企業ミュージアム訪問記。田原真人さんと「miro」。久里洋二の本。8000歩。耳学は芥川龍之介と小林勇。

企業ミュージアム訪問記を4つ。

「帝国データバンク史料館」。創業者後藤武夫。

日銀金融研究所「貨幣博物館」。古銭収集家・田中啓文

エース株式会社の「世界のカバン博物館」と「新川柳作記念館」。

奥野かるた店「小さなカルタ館」。二代目の奥野伸夫。

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朝:マレーシアの田原真人さんと「miro と図解コミュニケーション」というテーマで田原さんのmiroを使ったメモをみながら1時間ほど語り合いました。「オンライン図解コミュニケーション」というテーマが浮上。

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今日の耳学(朗読)

芥川龍之介『歯車』。自伝的作品。死の影が漂う。夏目先生。全6章で構成され、避暑地から都心に出かけた「僕」が次々にキーワードに襲われる強迫観念に囚われる。

小林勇1903年3月27日 - 1981年11月20日岩波茂雄の娘婿。編集者。岩波書店会長)インタビュー(カルチャーラジオNHKアーカイブ):インタビュアーは尾崎士郎(1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2 月19日)。岩波茂雄1881年8月27日 - 1946年4月25日)。幸田露伴(1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)。露伴は「自分のこと、過去のことは語らなかった。興味のあることを語った」。関係者の年齢の位置関係がわからないとよく理解できない。

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マッサージ:往復を含め8000歩。

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一浴一冊:久里洋二「ボクのつぶやき自伝」(新潮社)。

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「名言との対話」4月6日。桂米丸「弟子は師匠の「鏡」なのだ」。

四代目 桂 米丸(かつら よねまる、1925年4月6日 - )は、落語家。

 「わが師 今輔のこと」というテーマの噺をする映像をみつけて楽しんだ。かぞえで80歳の時の姿だ。小学校時代から父の落語のレコードを聴いていつの間にか「寿限無」などを覚えてしまった。学校や軍隊ではそのおかげで人気者になった。

旧制東京都立化学工専という高学歴ではあったが、敗戦後落語家になろうと決心し、17歳年上の兄経由で 5代目古今亭今輔に入門する。この師匠のエピソードをいくつも語っていたが、小説家の長谷川伸との会話もよかった。今輔は群馬弁が抜けず落語の江戸弁がうまくできた。その悩みを伝えたところ、「うまくなればそれでいい。味が出てそれが個性になるよ」と言われ、開眼したそうだ。

読了した『落語家 米丸 笑いの引き出し』(うなぎ書房)は、師匠から得た教訓だらけだ。いい弟子であったことがわかる。

1947年 、古今亭今児を名乗る。1949年、師匠・今輔の前名であった桂米丸を襲名し、真打に昇進する。1976年の師匠・今輔の死去に伴い、翌1977年、日本芸術協会(現:落語芸術協会)(芸協)の3代目会長に就任した。米丸はほぼ同時期に落語協会の会長職に24年間あった5代目柳家小さんをいつも目標にしていた。米丸は23年間、会長職にあった。

師匠の方針で「バスガール」など新作落語から出発したこともあり、時代の先端の風俗を取り入れて一世を風靡していく。また桂米丸はテレビ番組の司会やドラマでも活躍したから、その人柄はよく知っている。

この自伝を読むと、師匠の教えがそのまま弟子の教えになっているという感じがする。師匠は真心の人であった。以下、教えをいくつかピックアップ。

・売れている人の真似をしなさい。

・腹が立ったら、一人でお酒を飲んで寝ちまうことです。怒りのエネルギーは芸にぶつけることです。

・上にハマろうとしてヨイショするより、下に厚くしなさい。

・人間ほめられたら注意することです。

・みんなに評判がよくないと駄目なんです。

弟子は師匠の「鏡」なのだ。一字一句同じように繰り返すのが稽古だから、結果的に、教えた本人の欠点もみせてくれることになる。弟子に稽古をつけることが自分の勉強になるのだ。弟子に教わるとはこういうことだとわかったと米丸はいう。教えることは学ぶことであるとはよくいわれることだが、落語の師弟関係はその極致だろう。

 桂米丸は本日で96歳。活動を継続している落語家としては最年長であり、いまなお寄席を中心に活動を続けているという。 

落語家米丸 笑いの引き出し

落語家米丸 笑いの引き出し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一浴一冊」の読書習慣。

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・多摩センターで秘書の近藤さんと打ち合わせ。

・南大沢の東京都立大学の国際交流センターのレストランで食事。

・朗読:ユーチューブで小川未明「殿様の茶碗」を聴く。睡眠朗読シリーズ。

・「一浴一冊」。風呂で一冊の本を読み、大事なところに印をつける習慣。今日は広中平祐『学問の発見』(講談社)を読了。

・ デメケン:企業ミュージアムと「Shout」。miroと図解コミュニケーション。

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「名言との対話」4月5日。瀬川康男「こんどは、絵が俺を、引いて行く。苦しみながら歩け、行ける所まで行け、と云う」

瀬川 康男(せがわ やすお、1932年4月5日 - 2010年2月18日)は、日本の画家版画家絵本作家

愛知県岡崎出身。旧制中学時代に画家になろうと決意し、東京芸術大学美術学部油画科を受験するも失敗。東京の下宿で浪人生活を送るが、結核に罹患して3-4年間の入院生活を送る。絵はこの間も独学で描き続けた。

