寺島実郎の「世界を知る力」ー「2021年秋 日本の選択」。現代日本人にとって「宗教」とは何か。

寺島実郎の「世界を知る力」ー本日「2021年秋 日本の選択」。

番組のテーマ「健全な資本主義」「自立自尊の日本」「人間社会のあるべき姿」

与野党ともに産業政策がない。実態認識に欠けている。健全な危機感の欠如。

  • 岸田政権:脱・新自由主義の否定とアベノミクスの肯定・継承は矛盾。
  • 野党:弱者救済のための分配と消費税の引き下げ。大企業・富裕層への増税

現実を直視せよーーどうやったら分配を増やせるか?

  • GDPの世界シェアはピークの3分の1。1994年17.9%、2000年14%、2020年6%。
  • アベノミクスは目標の▲11%。:GDP2020年600兆円。現実は536兆円。
  • 基幹産業は2割ダウン:鉄(粗鋼)▲21.9%。科学(エチレン)▲22%。自動車(国内)▲20.4%。一次エネルギー▲16%。
  • 国民生活は収入支出は1割ダウン:現金給与▲8.5%。世帯消費▲12.3%。

10-20年後、どういう産業で日本人はメシを食うのか?

  • ファンダメンタルズをとり戻す:食と農。医療と防災。ここから分配が誕生。

3つの質問。

  • 世界史における日本の役割?20C前半は戦争。後半は経済主義。アジアの安定軸
  • 2045年敗戦100年。米軍基地はあるのか?外国軍隊駐留は占領時のまま。自立自尊
  • 2045年に人口はピークから3割減。議員定数は3割削減すべきか?710人の議員。▲200人超。1人2億円。10年で4000億円超。代議制民主主義を厳しく問う。

人間とは何か。現代日本人にとって「宗教」とは何か。

  • 人口1.2億人。宗教信者1.8億人。
  • 国民意識:寺じまい・墓じまい。NHK国民意識調査。1973年から。

戦後日本人の精神構造:宗教希薄の時代。宗教なき時代。

  • 戦前の政治宗教への反動:キリスト教儒教の知識なし。神社は初詣。希薄化。
  • 経済至上主義:物量に負けた。物量で復活。PHPの思想。宗教の希薄化。
  • 社会主義革命幻想:55年体制。宗教の希薄化。

3・11から10年。コロナショックで1.5万人が死去。

レジリエンス(心の耐久力、回復力)が宗教の持つ意味

  • 魂の基軸はまだ残っている:神道氏神様・自然への思い。仏教(大乗仏教を進化させ民衆仏教へ)。儒教(倫理・道徳)。これらが相関の中で大きな力(条理・節理)を持っている。
  • 鈴木大拙の禅。他者に共鳴する心が宗教

11月に新刊『人間と宗教ーーあるいは心の基軸』。体験と文献から。

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幻冬舎オンライン7回目。

news.yahoo.co.jp

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11月の人選と本の注文:16冊。

デメケン打ちあわせ。

メルマガ「学びの軌跡」が本日で1300号。

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「名言との対話」10月18日。馬場のぼる「子供だましの絵本は結局は子供もだませぬ」馬場 のぼる(ばば のぼる、1927年10月18日 - 2001年4月7日)は、日本の漫画家・絵本作家。

手塚治虫・福井英一とともに「児童漫画界の三羽ガラス」と呼ばれた。やがて大人漫画や絵本も執筆し、日本経済新聞の連載4コマ漫画『バクさん』、絵本『11ぴきのねこ』シリーズ等が代表作となった。

青森県三戸町に生まれる。小学校時代は成績優秀者で「三戸町長賞」を受賞。旧制中学を4年で終了(4修)して海軍に入り特攻隊員となる。戦後は大工見習い、代用教員などをしながら独学で漫画の勉強を開始する。

