追悼「半藤一利」ーー「根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」が昭和の教訓。

半藤一利さんが亡くなりました。このブログで半藤さんの書いた本や語りを以下のように記してあります。追悼の意味で、掲載します。「根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」、それを昭和史の最大の教訓と考えたい。

オーディオブックで、半藤一利『昭和史』(1926-1945年)34巻を全編聴き終わった。著者の半藤さんが語るのを聴くという講義スタイルなので、毎日少しづつ勉強するということになる。勉強と健康の一石二鳥である。

さて、この「昭和史」は、終戦時に中学生だった半藤さんの実感も交えて、1928年(昭和3年)の満州某重大事件(張作霖爆殺事件)から始まった日中戦争の全過程、その延長線上に勃発する大東亜戦争への突入と1945年の敗戦に至るまでの激動の昭和の前半が語られている。この20年の過程で、日本人の死者の合計は310万人を数えるという惨憺たる結果になった。明治維新から日露戦争まで40年かかって築いた大日本帝国は、その後の40年で滅び焦土となった。

半藤一利は、この「昭和史」の教訓をあげている。総括すると、日本は「根拠なき自己過信」に陥っていた。「国民的熱狂をつくってはいけない」「抽象的観念論を好み、具体的理性的な方法論を検討しなかった」「タコツボ社会の集団主義の弊害」「終戦にいたる国際的常識を理解していなかった」「大局観・複眼的考え方がなく、対症療法、短兵急な発想に終始した」。日本は気がついたら、最終的に中国、米英、ソ連などほとんど全世界を相手に闘うということになってしまっていた。そしてこの大戦争は始めたはいいが、やめることは実に難しかった。聴き終わって、軍部の暴走、マスコミの扇動、国民の熱狂、冷静さの喪失、責任者の無責任、人事の怖さ、世界情勢に対する感度不足、情報戦での敗北、、、など感ずるところが大であった。
この昭和史は、日本人自身の陥りやすい欠点がすべて込められていると思う。

後半の『昭和史』(1945-1989年)を含めると、  「戦前編」32巻と合わせて68巻になる。一つ30分としても34時間以上の時間がかかっている。約2カ月間、半藤節を通勤途上で聴いたことになるが、実に充実した時間だった。

半藤さんは1930年生まれ。昭和は1926年12月25日から。1989年1月7日までの62年と14日。昭和天皇の在位の長さは日本歴代元号の中で最長であり、また外国の元号を含めても最も長時間である。その昭和史を語ったのは圧巻だ。戦前を近代、戦後を現代とおおざっぱに理解することができる。そうすると昭和天皇は、日本の近代の終りから現代の幕開けまでの歴史的時間を過ごしたことになる。

歴史に関するオーディオブックは、読み上げるアナウンサー口調だと無味であるが、その時代を生きた人物が語り下ろすという工夫は人間味があって楽しめる。

半藤さんは、、最後に「横町の隠居なりのお節介な忠言」として、今の日本(小泉内閣の末期の2005年から2006年にかけて)に必要なことを述べている。
1・無私。私を捨てて努力と知恵を絞ることができるか。
2・勇気。自分の組織から出て行く勇気を持てるか。
3・大局。グローバル展望力を持つ、そういう勉強ができるか。
4・自立。他国に頼らないで情報を得ることができるか。
5・風格。大事を成すことができるか。

この昭和史の主役であった昭和天皇は1901年生まれで、20世紀の最初の年に生を受け1989年に87歳で崩御しているから、20世紀の世界の主役の一人としても生きた激動の人生だった。年譜をたどると、19歳のヨーロッパ諸国訪問を経て父の大正天皇の病気により20歳で摂政に就任し25歳で天皇となった。34歳のとき2・26事件、40歳のとき宣戦の詔書、44歳のときポツダム宣言を受諾し終戦詔書、46歳のとき日本国憲法に発布に伴い国及び国民統合の象徴となる、57歳のとき皇太子明仁親王の結婚、63歳のとき東京オリンピック名誉総裁として開会宣言、70歳のときヨーロッパ諸国訪問と冬季オリンピック札幌大会名誉総裁、74歳のときアメリカ訪問、87歳のとき崩御

文芸春秋半藤一利「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」(文春新書)の最後の「あとがき」の最後に、「げに人のリーダーたるは難きかな、人に信頼の念を抱かせる人格形成は難きかな、なのである」と述べている。日本の軍隊はリーダー像をどのようにとらえていたのかという歴史は参考になる。要するに威厳と仁徳などの人格論に終始していた。しかし日本の軍隊はリーダーを補佐する参謀を重視し、陸大や海大は軍事オタク養成機関に過ぎなかったと喝破している。その参謀がやがてトップになっていくというしくみである。海軍大学校では「戦略・戦術・戦務・戦史・統帥権・統帥論」が72.8%。「国際情勢・経理・法学・国際法」といった軍政の授業は13.2%、「語学・日本史」などの一般教養は14%しかなかった。人格教育などはできていなかったらしい。それが太平洋戦争の敗戦につながっているという見立てだ。 

リーダーに必要な世界観の醸成と人物としての修養に失敗したということだろうか。

 松本清張司馬遼太郎は様々な面で興味深い比較ができるようで、両方と近い関係にあった編集者で後に作家となった半藤一利は「清張さんと司馬さん」というエッセイをものしていた。ローアングルの清張はデビュー作から最晩年の「両像・森鴎外」まで一貫して鴎外に興味を持ったのに対して、ハイアングルの司馬は晩年には漱石を懐かしむようになった。

