチベット側の北東稜から登頂。下山中に8,750mでビバークとなったが、無事に下山した。1981年10月 には 尾崎隆ら3人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂を果たした。

そして、1982年12月27日 、 日本人初の冬期エベレスト登頂を果たした(東南稜)が、下山中に消息を絶った。「成功を優先すれば生命が危ない。生命を大事にすれば成功はおぼつかない」と「あとがき」で語っているように、最高峰への挑戦は体調と天候を見きわめながらの進退の決断の連続だっただろう。限界に挑み続けていると、いつかは命を落とすことになる。加藤の山の友人、知人で山で亡くなった人は多い。ライバル意識を持つようになった兄・滝男は、今年2020年3月に76歳で死去している。

「回ってきたチャンスはその場でとびかからないと逃げてしまう」は、「幸運の女神に後ろ髪はない」ということわざと同じ意味だ。加藤保男は高峰や難所に誘われるたびに、即断即決で参加を表明して、自分の世界を広げている。そうでなければ、30歳を少し過ぎたあたりで、世界最高のクライマーにはなれなかっただろう。チャンスはリスクと同義語だ。

雪煙をめざして (1983年) (中公文庫)