21歳、児童文学者の白木茂と知り合い、昭文社を紹介され「怪盗カッポレ団」で漫画界にデビューした。上京し白木茂宅に寄宿。23歳、長期連載漫画「ポストくん」を開始し人気を博す。24歳、手塚治虫、福井英一らと「東京児童漫画会」の会員となる。結婚。

29歳、「ブウタン」で小学館漫画賞。32歳、「漫画集団」に入会し大人漫画もてがける。。37歳、サンケイ児童出版文化賞。1967年40歳、「11ぴきのねこ」を刊行。41歳、サンケイ児童出版文化賞。44歳、斎田喬戯曲賞。46歳、文芸春秋漫画賞。50歳、全国各地の郵便局などを訪ねる「まんがルポ」を郵政省広報誌「ポスト」で始める。52歳、児童福祉文化賞奨励賞。54歳青森県褒章。58歳、ボローニャ国際児童図書展でエルバ賞。60歳、逓信記念日郵政大臣表彰。62歳、デーリー東北賞。66歳、日本漫画家協会文部大臣賞。68歳、紫綬褒章。70歳、読売国マンガ大賞選考委員特別賞。72歳故郷の三戸町名誉町民。73歳、東奥賞特別賞。2001年、逝去。享年73。

1967年、40歳になってライフワークとなった「11ぴきのねこ」が刊行される。シリーズは半世紀以上にわたり世代を超えて愛され続けている。この6冊のロングセラーは、2021年7月現在で累計456万部を超えている。「私は、いわゆる猫好きではなく、猫を描くのが好きなのです。猫の生き方は人間に似て、面白いです」。

ストーリー漫画を築いた手塚治虫柔道漫画で人気を博した福井英一とともに、児童漫画界の三羽ガラスと呼ばれていた。手塚治虫の葬儀では弔辞を読んでいる。

ほんわかした素朴なユーモア。ペーソス。フフッと頬が緩む小さな笑い。決して人を貶めることがないという笑い。

西武池袋線の中村橋の練馬区立美術館の『まるごと 馬場のぼる』展を9月に訪れた。とても混んでいた。女性が多い。「馬場ワールド」にはファンがいまなお多いのだ。『公式図録』に手書きのメモとおもわれる「絵本についての考察」が掲載されている。その中からいくつか言葉を拾う。

「絵と文は互いに持ちつ持たれつの関係」。「文は出来るだけ簡明に、絵で語ること。絵で語ることによって物語は大きくふくらみ、感銘深いものになる」。「絵は具象でなければいけない。その上に物語をふくらませるための配慮、洞察といったものが必要である。生きた絵をかくことが最も大切」。「教訓をむきだしにすることはやさしい。それは最もヘタなやり方だからである。親はこれを喜ぶが子供はけ敬遠する」。「大人の鑑賞に堪える絵本」。

「子供だましの絵本は結局は子供もだませぬ」。ここに馬場のぼるの絵本についての考えがある。本人は「漫画家が絵本をかいている」と言うスタンスにこだわっていた。馬場のぼるは、出発時の「児童漫画」の世界を生きたといえる。

 

「AIのべりすとα2.0」を試す。

深呼吸学部で紹介のあった「AIのべりすとα2.0」を使って、本日訪問した世田谷文学館の「描く人 谷口ジロー展」のメモを書いてみました。

AIが書いてきた文章はその都度、少し私の方で修正をほどこしていますが、なんとかつじつまが合っている感じはします。数行ごとに、私とAIが交互に書いていくという仕掛になっています。

一から自分で文章をつくるのでなく、文章が途中で終わっていることもあり、AIから誘い水がくるので、それに応じて書いていくから、敷居が高くない感じがします。文章を書く際にある緊張感は薄らいで、気が楽なのはいいですね。

架空の物語なら奔放にどこまでも走ってもいいのでしょうが、実在の人物を語るのはやや無理があるかもしれません。「AIのべりすと」は文字通り、小説家。次は短編小説にトライしてみようか。

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Using "AI no Berisuto Alpha 2.0", which was introduced in the Deep Breathing section, I wrote some notes on the Setagaya Museum of Literature's "Jiro Taniguchi: The Artist" exhibition that I visited today.