1960年に初の絵本『きつねのよめいり』を出版し、3作目の『ふしぎなたけのこ』で第1回BIBのグランプリを受賞、以後、多くの仕事をこなしていく。

1967年に『いないいないばあ』を出版。それまでほとんどなかった0歳児向けの絵本で、450万部のロングセラーとなり、赤ちゃん絵本の代表的作品となった。同年には『ふしぎなたけのこ』で、スロバキアブラチスラバ世界絵本原画展グランプリを受賞した。そういえば、新宿かどこかで、私も「イナイイナイ バー」というバーを見かけたこともある。それほどの影響力があったということかもしれない。

1987年には『ぼうし』で、講談社出版文化賞絵本賞、絵本にっぽん大賞を受賞。1983年から1990年まで、平家物語に登場する人物の人生を全9巻で描く絵本シリーズ『絵巻平家物語』(文章は木下順二)の制作に取り組んだ。膨大な資料と取材をもとに構想を重ねた。「絵のために苦しむことはみな苦しんだ、という気がする」「たいへんな仕事」と語っている。この作品は1992年に産経児童出版文化賞大賞を受賞した。

生涯で100冊を超える絵本の作品を発表している瀬川は、「絵本界の鬼才」と呼ばれた。そして童画の枠を超えた現代的な「児童出版美術」の域に達した、という評価を受けている。

 1982年、長野県青木村に居を移す。古い大きな家を「坦雲亭」と名付け、アトリエで創作に没頭する。1983年夏から、「坦雲亭日乗」と題した日記を書き始め、亡くなるまで27年間書き続ける。愛犬や友人、里山の人々と交流した穏やかな時間、張りつめた創作の時間の様子を記している。

 1990年7月14日の日記には、冒頭に紹介した言葉が記されている。自分が選んだ絵の道であるが、しだいに絵が自分という存在を引っ張っていくようになる。そして何者かが「行けるとこまで行け」というまでになる。「無限の長さと感ずるまで、息をつめてみつめてみる。植物は植物の形をぬぎすてて、金色にかがやく本来の顔をあらわす」「花が生まれ 育ち咲くように素描すること」という言葉を読むと、動物はもちろんのこと、描く自然界の山川草木のすべてに仏が宿っていると感じたのであろう。瀬川康男という画家は、運命に身をゆだねよう、そういう境地に達したのだろう。

 

 

 

   

和田秀樹『六十代と七十代 心と体の整え方』(バジリコ)ーー「勇気と癒しの書」

和田秀樹『六十代と七十代 心と体の整え方』(バジリコ)を読了。

読む必要があって精読しました。精神科医にして高年学のオーソリティの「自信作」であり、本人曰く高年世代のための「勇気と癒しの書」です。

サブタイトルは「良く生きるために読む高年世代の生活学」で、オビには「読むと生きる意欲が湧いてくる本!」と紹介しています。

 2020年6月初版第1刷発行で、2021年2月に第7刷となっており、コロナ禍で快走しているようです。

六十代と七十代 心と体の整え方

六十代と七十代 心と体の整え方

  • 作者:和田秀樹
  • 発売日: 2020/07/06
  • メディア: 単行本
 

 著者の和田秀樹は、伝統的価値観とは何かを思索する保守主義者を自認し、日本政府が抱える膨大な財政赤字は政府の経済失政によるものであるとし、政治家の能力と倫理を問題視している。

専門家としての「心と体の整え方」を多くの事実の解説と、60代・70代へ向けて的確なアドバイスが満載だ。以下参考になったところをピックアップしえみた。

  • 人は心から老化する。前頭葉
  • ネンネンコロリ(NNK)とピンピンコロリ(PPK)
  • もっと「肉を」。もっと「光を」。
  • 朝は和食。昼は肉とサラダ。夜は軽め。赤ワイン。ブラックチョコ。
  • ややポチャ体型が理想。
  • 鎌田式ストレッチで貯筋。かかと落とし(10回3セット)とスクワット(10回3セット)
  • 感情の老化を防ぐこと。生涯現役で。レーシックとインプラントを。医者は薬を飲まない。副作用を聞け。かかりつけ薬局を大事に。好色のすすめ。免疫力の維持を。
  • 金は使い切る。パソコンは万能ツール、SNSで脳のアンチエイジングを。

コロナへの対処については、最後に以下を提唱している。ウイルスと共存しながら被害を最小限に抑える。部屋に引きこもらず毎日一度は外で陽の光を浴びる。食事をしっかりとる。免疫力を維持する。人とコミュニケーションをとる。

そして世界は資本主義の底が抜けたようで、地政学的なパラダイムも大きく変容するだろうという。しかし、「生老病死」という人生の原理を変わらないとし、「何をくよくよ川端柳、水の流れを見て暮らす」とい坂本龍馬作とされている都都逸で締めくくっている。まさに高年世代のための「勇気と癒しの書」となっている。

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ユーチューブの朗読を聴く。

芥川龍之介

  • 『運』。「出典は『今昔物語』巻十六「貧女清水観音値盗人夫語第三十三」である。目先の変わった物語であるが、原作の筋をほぼそのまま踏襲している。芥川は、物質的な幸福だけを真の幸福と考える若侍と、精神の内部における幸福を最大視する翁と、この相対する二つの型の人間の会話を最後において、種類の異なった幸福感を示し、原作に多少の綾を付与した」。
  • 『秋』。従兄で作家志望の「俊吉」と結婚するはずだった才媛の「信子」は別の青年と結婚し、妹の「照子」と「俊吉」が結婚する。「信子」は自らの寂しさを秋と思う。芥川の作風の新境地として評価された現代小説」。。

太宰治『親友交歓』。「自称小学校時代の友人という男の訪問を受けたときのやりとりを描いた話で、主人公の「私」はそのことが自分の記憶に消し難い記憶を残すという。皮肉の効いたユーモラスな作品でありながら、戦後の風潮をよく捉えた作品である」。