 半藤一利原作の『日本のいちばん長い日』は、昭和天皇鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議においてポツダム宣言を受け入れ日本の降伏を決定した1945年昭和20年)8月14日正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。岡本喜八の1967年版と原田真人監督の2015年版があり、私は戦後70年を記念した2015年版をみた。昭和天皇本木雅弘鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司が演じたこの作品は、強い意思、狡猾さ、自己犠牲を持つこの3人のチームプレーで終戦となったストーリーとして描いており、話題になった。昭和天皇44歳、鈴木貫太郎首相77歳、阿南陸軍大臣58歳だった。何事も始めるのは簡単だが、終わり方は実に難しいものだが、特に戦争の場合は特にそうだと痛感した。1967年版では、切腹する直前に阿南陸相に「生き残った人々が、二度とこのような惨めな日をむかえないような日本に、、、なんとしてもそのような日本に再建してもらいたい」と語らせている。

辻正信にインタビューしている。大本営参謀は軍中枢部であるのはずだが、上層部の責任となっている。半藤一利は実際に辻に会った後「辻は自分の責任を全く考えていない、絶対悪というものが存在するのならば、この男のようなものを言うのだろう」と厳しくみている。敗戦の原因が辻正信のいうとおりならば、とうてい総合力としての国力からみれば、戦争を起こすことはできるはずもなく、また勝つはずもなかった。 

 新宿区立漱石山房記念館がオープンしている。早稲田から歩いて10分。漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所だ。この年に東京帝大を辞し朝日新聞社に入社し、「抗夫」以後、「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた。名誉館長は半藤茉莉子。この人は漱石の五女の筆子の娘で、作家の半藤一利の妻である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・「図解塾」の課外授業準備。「ライフプランの実際」をテーマにしてみようか。

・2月分の「名言との対話」の人選と本の注文。

・知研東京幹事会を初めてZOOMで開催。現状確認と今後について話し合う。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月15日。李登輝「民の欲するところ常にわが心に」

李 登輝(り とうき、1923年大正12年〉1月15日 - 2020年7月30日,注音: ㄌㄧˇ ㄉㄥ ㄏㄨㄟ/拼音: Lǐ Dēng huīは、台湾中華民国)の政治家農業経済学者

旧制台北高校から京都帝大にすすむ。在学中に学徒出陣、台湾大学卒。米国アイオワ大学で修士コーネル大学で農業経済学博士。1972年行政院政務委員(国務大臣)、1978年台北市長、1981年台湾省政府主席。1984年副総統、そして65歳で1998年に総統に就任する。本省人(台湾人)初の国家元首である総統である。

李登輝については、今まで伊藤潔「台湾--四百年の歴史と展望」(中公新書)。加瀬英明「日本と台湾--なぜ両国は運命共同体なのか」(祥伝社新書)。江南「蒋経国伝」などを読んでいる。以下、それらをまとめて生涯を追ってみる。

国父孫文の後を継いだ蒋介石の息子である蒋経国は台湾の台湾化を目指した。その路線を引き継いだ李登輝は温厚で敵をつくらない性格であり、後継者として都合がよいという判断だった。この判断が難しい舵取りを要求される激動の国際政治情勢の中で、台湾がまとまって生き残っていく方向を決定づけた。

李登輝民主化改革は、「党が国家の上位であってはならない「軍は国家の軍でなければならない」「一党独裁であってはならない」「実務外交を推進すべきである」「中国政府・中共政権と対立してはならない」「政治犯の存在は民主国家の恥辱である」であった。

1992年の初めての総選挙で初めて国民党は台湾統治の正当性を得た。李登輝は台湾人の絶大な支持と期待を支えに権力を掌握していく。2000年までの二期12年の任期中に台湾経済は大いに発展を続けた。

雑誌で李登輝のインタビューを読んだことがある。台湾は東日本大震災で168億円もの義捐金を送ってきた。人口2300万人、当時の物価は日本の三分の一というから、この価値は2500億円に相当する。台湾の高い親日度は高い。

京大卒で日本陸軍少尉でもあった李登輝は、日本人の素晴らしさは日本人よりよく知っているとした上で、日本の総理、大臣、大企業幹部、など指導者の劣化を嘆いている。そこに日本精神の喪失を見ている。台湾で今なお尊敬されている後藤新平、八田与一など素晴らしい日本人の名前もあげている。そして誰もがやりたくないきつい仕事をする、公と私を区別する、国家と国民に忠誠心を持ち謙虚であること、など指導者の条件をあげている。この雑誌を読みながら「合併も 事故も技術も 巨大化す 人物だけは 小型化進む」との句が自然に浮かんできた。

李登輝の名言bot」がある。「日本人はあまりに人がよすぎるから指導者を選ぶことをもっと真剣にやりなさい」「いつまでも権力を握ってはいけない。権力があるからいろんなデタラメなことをやりたがる」「誰もやりたくないことを喜んでやっていく」。また

李登輝は日本統治時代は岩里政男という日本名を持っていた。そして「22歳まで自分は日本人であった」と言う。そして「日本がもう一度アジアのリーダーとして輝けるよう後藤新平のようなリーダーの出現を期待している」と日本人を激励している。私は「出処進退」という言葉に注目している。最近の状況をみると、この精神が失われているように思う。李登輝の名言「民の欲するところ常にわが心に」と考える「人物」をいかに育てるかに、今後の日本がかかっている。