陳舜臣『中国名言集 弥縫録』(中公文庫)ーー「弥縫」から「有終の美」まで104の名言の名解説

陳舜臣『中国名言集 弥縫録』(中公文庫)。

弥縫録(びほうろく)―中国名言集 (中公文庫)

 「びほうろく」と読む。「弥縫」から「有終の美」まで、104の名言が豊富な知識の下敷きのもとに解説されています。1項目は1600字で原稿用紙4枚ほど、それが一定のリズムで続いています。とりあえずこの中の41項目を読んでみました。

「酒は百薬の長」「洛陽の紙価を高める」「賞は日をこえず」「四面楚歌」「柳眉を逆立つ」「君子豹変」「左遷」「破天荒」「読書亡羊」「禅譲」「杞憂」「宋襄の仁」「矛盾」「推敲」「圧巻」「典型」「杜撰」「泰斗」「背水の陣」「画竜点睛」「虎視眈々」「一衣帯水」など、目からうろこの名文を堪能しました。全部読みましょう。

中国を舞台にした歴史小説で知られる作家・陳舜臣は、「阿片戦争」「秘本三国志」「小説十八史略」など膨大な著作群の中で五千年にわたる中国興亡の歴史を独自の視点で描き出した作家です。文壇デビューは37歳。神戸を舞台にした推理小説「枯草の根」で江戸川乱歩賞を受賞。本格的な中国歴史小説は42歳の時に書きあげた「阿片戦争」。

司馬遼太郎とは大阪外語時代からの友人で、「街道をゆく 台湾紀行」はその友情で成立したものであることが、読むとわかります。陳舜臣の紹介で当時の李登輝総統と司馬の話が弾んだとあります。

NHKアーカイブスで陳舜臣の発言を聞いてみました。「革命家の「大同」の思想。チンギスハンの宰相・耶律楚材。民族国家、、、」。この映像では、背表紙ではなく、膨大な著作群を墓石のように並べているのが印象に残りました。90歳で没。2014年、陳舜臣アジア文藝館が神戸市に開館。

「ぶつかり合うと困難が生まれるが そこから取り入れるものが出来てくる しばらくすると素晴らしいものが 出来てくるという希望がある」

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午前・午後:大学で成績付け。図解塾の準備。P社、松田さん、U社、岩澤くんと電話

夜:デメケンミーティング

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「名言との対話」1月25日。西村晃「俺は死ぬのは絶対いやだ」

西村 晃(にしむら こう、1923年(大正12年1月25日 - 1997年(平成9年)4月15日)は、俳優声優

日大専門部芸術加科入学。学徒動員で特攻隊員となるが出撃機不良で命拾いする。復員後、演劇活動を再開し、新劇俳優となる。1951年に佐分利信監督作『風雪二十年』で映画デビュー。悪役や敵役が多かった。 毎日映画コンクール男優主演賞(1964年)『赤い殺意』。毎日映画コンクール男優主演賞(1982年)『マタギ』。紫綬褒章(1987年)。勲四等旭日小綬章(1994年)

以下の二つの作品をNHKアーカイブスでみてみた。

「河を渡ったあの夏の日々」(山田太一)は、東京・佃島を舞台に、昔気質の老人と間借り人の若者との行き違いを描いた作品である。間借り人はショーケンこと萩原健一で、二人のやりとりで世代の断絶が描かれている。西村は第11回プラハ国際テレビ祭最優秀男優賞(西村晃)を受賞している。

テレビドラマ「氷雨」。ある公団と業者との汚職事件が起き、検察の聴取を受け自殺する公団の30歳の会計課長役。その妻の復讐劇だが、実直で気の弱い職員を好演している。

1969年から半世紀以上続く人気の長寿番組の「水戸黄門」の2代目として長くお茶の間で人気を博した。この番組は1969年からの初代黄門は高笑いの東野英次郎、悪役からの転身の西村晃、庶民イメージの佐野浅夫、印籠を出さない石坂浩二、西村黄門の助さんだった里見浩太朗、そして2019年からの武田鉄矢と続いている。西村晃は私の父と同い年で学徒動員世代だ。私の世代の水戸黄門は、東野英次郎と西村晃であった。

西村晃は1983年から東野英治郎の後任として水戸光圀役を演じた。足掛け9年間、出演回数は283回にのぼっている。これが代表作となった。

父は北海道帝大教授で人造人間「学則天」を発明した万能科学者だった。その西村真琴役も後に晃が演じている。

戦争末期に西村晃が「俺は死ぬのは絶対いやだ」と言った言葉を聞いて、同じく生き残った徳島海軍航空隊の特攻隊員だった親友・千玄室は、「徳島へ一歳の子どもを連れて奥さんが来ていました。私もよく外出して西村のところへ行っては、子どもをあやしたりなんかして、「いいな、家庭は」と思ったりしました。ですから西村が死にたくないといったのは、本音だと思いました」と語っている。

俳優という職業は、主役、脇役を含め膨大な作品群で、さまざまな個性を演じ、言葉を発する仕事だ。その映像が後々まで残って、その人のことを知ることができる。いつまでも死なないともいえる。