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「名言との対話」4月4日。三浦光世「よくぞ綾子書いたのう。いや~いや~いや~、書かせていただいたのだ。忘れてはならんぞ」

三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人

小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた人物である。2006年に旭川三浦綾子文学記念館を訪ねたとき、二人の愛の物語に感動したことを思い出す。

1927年に父の開拓地北海道滝上村に家族で移住するが、父の死亡後、母方の祖父の家に預けられ約10年を過ごす。小学校卒業後、運送社に就職。1940年、営林署に就職。

1941年7月、腎臓結核のため右腎臓摘出手術を受け、17歳から11年間療養生活を送る。正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発する。また闘病中にキリスト教に出逢い洗礼を受ける。1952年結核完治。1955年、闘病中の堀田綾子を知り1959年に結婚し、24歳から37歳までカリエスで絶対安静でベッドの上で過ごした綾子を支えた。1966年に営林署を退職し、以後、綾子の作家活動を支える。綾子42歳のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案している。

1971年3月から40年にわたり、日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者であった。また日曜版しんぶん赤旗歌壇選者でもあった。その他、自伝『青春の傷痕』『少年少女の聖書物語』や妻綾子のことを書いた『三浦綾子創作秘話』『死ぬという大切な仕事』など著書が多数ある。1998年、旭川市三浦綾子記念文学館が開館し、2002年より12年間、館長をつとめた。

著書に妻との共著「太陽はいつも雲の上に」がある。 自著に「少年少女の聖書物語」「妻と共に生きる」「死ぬという大切な仕事」「綾子へ」 「妻三浦綾子と生きた40年」「希望は失望に終わらず」 。歌集「夕風に立つ」などがある。

三浦綾子・三浦光世の短歌―― 精読「アララギ土屋文明選」(田中綾)では、夫の光世は「大正十二年生活苦をかこつ父の日記胎児吾を堕さむかと惑ふ言葉あり」との記述を見つけたことが紹介されている。そして1963年12月17日には、「よくぞ綾子書いたのう。いや~いや~いや~、書かせていただいたのだ。忘れてはならんぞ」という光世の言葉を紹介している。綾子の初めての小説は、光世の予言どおり、朝日新聞の1千万円の懸賞小説で一席になった。その『氷点』執筆の追い込み期にその写しをとりながらの言であった。

三浦綾子が単著本84作を含め、100冊以上の本を世に送り出したのは、この人の献身的な支えによっていることがわかる。文字通りの二人三脚で、愛する人の才能を育てながら、自分の人生を生き切った人がここにいた。この人の存在の発見も嬉しく思った。

クロネコヤマトの誤配、ようやく示談。

クロネコヤマトも誤配があるのですね。

クラウドファンディングで支援いただいた方への書籍の送付で誤配が起こりました。3月10日に発送し、ようやく4月3日に再送、明日4日に到着することになりました。

たまたま本人との接触があり、未到着の発生がわかり、対処が始まったのですが、やはり時間がかかりました。以下は、示談書。

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本田宗一郎の74歳時のインタビューをたまたま聴きました。聴き手は当時45歳の堺屋太一。以下、本田の言葉から。

上の人の小言がなかったから戦後の復興は成った。ホントは藤沢武夫が社長だ、友達。株式会社は株主と従業員のものだ。公私をはっきりする。適材適所ならば人は宝になる若い人が元気いっぱいでやらねば。海外進出はいちばんベルギーという難しい国から。好くと好かれる。納得を大事にする。政府にいわれたからやるというのはおかしいなあ。金は自分ですべて使う。

「人生は離陸に始まり着陸に終わる飛行だから、着陸がまずければ名パイロットにはならない」。「早くやめなきゃ」と67歳で退任した本田宗一郎は、。その後、全国行脚しお世話になった人たちに挨拶に回りました。出処進退の人です。

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深呼吸学部:途中から参加。

橘川さんの「参加型社会」へ向けての大構想を聴きました。

平野:クラブハウス。ラジオ。リモートコミュニケーションの進化という高度情報社会。ZOOMだからこそ。金が発生しないで短期間で友達がでるという社会。

田原:内発。社会を内包した私。教育も社会も変える。

(教祖。経典。教団。メディア。運動論。、、、、)

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「名言との対話」4月3日。松山幸雄「教育の眼目は泉を開発することであって、水槽をつくることではない」

松山 幸雄(まつやま ゆきお、1930年4月3日- )は、日本のジャーナリスト

朝日新聞社記者。政治部、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長を経て1974-76年アメリカ総局長。論説委員編集委員、論説副主幹、1983年論説主幹、1985年取締役。

退任後は、ハーバード大学客員研究員、1993年共立女子大学教授。1976年ボーン・上田記念国際記者賞。1977年『日本診断』で吉野作造賞、1978年日本記者クラブ賞、1986年ベストメン、1986年『国際対話の時代』で石橋湛山賞受賞。

松山は新聞記者やジャーナリストがあがめられていた時代の有名な論客だったので、よく名前は聞いていた。SNSが出てきて、直接ある分野の専門家が提供する知識を目にすることになって、又聞きのジャーナリストの株が下がっている。もうずいぶん前に、書籍編集者から「記者の書いたものではもう読者は満足しません」というのを聞いたこともある。

さて、『勉縮のすすめ』(朝日文庫。1981年刊)を読んだ。10年余にわたりワシントンとニューヨークに駐在した松山が、政治外交という専門分野ではなく、特派員生活の副産物の教育にかかわる本をかいたのだが、当時はよく読まれた。

