「没後70年 南薫三」展(東京ステーションギャラリー)

企画展を少しづつまわっています。「南薫造」「白川義員」「与謝蕪村」。それぞれについて書いていきます。

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東京ステーションギャラリーで『南薫造』展をみました。

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1883年生。1902年、広島県初の東京美術学校西洋学科入学し、岡田三郎助、黒田清輝に学ぶ。油彩画に励みながら、水彩画も描いていく。画工ではなく「美術家」を目指す南は勉強主義だった。「いかに手が確かであっても頭がからっぽではダメ」

1907年、18世紀来の水彩画の伝統のある英国ロンドンに留学する。「写実」の道から入り日本美術の再建を志して、写実作品の研究と自身の写生を積み重ねる。富本憲吉、高村光太郎、有島生馬(美校のマンドリン仲間)と交遊と旅行に精を出した2年半の留学生活を送る。

1910年、帰国し、白樺社主催の南と有島の滞記念画会などを皮切りに活躍していく。そして1918年に東京に拠点を定め、郷里の瀬戸内とも往復を繰りかえす。「自然と人生との調和した新しい田園風景」を描いた。インド、朝鮮、北海道、中国にも足をのばした。中央画壇と地域文化復興に大きな役割を果たしていく。瀬戸内の風景を明るく描く。晩年は郷里で生活する。「写実」という終生の目標いむけて精進していく。版画家・永瀬義郎が率いる芸南文化同人会でも活動する。1950年死去。

南薫造の絵を見た後で、これほどの画家の名前を知らなかったのはなぜだろうかと不思議に思った。

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今日は、府中市美術館で「与謝蕪村」展。

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「名言との対話」3月14日。豊田穣「死ぬならば、美しく死にたいものだ。海の上にただ一つの紋章を残して」

豊田 穣(とよだ じょう、1920年大正9年)3月14日 - 1994年平成6年)1月30日)は、日本小説家。

岐阜県出身。海軍兵学校卒業。霞ヶ浦航空隊付き。第36期飛行学生。1943年ソロモン方面イ号作戦で撃墜され、一週間海上漂流の後、米軍の捕虜となる。1946年帰国。中日新聞入社。1953年、「長良川」で直木賞を受賞。1986年紫綬褒章受章。1992年中日文化賞受賞。

 米軍捕虜となったとき、5か月間にわたり執拗な尋問を受ける。この時、通訳官であったドナルド・キーンが訊問した最初の捕虜だった。

戦後の1947年、処女作「ニューカレドニア」を発表。1951年、『ミッドウェー海戦』で岐阜県文化賞受賞。1971年、『長良川』で第64回直木賞を受賞。以降職業作家として執筆活動に専念する。一方で自由出勤が認められたため中日新聞社は定年まで勤めている。

1970年、50歳で『長良川』で直木賞した時の選評を読んだ。柴田錬三郎「敬服のほかはない。この作者の受賞は、むしろおそいぐらいである」。今日出海「あの生々しい体験を昇華して、文学にした作者の成熟した腕と精神を私は高く評価するものである」。源氏慶太「私は、感動した。この感動は、日を経てもかわることがなかった」。これ以降豊田襄は堰を切ったように仕事をしていく。海軍、戦争をテーマとした小説を書き、その活動は死去の1994年まで続いた。その原動力は、戦争の正体を見極めたいという一念だったと思う。「日本という国家及び日本人それ自体の体質、そして、軍事よりむしろ、政治経済外交の性格や方向づけに問題があったのではないか」との述懐がある。

『海の紋章』(光文社NF文庫)を読んだ。「海軍青年士官の本懐」との副題がついている。主人公の海軍士官は豊田であり、自伝的色彩の強い作品である。

江田島海軍兵学校の時代から、1943年のソロモン方面イ号作戦に赴くまでが描かれている。最後に旗艦「大和」で連合艦隊司令長官山本五十六から「天祐と神助を確信して勇戦されんことを祈る」との訓示を聞き、戦線に向かう。

この小説の中で、主人公の武田竜平は大分県宇佐航空隊に着任する。そこで担任から中津で吞むことををすすめられる。この本では私の故郷の中津について以下のように説明している。古い城下町。福沢諭吉の生まれたところ。頼山陽が推奨する名勝耶馬渓。美人の産地・日田があり芸者も美人がいる。日豊本線。三百間という海水浴場。山国川。筑紫亭が海軍のゆきつけ。河豚料理がうまい。周防灘の上空から、八面山、豊前善光寺四日市宇佐神宮駅館川がみえる。中津の料亭・筑紫亭は、軍人がよく利用し、あばれて、柱には刀の傷があるとも聞いた。司馬遼太郎の「街道をゆく」にも登場する。私は2000年代の前半に郷里の恩師でもあった横松宗先生夫妻、JALの先輩の影木夫妻を、母と一緒に招いて宴を催したことがある。

豊田穣戦記文学集』(全11巻)がある 。1 マレー沖海戦。2 ミッドウェー海戦。3 ハワイ海戦と南雲中将。4 提督の決断。5 戦艦武蔵レイテに死す。6 戦艦重巡の死闘。7 空母爆沈。8 蒼空の器 撃墜王鴛淵孝大尉。9 空戦。10 ああ海軍兵学校 豊田穣自伝Ⅰ。11 海の紋章 豊田穣自伝Ⅱ。 岐阜の岐阜県図書館に「豊田穣文庫」、そして 瑞穂市図書館には「豊田穣コーナー」がある。

『海の紋章』の最後のシーンでは、トラックからラバウルに向かう7時間の飛行中、碁盤の白石のように断雲が続く。死を決心した武田は断雲を白い墓標のように感じる。そして「死ぬならば、美しく死にたいものだ。海の上にただ一つの紋章を残して」と考え続ける」。しかし豊田襄は死ななかった。そして体験した戦争を縦横に描く作家となった。かれが残したのは、戦記文学という紋章だった。

海の紋章 海軍青年士官の本懐 (光人社NF文庫)

海の紋章 海軍青年士官の本懐 (光人社NF文庫)

  • 作者:豊田 穣
  • 発売日: 2018/01/22
  • メディア: 文庫