「貫きしことに悔いなし鰯雲」

今日の収穫:吉村昭「貫きしことに悔いなし鰯雲」。 こういう心境でやるべきことをやっていきたいものです。

note.com2013年に吉村昭コーナー(荒川区日暮里図書館)を訪問していますが、2017年、ゆいの森あらかわ吉村昭記念文学館が開館しているようです。名誉館長は妻の津村節子

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『出会い わが師わが道』(広島テレビ放送)を読了。石本美由紀が載っているこの本を読んでいたところ、一緒に掲載されていた広島県出身のそれぞれの分野の巨匠たちの講演録も読むことができました。以下、彼らの言葉です。

平山郁夫「自分の作品というのは、いわば人生の足跡ですから、これをなくしますと、全く記録が空白になると考えた」

奥田元宋「自分の生地を丸だしにしなければだめだ」

丹下健三「(広島平和記念館)桂離宮を現代の材料で表現してみたい」

圓鍔勝三「他人が半月で出来るとしても、私は一ヶ月でいいじゃないか。倍かかってもだめなら三倍でもいいじゃないか」

 

   

 

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「名言との対話」2月3日。石本美由紀「目と心と表現力だと思う」

石本 美由起(いしもと みゆき、男性、1924年2月3日 - 2009年5月27日)は、日本作詞家

 9ヶ月の未熟児で広島県に生まれる。小児喘息を患い、家に閉じこもりがちになり、本を読むようになった。藤村、白秋、杢太郎、八十の詩集。啄木、牧水の短歌。漱石、芥川、一葉、独歩の文学。吉川英治長谷川伸などの時代小説。そして俳句などを読み漁った。結果的に病弱であったことが、言葉を武器とする作詞家としての強みになっている。

軍隊に入るが、病気がぶりかえし、入院中に慰問に訪れた東海林太郎の歌を聴いて、歌の力の強さを知り、作詞家を志す。1948年、24歳で『長崎のザボン売り』『憧れのハワイ航路』でデビュー。その後、「ひばりのマドロスさん」、「港町13番地」、「浅草姉妹」、「悲しい酒」、「矢切の渡し」、「長良川艶歌」など、ヒット曲を連発した。

『出会い わが師わが道』(広島テレビ放送)によれば、石本美由紀は、まさに「出会い」を大切にした人であることがわかる。「すべてが縁であり、一つの出会いです」「作品作りは、いつも、人との出会いから始まるものなのです」「お互いに意欲を感じ、刺激を求め、燃焼する。そういう人との出会い」「出会いに始まり、出会いに終わる」。切磋琢磨する友とライバルの存在が作詞家石本美由紀をつくった。

レコード大賞をとった曲には、「長良川艶歌」、「矢切の渡し」、「女の旅路」がある。美空ひばりには、「ひばりのマドロスさん」、「港町十三番地」、「哀愁波止場」、「悲しい酒」、「人生一路」など約200作を提供している。

日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長、日本音楽作家協会理事長、日本作詩家協会会長、日本音楽作家団体協議会副会長などを歴任し、私的録音録画補償金制度など音楽著作権制度の整備・発展に尽力している。作詞界の大御所的存在だった。面倒見の良さでも知られ、広く後進の指導にもあたった。門下生には星野哲郎がいる。

「私たちの仕事は、総合芸術であり、パートナーガ必要であり、チームワークの善し悪しによって、その成果はずいぶん左右されるのです」というように、優秀な歌手との出会い、有能な作曲家との出会いによって、石本美由紀の作詞家人生が彩られていく。

 「私たちの創作は、無から有を生むものだと思います。自分の行動する範囲に落ちている、人生の喜怒哀楽をテーマとして探し選ぶことが大切です」と作詞の要諦を語っている。何を見て、何を感じ、そして何を表現するか。自分が生きている時代をみつめ、巷の人々の声に耳を傾け、日本の心を感じ、それを詩に託す。石本美由紀が作詞した作品は85年の生涯で3500曲以上にのぼる。石本美由紀の作詞した歌には耳に残っているものも多い。歌にはやはり、強い力があり、そして長い命がある。

 

出会い―わが師わが道