「権力を持ったら、機嫌をよくするのが最小限の義務であろう」は上司の心得。「出発前に大至急、日本各地を旅行して、日本の勉強をしておきなさい」は、外国特派員への向けた心得。そして、「教育の眼目は泉を開発することであって、水槽をつくることではない」という。

日本人は戦前、戦中の道徳教育にこりたせいもあって、戦後、教育の力点を、比較的無難な知育に集中させすぎた感があり、それが、日本人の弱点となっている。したがって、人間としての修養、訓練を積むことが国際的に活躍する条件であり、受験地獄はなくし、若者の良質のエネルギーを、もっと息の長い人間修養の方にまわそう、という提言である。

この本はもう40年前に書かれた本となったが、修養、道徳、徳育、などを忘れるなという点は、今も生き続けている警鐘となっているように思う。昨今の日本各層の不祥事をみるにつけ、この点が失敗していると感じる。「ウソは泥棒の始まり」「李下に冠を正さず」などという言葉は死語になった嫌いもあるが、人間として、職業人としての基礎部分なのだ。現在のリーダーたちのふるまいは教育界に与える悪影響はきわめて大きいと言わざるをえない。「知育、徳育、体育」ということが、自己教育も含めて「教育」における普遍的な眼目であることを改めて確認した。 

「勉縮」のすすめ (朝日文庫 ま 2-1)

「勉縮」のすすめ (朝日文庫 ま 2-1)

  • 作者:松山 幸雄
  • 発売日: 1981/07/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

大学院の「必ず書ける! 修士論文の書き方」講座に出講ーー威力。目から鱗。気づき。新たな視点。ハッとした。

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品川の社会人大学院で、18時半から20時まで「必ず書ける! 修士論文の書き方」と題した講義をしてきました。ZOOMで20名ほどが受講しましまた。 

 以下、すぐに届いた受講生の感想から。

  • 本日は貴重な講義をどうもありがとうございました。大変失礼ながら、講義冒頭では図解の重要性に疑いの念を感じておりましたが、実際の演習を通じてその「威力」を実感しました。文章⇒図解について。たった2行の文章であっても、いざ図で表現しようとすると(不慣れなので)手が止まりました。そして頭を捻って書き出した図には、文脈の捉え方と行間の読み方が如実に表れており、いかに受け手に着信にした際に差が出るかをまさに「見せつけ」られました。図解⇒文章について。全体構成をイメージするため、書き始めに時間を1・2分使いましたが、その後は文字通りスラスラと筆が進みました。「あ、次書くのはこのことだな」と次の展開も念頭に置きつつ書けたことが自身でも驚きでした。まさに、肌身で感じた貴重な体験でした。玉に瑕なのが、本所感を書く前に図で整理をしなかったことかもしれません。講義間の5分で書き上げたものでしたので、今回はご容赦ください。本日はどうもありがとうございました。
  • 本日の論文基礎講座の講義、ありがとうございました。講義を拝聴して、目から鱗が落ちるような思いがいたしました。「図解」をすること。「図解をしなければよくわからない。図があってこそ理解ができる」ということ。自分の経験を振り返り、正にその通りだと感じました。嘗て受験勉強をしていた時、理解を進めるために、教科書や参考書の内容を、自分なりに図解をして覚えていました。そのように覚えた項目は、不思議と後々まで忘れませんでした。その時は、文章を図解してから頭に入れる作業でしたが、自分の考えを図解してから文章におこした経験はまだありません。しかし論文演習を進める際には、「図解」して体系的にとらえることが不可欠だとわかりました。今はまだ、修士論文を如何に進めていくか模索しておりますが、必ず図解をして視覚的に捉えながら、論文を作成していきたいと存じます。本日は大変有意義な講義を拝聴させていただき、誠にありがとうございました。
  • 本日は講義ありがとうございました。私も仕事上で、図式にしたり絵を描くことを実践しているはずなのですが、不完全であったのかなあと感じた時間でした。自社の理念・行動指針・戦略などを図にしてわかりやすくすることも行っていたのですが、文章から図にしていました。文章にする前にフリーハンドで描いていましたが、おそらく文章から人に伝わりやすいように図式にしたと気づきました。図式にすることからスタートすることで、より深みのある分かりやすい文面になるのではと気付かされました。私にとって本日の講義は、論文を書くためだけでなく、自身が事業を行っていることにも強く影響する気づきを得ました。ありがとうございました。引き続きよろしくお願い致します。
  • 図解は文章を説明するのに活用する、あるいは、装飾して、インパクトをつけて、視覚に訴えるという認識でした。思考法にする、体系・関係を整理して論理展開のルートを決める手段というのは新たな視点で、いいことを聞いたというのが本日の感想です。論文ではなく、明日からの仕事で、ディスカッション用に使ってみたいとも思っています。ありがとうございました。

  • 本日は貴重な講義をありがとうございました。講義を通じて、文章、箇条書きの欠点について理解出来たとともに、図解から文章を作成していくという考え方は、全体の構造、又部分ごとの関係性を明確に視覚化することが出来ますので、今後論文を作成していく上で大変参考になりました。今まで私自身、仕事で相手に物事を伝える時などは箇条書きで伝達する事が多く、きちんと相手に伝わっていると勝手な思い込みをしていたと反省致しました。先生のおっしゃられた、図に出来ないものは論理的ではないという事を肝に銘じましてこれから論文を作成していきたいと思います。今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。

