追悼!安野光雅。ーー安野光雅展(新宿紀伊国屋)。「井上ひさしと安野光雅」展(仙台)。「絵のある自伝」。 「絵本 平家物語」。

安野光雅さんが、2020年12月24日に亡くなった。享年94。代表作には「ふしぎなえ」、「ABCの本」、「天動説の絵本」、「旅の絵本」、「繪本 平家物語」、「繪本 三國志」や司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」の挿画などがある。また多くの業績に対し、ブルックリン美術館賞(アメリカ)、ケイト・グリナウェイ賞特別賞(イギリス)、BIBゴールデンアップル賞(チェコスロバキア)、国際アンデルセン賞画家賞、紫綬褒章、第56回菊池寛賞など国内外の数々の賞を受賞。文化功労者、津和野町名誉町民。

  • 安野光雅美術館」。2001年3月20日安野光雅さんの75歳の誕生日に、故郷津和野市の駅前にが開館にオープン。収蔵される作品は4000点を超える。

2010年から2012年にかけて、安野光雅さんの企画展をみたり、絵本を読んだりしていました。以下、ブログから。

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k-hisatune2010-01-11

新宿紀伊国屋で開催中の安野光雅展をを観てきた。
安野は叙情豊かな絵を描く画家で、多くの人が安野の描く風景に癒されている。私も好きな画家である。
1926年生まれだから、もう80代の前半になるが、メディアでもよく見かけるから、今も健筆をふるっているのだろう。安野の絵は、島根県の津和野出身であることが影響しているという説が多い。「絵を志すようになったスタートラインは津和野だったと言うほかありません。」と本人もそのことを半ば認めてもいる。工業高校を出たあと、小学校の教員をしてあと、23才で上京し、三鷹市武蔵野市で小学校教員をしながら勉強し、35才で画家として独立する。42才で「ふしぎなえ」(福音館書店)で絵本作家としてデビューする。

芸術選奨文部大臣奨励賞、国際アンデルセン賞など多くの国際賞を受賞し、国内では紫綬褒章、菊池?賞も受けている。2001年には故郷津和野に安野光雅美術館も開館している。

この画家の絵は、観る人の心を和ませてくれる。日本の原風景をおだやかに淡い色遣いで描いている。ファンが多いのはよく理解できる。笛吹川小景、富士川身延山大菩薩峠桂川、山村初秋、笛吹川錦秋、笛吹川錦秋、笛吹川晩秋、、。イタリアの風景も展示されている。トスカーナの小さな村、バルベリーニ広場、ヴェネツイア、フィレンツエへの道、ローマ、、。

「絵本 歌の旅」「絵のある人生」「絵の教室」などの本を購入して読んでみたが、この画家はエッセイが素晴らしくうまい。絵描きにとどまらず、文章を書かせてもいい。自然やものをみる目がいいと思う。「絵本 歌の旅」では、早春賦、朧月夜、荒城の月、牧場の朝、からたちの花、城ヶ島の雨、琵琶湖周航の歌、山小屋の灯、あかとんぼ、椰子の実、たき火、ふじの山、仰げば尊し、ふるさとなど実に懐かしい童謡、唱歌を題材に、ほのぼのとしたエッセイが並んでいる。
映像作家・吉丸昌昭が安曇野の大町南高校に入学して渡された校歌の作詞者をみると吉丸一昌とあり、それが自分の祖父だといういことに驚く。この一昌は「早春賦」の作詞者だったが、確か大分の臼杵に記念館があった。この安曇野には、いわさきちひろ美術館、萩原守衛碌山美術館もある。ぜひ出かけたい場所だ。

「大人になってふりかえれば、その歌詞の意味を読み取ろうとするが、缶を開けて出てくる歌は、軍歌だろうと、恋歌だろうと、歌詞の意味はあまり問わない。」とある。そういえば、韓国旅行で知り合った高齢の紳士は、自分の青春の歌は日本の軍歌だったということを述べていたことも思い出す。

「ただでくれるといわれたら、どれにする?」というふうに自分に問いかけてみると、自分なりの目が出来てくるのだそうだ。知り合いの人が、美術館では「自分の家にどれを飾ろうか」と考えて見るといいと教えてくれたが、同じような鑑賞の方法である。

「絵の教室」という新書の「はじめに」の冒頭には、「自分で考える」という文章がある。どのような分野でもとにかく「受け売りでなかったらいい」ということを言っているのは共感を覚える。
そして「絵が好き」という感性は、好奇心、注意力、想像力、そして創造力になり、枝分かれして物理学、生物学、医学というぐあいに変化しているのではなかろうか」「絵というものは、どうもイマジネーションというノウハウのない世界に力点がかかっているのではないかと思えてきたのです」

