「だ・である」調から「です・ます」調にギアチェンジします。

ブログの文体は、今までずっと「だ・である」調で書いてきました。今年から「です・ます」調にギアチェンジをしてみましょうか。

2005年に刊行した『図で考えれば文章がうまくなる』 (PHP研究所)で、以下のように書いています。

「私自身は、以前は「だ・である」調を基本に文章を書いていました。ところが文章が難しくなる場合が多く、なかなかすっきりと文章を書き飛ばしていくということができませんでした。中身の割にもったいぶって書いてしまうことになりがちでした。」

「しかしある時期に「です・ます」調に変えてから、文章を書くのがずいぶんと楽になりました。読み手に対してもやさしく語りかけるような感じで書いていくスタイルが、頭の働きを活発にすることにも気がつきました。それまでは文章としての格調だとかリズムとかに関心が集中していたのですが、「です・ます」調になってからは、語りかける中身のほうに大きく重点が移ったような気がします。」

 -------

NHKBS正月時代劇「ライジン若冲 ~天才 かく覚醒せり~」。 若冲。大雅。定次郎。

 ------ー

夜は深呼吸学部(橘川幸夫学部長)の2010年の初回の講義。新雑誌。ZOOMコミュニティ。ラジオ番組。、、、、。面白いことが始まりそうです。参加しましょう!

f:id:k-hisatune:20210102230250j:image

f:id:k-hisatune:20210102230253j:image

 --------------

「名言との対話」1月2日。徳岡孝夫「今や彼の連載コラムも終わった。日本の言論界には、そのぶん平和が戻った。めでたいと言うべきだろう」

徳岡 孝夫(とくおか たかお、1930年昭和5年1月2日 - )は日本のジャーナリスト評論家翻訳家。

大阪府生まれ。京都大学文学部英文科卒業。フルブライト留学生として米シラキュース大学新聞学部大学院修学。毎日新聞社会部、『サンデー毎日』、『英文毎日』の各記者、編集次長、編集委員を歴任。ニューヨーク・タイムズのコラムニストも務めた。第34回菊池寛賞受賞。『横浜・山手の出来事』で第44回日本推理作家協会賞受賞。『五衰の人―三島由紀夫私記』で第10回新潮学芸賞受賞。

フォーサイト』に連載のコラム「クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?」は、2000年1月号から、ウェブ版に移行した後も続き、20年近い2019年5月14日の「筆を置くにあたって」までを書いた。

雑誌『諸君!』(文藝春秋社)で、1980年1月号から最終号の2009年6月号まで30年、7ページの匿名巻頭コラム「紳士と淑女」を連載した。計算すると400字詰で20枚強になる。そのうち263本を編んだ『完本 紳士と淑女』を読んだ。この最終号で筆者であることを明かしている。最後は「なお、三十年にわたって、ご愛読いただいた「紳士と淑女」の筆者は、徳岡孝夫というものであった」だ。以下、いくつか言葉を拾ってみる。

金正一から金正日に改名。いじめをなくすことはできない。正義を売り物にするなかれ。田中角栄小沢一郎は 梟雄。官民格差なんてバカ休み休み言え、こちらは競争、倒産、クビもある。マスコミのウソでないものは、株価、プロ野球のスコア、気象通報。現代の英雄はテレビに出る人。ニクソンアメリカを救った。頼山陽徳富蘇峰司馬遼太郎。出版は商売であることを忘れるな。納税者背番号制で匿名原稿はやられ言論弾圧が可能に。美智子皇后は尋常の人ではない。漱石、鴎外、露伴、志賀、谷崎の運命。過不足ない話をする松井秀喜長島茂雄脳梗塞は人災。5千円札になる樋口一葉は「偉人」のうち最も貧しかった。、、。

徳岡孝夫という名前は私のブログには3度登場している。

  リチャード・ニクソン「指導者とは」(徳岡孝夫訳)を再読。1982年直後に読んで、優れた人物であると再認識したことがある。30年ぶりに読んで改めて世界のトップであるアメリカ大統領の視界の広さと仕事の重要さ、その中でライバルと接触しながら自国と世界の利益を追求する姿を垣間見ることができた。「ニクソン。文章を書くのにテープに口述筆記をするのが一番だ。重要な演説の原稿をまとめるのが自己を鍛える。決断の検証と思考を磨くことになるからだ。政治指導者は伝記類の熱心な読者だ」。 

。77歳のときに書いた 『ライシャワー自伝』を読んだ。日本とアメリカを等距離で見つめ続けた希有の知識人が日本への深い愛情と理解はいずこより来たかを外交秘話を交えて率直に語る本である。翻訳者は徳岡孝夫だ。

では、「三島由紀夫が自決した当日、特に信頼している人で、市ヶ谷自衛隊に来るように事前に連絡した毎日新聞(当時)記者の徳岡孝夫」と記述している。2020年11月20日配信の「時事ドットコムニュース」で、90歳の徳岡孝夫が三島由紀夫との3年半の交友の日々をふり返っている。特派員としてバンコクに赴任中、取材で滞在していた三島に平安時代の歌詩集「和漢朗詠集」を貸した。三島はバンコクを立つ際、「楽しませてもらいました」とにっこり笑い、本を返した。自決後、刊行が予定されていた小説「豊饒の海」の最終巻が「天人五衰」と知り、朗詠集を慌てて取り出した。三島が開いたであろう癖の付いたページがあり、題名の元になった一節が記されていた。「一生を閉じる作品の題が決まったという笑顔だったのでは」と語っている。

紅露逍鴎の遺訓をとどめる14最年長の山本夏彦の名筆に脱帽する徳岡孝夫は、50歳から90歳近くまで、歯に衣着せぬ名物コラムを書き続けており、今も健在のようだ。自分の書くものが世間を騒がせてきたが、終わるから平和が戻るだろうとの気概に打たれる。時流や高名におもねらず、深い洞察と鋭いセンスで書き続けた執念はみあげたものだ。修行の日々であっただろう。

 

 

1980─2009 完本 紳士と淑女 (文春新書)