  • 本日の講義、ありがとうございました。 これまで、文章を書く際は「箇条書き」することを心掛けていましたが、冒頭の「箇条書きは悪」との言葉にハッとさせられました。同じ文でも人それぞれ理解に違いがあり、文から図にすると人それぞれ図がまちまちになってしまうということから、文章で表現することの難しさを痛感しました。文章を書く際は、全体の構造と部分の関係を表すことが重要との説明がありましたが、先日、職場においてデータ管理に関する講演を受講する機会があり、その際に講師から情報システムの構築の際はアーキテクチャーと各システムとの連携が重要との指摘があり、ITにおいても文章を記述する際にも重要なことはある意味共通することだということに気付きました。また、図を最初に作成すると文書が非常に書きやすかったことを実感しました。本日の講座で得た知識を、是非論文を執筆する際の参考にしたいと存じます。
図で考えれば文章がうまくなる (PHP文庫)

図で考えれば文章がうまくなる (PHP文庫)

  • 作者:久恒 啓一
  • 発売日: 2016/04/15
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

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ユーチューブで新・日曜美術館種村季弘 奇想の迷宮」をみながら帰りました。 種村 季弘(たねむら すえひろ、1933年昭和8年)3月21日 - 2004年平成16年)8月29日)は、日本独文学者評論家。稀代の「博覧強記」日本における「幻想文学」のジャンル的な確立に貢献した。「新・日曜美術館」は楽しそうなので、登録。

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「名言との対話」4月2日。飛鳥田一雄「「タイじゃなくて、マスを釣ってこい」

飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年4月2日 - 1990年10月11日)は、日本政治家衆議院議員横浜市長日本社会党委員長を歴任した。

5歳、小児麻痺を契機に一雄をイチオと読むようになる。中学2年から杖をつく。中学時代からマルクス・ボーイとなった。弁護士、市議と県議を3年。代議士を4期10年経験。

1963年、「厚い壁がさえぎっている。厚い壁が砕かれるだろう。厚い壁のこなごなは、やがてきれいに除かれるだろう」と挑戦の決意をあらわし、横浜市長に当選する。同時期に全国で革新首長が続々と誕生し、飛鳥田は革新首長のリーダー的存在と見なされるようになった。1964年には全国革新市長会を結成し、会長となった。 4期15年の任期を全うし、際立った個性をもつ今日の横浜市の基礎を作り上げた。

飛鳥田市長時代は六大事業が中心だった。みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業、これと連動した金沢地区埋め立て事業、港北ニュータウン事業、幹線道路事業、地下鉄事業、ベイブリッジ事業。外にも横浜スタジアムの完成に漕ぎつけ、1978年には日本社会党委員長になっていた飛鳥田が始球式を行っている。

『生々流転 飛鳥田一雄回想録』の最後にある関係者の座談会では、「市政を身近なものにした」「自治体に自信をつけさせた」「横浜方式」「時代の教師」という高い評価をもらっている。私の記憶でも革新市政を担った飛鳥田一雄は、華々しい革新市政の代表だった

「ボクの政策は、マルクスがウエーバーを着て歩いているようなもんさ」「行政の職人としてものを言うけど、こっちは市民の常識、素人の発想でいくわけさ」「保守と革新じゃあ、同じ首長でも困難さが違う」「抜擢して喜ばれても三ヶ月だけど、恨まれたら一生だからね」(人事は難しい)「市政をうまく進めるためには市民の間で多数派を占める必要がある。、、広報の充実とマスコミ対策だよ」

1977年、「原則は松の木の根の如く、対応は柳の枝の如し」と名言を吐いた成田知己委員長の説得で、日本社会党委員長に就任。横浜市長時代の退職金として、一般職員の基準額である1,592万円のみ受給し、市長としての特別手当分1億2,888万円を返上した。

全党員による公選で委員長に就任し、1979年、総選挙で東京一区でトップ当選。しかし社会党改革は難しかった。清新な党を目指したが派閥の存在に負けた。1983年の参院選の途中で「もう引き時だ」と決心する。5年九ヶ月その職にあった委員長を辞任し、石橋政嗣が後継となった。「いま一番気になるのは、人々が情熱を失ってしまっていること。政治は理論であると同時に、情熱なんだ。それを高度成長の中でみんな失ってしまった」。政界から引退し、市民派の弁護士として活躍した。1990年、75歳で死去。

心残りのない横浜市長時代と、内心忸怩たるものがある社会党委員長時代の二つが飛鳥田の主戦場だった。市長という地方の仕事は「突破と創造」がテーマであったが、政党委員長という中央の仕事は「均衡とまとめること」が課題であり、存分には成果をあげられなかった。

冒頭の「タイとマス」の意味は、希望と決意の違いである。「やりたい」という希望はダメだ、「やります」という決意をもって仕事をせよ。この言葉は庁内で語り継がれているようだが、課題解決に向けての気迫の重要さを示している。 会議の議事録でも感じることだが、「、、という意見があった」や「、、と決まった」など受け身のものが多いが、私も「、、と決定した」など気合のこもった議事録を書くことを指導してきたつもりだ。それによって組織の動きが速くなるからだ。議事録ではない、トップの指示書なのだ。飛鳥田市長の考え方に共感する。(再掲)

 

飛鳥田一雄回想録―生々流転
 

 

 

 

 

 

 

樋口裕一『「嫌い」の感情が人を成長させる』(さくら舎)

樋口裕一『「嫌い」の感情が人を成長させる』(さくら舎)を読了。「著者謹呈」という紙が入っていました。

「嫌い」の感情が人を成長させる ー考える力・感じる力・選ぶ力を身につける

「嫌い」の感情が人を成長させる ー考える力・感じる力・選ぶ力を身につける

  • 作者:樋口裕一
  • 発売日: 2021/02/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

以下、書きかけ。

 著者の樋口裕一さんとは、小学校時代によく遊んだ人でそれ以来音信不通だったが、10数年前に再開し、つい最近まで大学の同僚として親しくしていたので、やや乱暴になるかもしれないが、筆が進むままに書いてみよう。