この本にゴッホのことがでてくる。日本の浮世絵には線がある。縁取りなどの線がある。でもフランスの絵には線がないと、日本の絵に驚いている。私自身、美術館を訪問する機会が増えているが、日本は線で描くのに対し、西洋画は面で描くという言い方をよく聞くが、こちらから見ると未熟な手法だという自虐的な説が多いのだが、相手から見ると優れた手法に見えるということなのだ。

「絵を描くとき、自分の意志というより、頭の中に誰かがいて、わたしの感性を左右するらしく、、、」(安野光雅)。鴎外も「妄想」の中で「自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何者かが存在していなくてrはならないように感ぜられる。」と書いた。

創造性は、想像すること、つまりイマジネーションからはじまります。そしてそれは疑う力とセットになっていると安野光雅は言う。そういう創造力は、子ども時代の豊かな時代にあったと深く思うようになった安野は、そういった日本の美しい自然を描く、残すことを使命と考えているように感じた。津和野と安曇野。私が訪れるべき場所が決まった。

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午前中に仙台文学館で開催中の「井上ひさし安野光雅展」を観る。
井上ひさしの小説の表紙や挿絵を安野は「吉里吉里人」など60冊以上の手がけている。そして安野は劇団こまつ座の宣伝を担当もしてポスターを多く書いている。
安野光雅は、絵本太平記、絵本三国志、絵本シェークスピアなど、多くの古典を絵本としてつくっている。当時、井上は35歳、安野は43歳だった。
二人は1969年の「世界も名作童話劇場、ガリバー」を共同で出版している。1988年の「ちくま文学の森」の編集者として一緒になって、親しくなった。今年、安野は「ガリバーの冒険」という本を出版している。ガリバーの顔は今は亡き井上ひさしだ。

安野光雅「わたしは薬で命をながらえるより、絵を描いて命を充実させることをおすすめしている。」

井上ひさし「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに 書くこと」

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画家・安野光雅さんは1926年生まれだから86歳。次第に人気が高くなり重みが増していく人だ。
この画家は、絵もさることながら文章もうまくエッセイもいい。まず、記憶力がいい人だ。子供の頃からの想い出も細かく記している。それは観察力に優れているからだろう。そして徹底的に調べる人でもある。絵はただイメージで描くというのではなく、この人の描く分野は具体性が求められる場合が多いので、こういう力が必要なのだ。
安野は「絵本」というじジャンルで「平家物語」、「三国志」、「ガリバー」、などの古典を表現しようとしている。人形師、漫画家など独特の表現技術を得た人が必ずたどる道である。


安野光雅美術館のある津和野にはぜひ行ってみたい。西周森鴎外などの故郷。

仙台文学館で開催中の「井上ひさし安野光雅展」の初日で買った本を読みながら新幹線で帰った。「絵のある自伝」から

絵のある自伝

絵のある自伝

 
  •  父が死んだのが72だったから、わたしも72をすぎたら死んでもいいとおもうようになっていた。司馬遼太郎さんが亡くなったのも72の時だった。

司馬遼太郎

  • 司馬さんは気配りの人だったというが、上下の隔てがまったくなかった。
  • 司馬さんの描く絵は、とても味わい深いもので、たとえば「アメリカ素描」の表紙などをみると、わたしは気後れがするのである。
  • 司馬さんは「絵に描いたリンゴと本物のリンゴとでは、どうして絵のほうがいいんだろう」と難題を持ちかける。いつか明解に答えようと思いながら今日に到っている。

佐藤忠良

  • シベリアの抑留生活は大変だったでしょう」と聞かれた佐藤さんは、わらって「彫刻家になるための労苦をおもえばあんなものはなんでもありません」といってのけた。
  • 「彫刻家と人が認めてくれたとき、五十歳を越えていた」

「絵本平家物語」から。

繪本平家物語 カジュアル版

繪本平家物語 カジュアル版

 
  • その旧跡を訪ぬれば、むかしの時間も帰ってくると考えられるかも知れぬ、、、、、そこにたてばなにほどかの感慨はわき起こるのである。、、地霊というものがあって、それが私に灌漑や情景をもたらすのだ、、、
  • ほとんどの人物は差引ゼロという感じになっている。

それにしても「平家物語」の冒頭は心に響く。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

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毎日少しづつ読み進めていた安野光雅「絵本 平家物語」を読み終わった。

平家物語」そのものは読んでいないので、今回は安野の絵とまとめの文章とで全体がつかめた。平家が昇殿を許された天承元年(1131年)から「平家にあらずば人にあらず」と言われたその清盛の栄華の極みを少し描いた後、平氏の悪逆非道な振る舞いと、源氏の勃興、そして那須平氏の滅亡までが、巧みな文章と素晴らしい絵画で綴られている。改めて、この物語は大叙事詩であると感じた。

