話題のClubhouseの探検を始めましたーーー福角有紘監督(多摩大フットサル部)、デメケン、イーロンマスク・見城徹・古市憲寿・高島宗一郎・山田真也、、

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noteの使い方のアドバイスを求められて多摩大フットサル部の福角有紘監督(42歳)とミーティング。多摩大で創部し8年で大学日本一になり、2連覇した監督です。来年度から客員教授に就任予定。

「私」のスポーツマネジメント論。独学。記録。現役。オリジナル。研究と実作。独創。二生。人間研究。情報源。一日一冊。図解ウェブ。コンテンツ。Clubhouse。

途中で使った名言:「うかうか三十きょろきょろ四十」。三原脩「覇権を握るのは難しい。覇権を持続することはさらに難しい。しかし一度失った覇権を奪回することはさらに難しい」、、、。楽しい1時間でした!

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研究開発機構評議員会:退任の挨拶。

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夜にClubhouseを試していると、福角さんから突然声をかけられる。そこから一人で探検。イーロンマスク、見城徹古市憲寿高島宗一郎福、山田真也、、、などの肉声を聴きました。これは凄い。テレビでなく、ラジオでなく、普段着の肉声を聴ける、彼らの人脈で勝手にキャスティングがされる。有名人とファンが一気につながる感じ。

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デメケンの定例ミーティング。ここでもClubhouseの話題も。あれはテレクラ、、、。

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「名言との対話」2月1日。河島喜好「あさっての商品ではなく、明日の商品でいこう」

河島 喜好(かわしま きよし 1928年 - 2013年10月31日)は、自動車エンジニア実業家

浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科卒業後、大卒第一期生として本田技研工業の前身である従業員が数人ほどしかいない本田技術研究所に入社。1973年、創業者の本田宗一郎の後を受け、45歳で本田技研工業代表取締役社長に就任する。「竹には節がある」という女房役の藤沢武夫の持論に賛同した本田宗一郎も66歳で引退した。1983年、河島は本田宗一郎と激しく対立し失踪騒動を起こし辞表を預かったこともある後輩の久米是志に後を譲って社長を退任する。

 2006年4月刊行の『社長の椅子が泣いている』(講談社)を読んだ。この作品は、日本楽器(ヤマハ)社長になった弟・博について書かれたノンフィクションだが、兄・喜好についても触れている。

「私は理屈ではものが言えない質(たち)なので、体験し、感じたこと以外は決して言っていない」と兄は社報に書いている。二人の兄弟は、ヤマハ発動機の存在など一部ライバル関係にあることもあり、兄の考えで会わないようにしていた。兄の厳しい出処進退のみごとさに私は感じ入った。

海釣り、ハンティング、クルージングが趣味の兄に対し、仕事一辺倒の弟の河島博は、川上源一の指名を受けてヤマハ楽器の社長になる。兄弟社長は珍しかった。65歳の河上源一は「明るいうちにグッドバイ」との名言を残して去ったが、後に博は川上から解任される。兄は「沈黙は金。日記に書いておけ。私は高く評価している、ご苦労であった」と伝えている。涙が出てくる愛情のこもった、そしてトップの進退をめぐ貴重なアドバイスで、読んでいて涙がでてくる。

漱石の「人間を神様扱いするのはいちばんいけないこと」という言葉を肝に銘じてきたこの本の著者の加藤仁は「群像劇を書きたかった」とあとがきで書いている。志半ばで倒れた無数の人々、名誉を汚された人たち、、、という群像劇を書きつづけようとしていたことを初めて知った。このとき、加藤仁は右目が失明しかけていた。それから10年後に亡くなっている。加藤仁は定年後の人生についての取材物も多く、また『宿澤広朗 運を支配した男』などの人物論も私は読んできた。私と同じ方向に目が向いている人のようだ。「群像」という言葉をもらった。

河島喜好は本田宗一郎については「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する」というホンダの社是を引き合いに出して、「明日の商品をつくればいいが、あさっての商品をつくっちゃうところが、ちょっと社是の通りじゃなかった」。「おやじさん25年の打率は低かった。ホームランか3振か(笑い)」。「あの果敢な失敗を経験してなかったら、そして今日の商品だけつくっていたら、ちっぽけなHondaは消えていただろうと思う」と醒めた目でもみている。

あさっての商品は高い志を体現しているが、マーケットは反応しない。大企業となったホンダを自分が率いる時代は、今日の商品ではなく、明日の商品をめざそうとしたのだ。3歩先ではなく、ホンダは1歩先の商品を出し続けて独自の存在感を示している。

プロジェクトリーダー制度、『ワイガヤ』を始めた河島喜好は10年の在任だった。その後のトップを以下にあげてみよう。ASIMOホンダジェットのプロジェクトを許可した。久米 是志は7年。ホンダジェットのプロジェクトを社長に直談判した川本 信彦は10年。東大で「大学で学ぶことは何の役にも立たない」と喝破した吉野 浩行は5年。F1マシンやRC211Vでデモンストレーションを行い「世界一速い社長」福井 威夫は4年。NSXのシャーシを周りの反対を押し切ってオールアルミ化した伊東 孝紳は6年。そして現在の8代目の八郷 隆弘は、「石橋を叩いて渡るな、石橋を叩き壊して新しい橋をかけろ」とはっぱをかけている。本田宗一郎の遺伝子は、今なお生きている。

社長の椅子が泣いている