「嫌う」ことの復権を主張した本だ。「何を好む」かもさることながら、「何を嫌うかによって、その人がどんな人かがわかる」と著者はいう。
著者は嫌いなものを挙げてゆく。レモンが嫌い。マーラーが格別嫌い。ジードが嫌い。川端康成が嫌い。谷崎潤一郎の『細雪』が大嫌い。すっぱいものが嫌い。猫が大嫌い。ダリが嫌い。卒業した高校と先生が嫌い。ある同級生が嫌い。両親のように生きることが嫌い。反対に好きなものは少ないようだ。クラシックが好き、特にベートーベンとワーグナーが好きというくらいか。さて、読者は、この著者はどんな人だとわかりますか?
この著者には断言癖があるようだ。反発と炎上を楽しんでいるフシがある。 「価値観の中核は好き嫌いにある」、「 主観で語れ」、「嫌うエネルギー」、「怒り!が生きている証拠」。、、、、、。
要するに「嫌いと怒り」が主体的に生きるための必要条件という珍しい考えだ。忖度をやめて、嫌いなことから距離を置く勇気を持とう。そして怒りを持とう。その二つを意識し、日々実行することで、人は成長するということらしい。
「怒り」とは何を指しているかはよくわからないのだが、私自身は世の中に存在する不正や差別などに対するわななくよう怒りがなければ生きている資格はないと思っている。それは著者と同じだろうかと疑問は残る。
そしてこういうことは人の性格によって賛否が分かれるだろうから、もろ手をあげて賛成とはいかないが、ある種の人々には深く賛同が得られるかもしれない。人間全体を説伏しようという不遜な野心がなければ、主張は過激な方がいいというスタイルを貫くのは間違いではないかもしれない。
著者は「頭のいい人、悪い人」という反感を持たれるようなタイトルの本をたくさん書いていて、ファンも一定層はいるが、敵も多いのではないか。敵をつくることで味方をつくるという戦略かもしれない。「嫌い」をテーマとしたこの本は「嫌われる」勇気を持っているという希な性格、あるいは世の中を斜め上から敵視して眺めているキライのある著者ならではの産物である。
 思考するとはマルバツを考えていくことだ、中途半端にしないマルバツ思考が大事だ、と語っている。もちろんバツは嫌いという価値観だから、嫌いな人を徹底して排除していくかというとそうでもないらしい。
「嫌う」ことの復権を主張した本だ。「何を好む」かもさることながら、「何を嫌うかによって、その人がどんな人かがわかる」と著者はいう。
「怒り」とは何を指しているかはよくわからない。私は世の中に存在する不正や差別などに対するわななくよう怒りがなければ生きている資格はないと思っているが、著者と同じだろうかと疑問が残る。
そしてこういうことは人の性格によって賛否が分かれるだろうから、もろ手をあげて賛成とはいかないが、ある種の人々には深く賛同が得られるかもしれない。人間全体を説伏しようという不遜な野心がなければ、主張は過激な方がいいというスタイルを貫くのは間違いではないかもしれない。
著者は「頭のいい人、悪い人」という反感を持たれるようなタイトルの本をたくさん書いていて、ファンも一定層はいるが、敵の方が多いように思う。「嫌い」をテーマとしたこの本は「嫌われる」勇気を持っているという希な性格、あるいは世の中を斜め上から敵視して眺めているキライのある著者ならではの産物である。
 思考するとはマルバツを考えていくことだ、中途半端にしないマルバツ思考が大事だ、と語っている。もちろんバツは嫌いという価値観だから、嫌いな人を徹底して排除していくかというとそうでもないらしい。
「好き嫌いを異にする人との共存が大事」、「好き嫌いを異にする人との共存が大事」との常識的な発言もあるから、この著者も年齢相応に世間の荒波に翻弄されて、厳しさ、寒さが身に染みてきて、角がとれ妥協というものの大事さを少しは分かってきたのであろうか。いや、もしかしたら、それは世の中を渡る方便なのではないか、本音は違うのではないかとの疑念も残る。
私は「考える」ことは、「理解」「疑問」「反論」に分けることだと考えている。疑問はいずれ理解つまりマルと、反論つまりバツになるから同じことかも知れないから、同じことを違う表現、過激な言辞を弄するクセでいっているだけかもしれない。
著者本人から「今の日本では多様な価値観が認められるようになって、多くの人の好きなものは尊重されるようになった。ところが、何かについて嫌いだと言ってしまうと、他者の好きなものとバッティングしてしまうため、何についても嫌いだと言明できなくなった。そのために息苦しい社会になっている。〈好き〉だけでなく、〈嫌い〉も尊重してこそ、本当の意味で多様な価値を認めることになる。〈好き〉だけを尊重すると抑圧になる」との説明が届いた。でも誤解も、曲解する権利も読者にあるのだと言いたい。それが書評というものなのだ。
いずれにしろ、「嫌い」というある種の負の感情をあらわすキーワードだけで一冊の本に仕上げる手腕は大したものだと認めざるを得ない。今は使う人は見かけないが、本人が自分を「著述業」と名乗っているのもわかる気もする。この時点で一般書100冊以上、小論文参考書150冊以上という怒涛の仕事量を誇っている著者の生産性が高いのは間違いはない。
逆風の向かい風で高くあがる凧のように、この著者一流の挑発スタイルでどこまで仕事を積み上げていくのかを横からながめることを愉しむことにしようか。