 講談社学術文庫平家物語」(全12巻・杉本圭三郎訳注)を中心に、絵画化した場面に沿って安野が文章を書きおろしたものだ。選んだ79場面と、それを含む143の文が原点に沿って配列されている。

安野は旧跡を訪ね、昔の時間を探す。その場所に立てばなにほどかの感慨が湧きおこる。地霊が感慨や情景をもたらしてくれると言っている。「絵本」という表現手段は、物語の主要なシーンのイメージを描いてくれているので、文章と相俟って真に迫ってくる。
安野光雅は、日本の古典にとどまらず、世界に目を向けて、古典を絵本という方法で再解釈しようとしている画家である。この志やよし。

戦い、俊寛僧都の鬼界が島への島流し巴御前那須与一義経の活躍と死、、、。

清盛は64歳で没。「頼朝めは死罪にすべきだったのを、流罪にしたのがまちがいだった」「頼朝の首を見ぬことがこころ残りだ。頼朝の首をはねてわが墓の前に供えよ」

源頼朝。53歳で没。少しでも平家に縁をもち、謀反の種になりそうな者はことごとく処分するという、あまりに猜疑心の強い頼朝、、。

地震が二回。物語の最初の方の治承3年(京都。1179年)の大地震と、最後の方の元暦2年(京都。1185年)の大地震。「方丈記」がその様子を記している。

「そのさまは尋常ではなかった。山は崩れその土が川をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。いわんや、都のあたりでは至る所、お寺のお堂や塔も一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上がって、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き家屋が倒れる音は雷の音とそっくりだ。家の中にいるとあっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出せば大地がわれ裂ける。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜であったなら雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験のなかでもとりわけ恐ろしいのはやはり地震だと思った。」
「その直後には誰も彼もがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささかの欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後はそんなことを言葉にする人もいなくなった。

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安野光雅:私は薬で命をながらえることより、絵を描いて命を充実させることをおすすめしている。

安野光雅は、「即興詩人」は百科事典であり、山田風太郎と同じく、無人島で過ごすならこの1冊を持っていきたいとのことだ。

 

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「名言との対話」1月24日。野際陽子「いつも笑っていなさい」

野際 陽子(のぎわ ようこ、1936年1月24日 - 2017年6月13日)は、女優アナウンサー司会者歌手ナレーター声優

立教大学文学部英米文学科卒業。長嶋茂雄杉浦忠と同期の大学時代は初代ミス立教に選ばれた。学費免除の特待生だった。1958年に千倍の倍率を突破して第一期女性アナウンサーとしてNHKに入局。1962年3月にNHK退職。1966年2月にかねてから念願であったパリへ留学。ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受ける。帰国後、女優に転身しし、派手なアクションと最先端のファッションで注目を集めた。

1968年にテレビドラマ『キイハンター』がスタートし、5年間放送され視聴率30%以上を記録するなど一世を風靡した。主題歌「非情のライセンス」を歌った。1972年には共演の千葉真一と婚約、翌年結婚。38歳11か月で初産。1994年、 娘の女優デビューが決まったことをきっかけにアメリカに拠点を移したかった千葉真一と離婚する。子育てが一段落した後に出演したドラマ「ずっとあなたが好きだった」では息子を溺愛する母親を熱演、ドラマは社会現象とも言える大ヒットとなり、以後、気が強く存在感のある母親役で数多くのテレビドラマや、映画にも13本出演した。「徹子の部屋」(テレビ朝日)には、20回以上も出演している。

テレビ朝日系の昼ドラマ「やすらぎの郷」に出演中に亡くなった。「多くの人の時間を奪うようなことをしたくない」という遺志のとおり、葬儀や告別式は密葬、さらにお別れ会もなかった。

 「私は“面白おかしくて、クスクス笑えるものを書きたい”という気持ちがあるんです」(エッセー『70からはやけっぱち』を出版の際の発言)。 「自分の顔は人のためにある。見られるためにある」「 どんな役でも一生懸命演じていれば、誰かが見ていてくださるもの」。

娘が書いた『母、野際陽子 81年のシナリオ』(朝日新聞出版)よれば、「健康法と美容法おたく」だった。しかし娘には体の不調をちょっちゅう訴えていたそうだ。五十肩、更年期障害自律神経失調症胃潰瘍、膵炎、肺腺ガン、、、。

娘の女優・真瀬樹里が2017年秋から年末にかけて、『トットちゃん!』で、22歳あたりから50代までの野際陽子役を演じている。その樹里に対し、「いつも笑っていなさい」は、幼少期から思春期までずっと言い続けた。そして不機嫌、ふてくされ、悩む、落ち込む、「そういう顔をしているうちに、本当にそういう顔になっちゃうのよ」と付け加えた。名前のとおりの性格になり、そのとおりの人生を送った。法名は「慈優院釈尼美陽」。

母、野際陽子 81年のシナリオ