リアル面談とリモート学習ーーーー雑談の効用と仲間感覚。

朝:永山でNJ出版の編集者と面談。昨年からずっと相談している企画に一定のメドがたった感じ。大事な本になるので、きっちりと仕上げていきたい。また、雑談の中で新しい企画が生まれました。やはり、人と実際に会い、近況などを交換するなど、雑談の重要性を意識しました。ジョブ中心だけでなく、ヒト中心も加味することによって、得られる成果が違ってきます。そういう意味で、コロナ禍で人同士がリアルに会わなくなったのは痛い感じがします。

午後:大学で資料整理

夜:動画編集スクールの2ヶ月に1回のZOOM同期会で7人全員が集合。今回は人事組織コンサルの人の講義。行動様式と行動欲求をテーマとしたコミュニケーションの向上がテーマでした。みんな違うことを前提にコミュニケーションギャップをを埋めようとする方法。私へのアドバイスは「ペースを落とせ。最初から的確に行うように気をつけよう。問題点をごまかすな」でした。「感化」が特色。思いあたることも多く、納得できる手法でした。4月の次回は、「クラウド」がテーマとなります。以下、図メモ。

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「名言との対話」2月19日。粟津潔「ものを創りだすことは、見ることだと思う」

粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - 2009年4月28日)は日本グラフィックデザイナー

小学校を出ると建具職組合の給仕をしながら夜間の商業学校で学ぶ。神田の古本屋街や自宅に間借りしていた哲学者からも影響を受ける。古い映画雑誌の口絵などを教科書として、「独学」で絵を描き始める。山手線を循環しながら人物描写のスケッチ練習を重ねた。20歳頃には、政治運動に熱中。この間、ベン・シャーンというリトアニア出身のデザイナーの仕事に「出会う」ことでデザインの世界に入る。そして図案家、商業美術家という職人的地位を脱しようとする人々の動きの中に入っていく。

1956年、日活映画宣伝部に入り、職業デザイナーの道を歩む。20代は演劇、映画、そして街頭の芸術であるという考え方でポスターを手がけた。1960年建築家の有志を募り新陳代謝を提案する『メタボリズム』を結成する。その後武蔵野美術大学商業デザイン学科(現・視覚伝達デザイン学科)助教授に就任。「デザイン批評」編集長もつとめた。

粟津潔のデザインのモチーフをあげてみよう。指紋、地図、印鑑、手相図、人相図、肖像写真。亀、花、鳥、。既成のイメージを引用、再編、聖化していく。阿部定の顔、モナ・リザの手、髪、家相図、地相図、方位図、胎児、嬰児、陰毛、人体解剖図、統計、同性愛、、、。死と魔の世界といってもよい。こういった世界は「生」をつきつけてくるという。粟津の方法は、模倣し、取り入れ、表現することだ。ベン・シャーン北斎、ガウディ、白川静などがその対象だった。

粟津は日常の中にデザインがあると考えていた。日常に身を投じながら、創造していくというスタイルを通していく。土着的なモチーフを大事にしたのは、デザイン作品は生活や人間をきりはなせないと考えていたからだ。根源は「生いたち」の中にあるとする。そして「誰かと誰かが「出会う」という事実によって、何か今までになかった世界がつくられます。お互いが未知なるものを秘めながら、必然的であろうと偶然的であろうと、そこから新しい出来事が始まります」。

書籍のデザイン、いわゆるブックデザインにも力を注いでいる。長いあいだ残る作品であり、複合的なデザインが要求される分野だ。内容とデザインを一致させる必要があり、結果としてさまざまの領域の本を読むことになった。他人の思想を生かしながら自己成長を続けていったのだ。粟津潔の仕事は膨大で、かつその都度、大きなインパクトを与えている。注目のデザイナーとして若きデザイン学生たちが杉浦康平粟津潔を挙げていたことからもその影響力がわかる。

私の記憶にあるのは、映画『田園に死す』での詩人役、日本文化デザイン会議の諸ポスター作品、映画『心中天網島美術監督、つくば万国博覧会・テーマ館アートプロデューサーなどだ。作品は国際的にも評価が高い。ニューヨーク近代美術館、アムステルダム現代美術館、オスロ近代美術館ワルシャワ・ポスター美術館、富山県立近代美術館、金沢21世紀美術館などに作品が所蔵されている。

粟津潔の『デザインになにができるか』(企画制作:金沢21世紀美術館)を面白く読んだ。何人か私も縁のある人の名前があった。この中で、「生い立ち」「出会い」「出来事」という言葉がでてくる。私は「人生鳥瞰図」というコンセプトデザインを提唱しているが、この中で人の「価値観」を導くのは、この三者であるとしている。粟津と同じ方向を向いている感じがする。そして粟津は人との「出会い」や、イベントなどの「出来事」によって、学習し、経験し、デザインという仕事を広げ、深めていったとみえる。粟津潔は「独学」と、「ヒトリノヒトガヒトリデタッテイル」と本人がいうように「独歩」の士であった。

「ものを創りだすことは、見ることだと思う」という。見ること、見えてくること、見抜くこと。見て、見て、見つづけることが、やがて創りだすことである。独創の秘訣は見ることにある。

粟津潔 デザインになにができるか