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「名言との対話」4月1日。菊竹清訓「日本型住宅が、21世紀の世界の理想になる」

菊竹 清訓(きくたけ きよのり、1928年4月1日 - 2011年12月26日)は、日本建築家

 福岡県久留米市生まれ。早稲田大学在籍中の48年に行われた「広島平和記念聖堂」のコンペで、学生ながら丹下建三に次ぐ、前川國男と並ぶ3位となる。

1953年に独立。1960年に川添登黒川紀章らと結成した、社会の変化に対応し代謝・更新する建築、都市を提案する「メタボリズム」グループの中心的な存在となる。

2000年にユーゴスラヴィアビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれている。

若き日に出雲大社をみて開眼し、「私の原点は出雲にある」という。それを裏付けるように、建築評論の川添登は「菊竹清訓論は出雲大社の『出会い』から始めなければならない」と述べている。縁があり山陰地方には「島根県立博物館」「島根県立図書館」「出雲大社庁の舎」「田部美術館」「東光園」「萩市民館」など5菊竹の代表作11件が集積することになった。

1970年の大阪万博から、沖縄海洋博、つくば科学万博、そして2005年の総合プロデューサーをつとめた愛知万博まで深く日本国内で開催されてきた国際博覧会にも深く関わっている人だ。また「海上都市」がライフワークであり、1971年にはアメリカ・ハワイ大学で研究・実験に取り組み、75年の沖縄国際海洋博では政府館〈アクアポリス〉として実現させている。

菊竹の建築は、代謝・更新する建築だ。都市における、残すものと代謝更新するものを選びながら進化を続けるという思想である。弟子の一人の伊東豊雄は、「恐らくこのような狂気を秘めた建築家が今後あらわれることはないだろう」と菊竹を語っている。

『日本型建築の歴史と未来像』(学生社1992年刊)を読んだ。日本の建築の歴史は、400年ごとに前の形式を包括しながら高度化し次の形式が生み出されてきたとする。4世紀の古代は竪穴・高床。8世紀の平安時代は貴族文化の「寝殿づくり」。12世紀の鎌倉時代武家社会の「書院づくり」。16世紀の桃山時代は町人文化の「数寄屋づくり」。そして現代の市民社会はでは「自在づくり」が出現するだろうと予測している。

この進化400年説によると、高床づくりは建て替え、寝殿づくりは棟別の改築、書院づくりは増改築、数寄屋づくりは更新・再利用や資源の有効活用など、しだいに生活の自由度が増してくるという見立てである。

日本は作りてよりも「住みてオリエンテッド」な住宅だそうで、誰が住んでいたかが重要だ。逍遙、漱石などに代表される教養のある住みてにとっていちばん楽しいのは、自由度の幅が広い日本の住宅ではないかという。

菊竹清訓の作品は 、石橋文化センター、ベルナール・ビュフェ美術館、井上靖文学館、奈良公園館(なら・シルクロード博覧会)、アクアポリスなど多いが、以下、私が訪問したことのある建築をあげてみたい。いずれも不思議な形や、存在感の強い作品だ。旧ホテルCOSIMA (ソフィテル東京)。、銀座テアトルビルホテル西洋銀座)、西武百貨店渋谷店SEED館、西武百貨店渋谷店LOFT館、江戸東京博物館昭和館九州国立博物館 。なるほど、こういうものが菊竹の思想をあわらした作品だったのかと改めて感心した。

「日本型住宅が、21世紀の世界の理想になる」と菊竹清訓は喝破する。日本の木造建築は柔軟性と包括力をもちながら連続して発展する歴史を持っている。日本型建築とは新陳代謝する生物的建築である。それは日本型というより、グローバル型、世界型というべきだ。それが鬼才・菊竹清訓の予言である。

絵画、彫刻、音楽、文学などの領域で、西洋に対し独自性を主張する革命家をそれぞれ輩出している。その共通するキーワードは、「日本」である。建築の分野にも菊竹清訓がいた。

日本型建築の歴史と未来像

日本型建築の歴史と未来像

  • 作者:菊竹 清訓
  • 発売日: 1992/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

「定年はあっても、停年はない」

林周二『研究者という職業』(東京図書)を読了。

ビジネスマン時代から、郷里の中津の横松宗先生から「研究者になりなさい」と言われていました。それがいつか実現したことになるのですが、林週二のことを書いたことをきっかけに、この本を読んでみました。生涯現役であるためには、研究者的生活が大事になると改めて思いました。

研究者という職業

研究者という職業

  • 作者:林 周二
  • 発売日: 2004/09/01
  • メディア: 単行本
 

 ・研究者とは「自分の頭脳を働かせることで、系統的な情報創造活動を営み、かつそれでメシを食っている各種の知的職業人たち」。

・研究者には、「定年はあっても、停年はない」、「生涯現役、生涯第一線」。

・研究のテーマを自分自身の手で掘り起こし、研究生活を楽しむ体験をもったタイプの研究者たちは、高齢に達してからも概して何がしかの研究業績を出し続けている。

・プロとは「上手になるほどお金を稼ぐことのできる者」。アマとは「上手になればなるほど出費が嵩む者」。

・鋭い観察力。分析能力。理論を構築する能力。

・発想の泉を涸らさないことだ。

イブ・モンタン

・旗を振っておくこと。

note.comーーーーーーーーーー

YAMI大学深呼吸学部のプロジェクトの仁上さんの「情報探偵団」の「ファミリーヒストリー」のZOOMミーティング。仁上さん、亀団さん、橘川さん。題材の一つとして「久恒」を追うことになりました。母にインタビューし、系図の原案を作成しました。これを膨らませることにしたいと思います。まずは、「質問」を作成することから始めます。

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「名言との対話」3月31日。永井路子「『万葉集』は、愛と恋の聖書」

永井 路子(ながい みちこ、1925年3月31日 - )は、日本歴史小説家。

 東京生まれ。東京女子大学国語専攻部を卒業。戦後は東京大学で経済史を学ぶ。歴史学者となる黒板伸夫と結婚。1949年小学館入社、『女学生の友』や『マドモアゼル』等の編集に従事。1961年、『マドモアゼル』の副編集長で退社して文筆に専念する。

1964年、『炎環』で直木賞を受賞する。1984年、中世を題材にした作品で歴史小説に新風をもたらしたとして、菊池寛賞を受賞。

1998年、寄贈した蔵書を中核資料とした「古河文学館」開館。2003年、幼少時を過ごした旧居永井路子旧宅を修復し古河文学館の別館として公開。古河文学館から北へ500mほど離れており、江戸町通りに面している。19世紀初頭に初代・永井八郎治が葉茶屋「永井屋」を開業し、のちには陶漆器・砂糖も扱い、質屋も営んだという。永井家は江戸時代からの古い商家で、土蔵造り・2階建ての店蔵が残されている。

 永井路子『万葉恋歌』(光文社文庫)を読んだ。永井は万葉集を「日本の古典の中で、もっとも若々しい古典である」と述べ、「愛と恋の聖書」と呼ぶ。「日本人の心のかたち、愛のかたちがどんなものか。いわば愛の原型といったものを考えるとき、『万葉集』を抜きにしては、何も考えられない」が結論だ。

奈良時代。牛乳を飲み、チーズの味も知っていた。女はスカートと上着のツーピースを着て、腕や髪にアクセサリーをつけていた。ロングスカート、ロングストール。椅子の生活。ベッドで寝た。上流階級の生活は現代と同じだったのだ。

多摩川に晒す手づくりさらさらに何ぞこの子のここだ愛しき」は、208年に万葉歌碑の旅をライワークとしている私の母と狛江の多摩川沿いに建つ玉川碑を訪ね、その意味を教えてもらった。歌碑は多摩川のかつての六郷用水の取水口に近い民家の庭先に立っていた。万葉当時文字を持たなかった日本人が、中国から伝えられたばかりの漢字を使って使っている日本語を何とか表わそうと努力して、音を漢字にあてはめた万葉仮名で書き表わされている。訳は「多摩川にさらさらとさらす手づくりの布のように、さらさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう」。この碑は、刻まれた文字が江戸幕府の老中として活躍した松平定信の筆になる。また渋沢栄一が撰文した裏面の撰文の玉川碑陰記には、この碑のできた由来を述べた後、「そもそも微なことでも、(大事なことは)世に紹介し、幽なことでも(大事なことは)闡明にしていくことが、孔子が著したとも言われる「春秋」(という歴史書)の志であった。」という言葉がある。公益活動に熱心だった渋沢栄一の志がみえる気がする言葉である。

「たらちねの母が手離れかうばかりすべなき事はいまだせなくに」は、「私たち女性すべての初恋の姿でもある」と永井は説明している。

オーディブルの「講演・エンターテイメント」の女性の講演録を聞いたことがある。文藝春秋社の文化講演会での講演録で、それぞれ1時間弱の中身の濃い講演だった。母系社会という視点での連続講演だ。それぞれ有名な作家達であり、山崎朋子上坂冬子山崎豊子宮尾登美子は太平洋戦争に翻弄されており、「戦争」というテーマをそれぞれの立場から深掘りしており、心を打つ。

山崎朋子「アジアの女・アジアの声」は、「帝国海軍の伊号潜水艦長であった父を喪った経験。朝鮮人青年との恋愛。アジア各地に散った底辺女性や満州花嫁の悲劇のエピソード。個人の幸せと国家の真の姿を見つめる」。上坂冬子「繁栄日本の陰に」は、「奄美大島の民謡に隠された長崎原爆の被爆者たちの知られざる人生。アメリカ在住の広島からの原爆の被害者たち。ノンフィクションというものがよくわかる」。山崎豊子大地の子と私」は、「日中戦争最大の犠牲者・戦争孤児。同じ日本人なら最後の一人まで捜し出すのが人間じゃないか。「私たちを三度も捨てないでください」という言葉の衝撃」。「宮尾登美子「いま女はさまざまに生きる」は、「満州難民収容所。空腹で子供とひとつの饅頭との交換を考えた。引き揚げ後の肺結核。赤ん坊だった娘に収容所経験を書き残したかった。そこから始まった作家人生」。杉本苑子「万葉の女たち娘たち」は、天皇・貴族・庶民・奴隷まで、あらゆる層の人々が本音を吐露する万葉集の歌は現代人の胸を打つ」。平岩弓枝「秘話かわせみ」は、「「御宿かわせみ」の執筆秘話。師匠・長谷川伸と兄弟弟子たちとの濃密な修行の日々」。

そして永井路子「歴史をさわがせた女たち」は、「平安以前は女系家族。女帝が多くその官僚としての女官の存在など、女の時代であった。新しい日本史のヒーロー像。裏声で語るオンナの物語」だった。永井路子の講演からは、日本の古代は実は女性上位の時代だったことがよくわかった。

万葉集は愛と恋の聖書」とはよく言ったものだ。永井路子は本日で96歳。青年期(25-50)、壮年期(50-65)、実年期(65-80)、熟年期(80-95)を終えて、大人期(95-110)に入っている。