I made a few corrections to the AI's text each time, but it seemed to make sense somehow. Every few lines, the AI and I take turns writing the text.

I don't have to make up sentences from scratch, but sometimes I end up in the middle of a sentence, and the AI invites me to write in response, so it doesn't feel too difficult. The tension that exists in writing is diminished, and it's nice to feel at ease.

If it were a fictional story, you could run wild and go as far as you wanted, but telling the story of a real person might be a bit overwhelming. "AI no Berisuto" is literally a novelist. Let's try a short story next.

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世田谷文学館で昨日から始まった「谷口ジロー」展を見てきました。谷口は知る人ぞ知る、漫画界の世界的なレジェンドです。帰りに「坊っちゃん」という5巻のうちの1巻を買ってみました。漱石から始まり、鴎外を経て、最後は漱石で終わる明治という時代を主人公にした作品です。

夏目漱石は、中学から大学にかけて読んだので、わりと馴染みがあるのですが、この谷口ジローさんの漫画の作品は知りませんでした。

谷口さんの描く絵は、とても懐かしい感じがしました。漫画のキャラクターにはありそうでなかった、ちょっとユーモラスな表情や仕草。そして、なんといっても、そのストーリー性! 登場人物がみんな生き生きとしていて、感情移入しやすく、それでいて、この時代の著名人がたくさん現れて、漱石と関係を持っていることがわかります。

2巻は森鴎外の物語です。「夏目金之助君が小説をかいた」、自分もやってみるか。漱石の「三四郎」に刺激を受けて鴎外が書いたのが「青年」でした。こんなふうにして、谷口ジローの漫画の世界に引き込まれていきました。

坊っちゃん」は、絵の中に物語が隠されていて、それが読み取れるようになっているます。谷口独特の手法です。

谷口ジローの絵の特徴は、背景に手を抜かないことです。静謐ですが、リアルな感じがとてもいい。
ヨーロッパ、とくにフランスで人気が高い漫画家で、後にも先にも、似た人は現れませんでした。映画監督の小津安二郎が歴代の日本の監督の中で、世界からは一番だと認められていますが、それと同じ匂いが谷口ジローの漫画にはあります。谷口ジローのインタビュー本も買いました。表紙の本人の写真がとても魅力的です。

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名言との対話」10月17日。アーサー・ミラー「一生働きつづけてこの家の支払いをすませ、やっと自分のものいなると、誰も住む者はいないんだな」。

アーサー・アッシャー・ミラー(Arthur Asher Miller, 1915年10月17日 - 2005年2月10日)は、アメリカ合衆国の劇作家。

ニューヨーク生まれ。ミシガン大学在学中、戯曲で賞をとる。1947年「みんな我が子」でニューヨーク劇評家賞を受賞。1949年「セールスマンの死」でニューヨーク劇評家賞、ピュリッツアー賞などを受賞し、一躍世界的劇作家となる。その後、「るつぼ」(1953年)、ピューリッツァー賞受賞作「橋からの眺め」(1955年)などを発表。

他に「ビシーでのできごと」、「代価」、「悲劇と平凡人」などがあり、時空間の工作という舞台技巧を駆使する実験的劇作家でもあった。

私生活ではマリリン・モンローと結婚し、そして離婚したことで話題になっている。

代表作の『セールスマンの死』(ハヤカワ演劇文庫)を読んだ。

敏腕セールスマンで鳴らしたウイリー・ローマンも、得意先の知り合いが引退し、成績が上がらない。帰宅して妻から聞かされるのは、家のローンと保険、車の修理費の請求だ。前途洋々だった息子も定職につかずこの先どうしたものか。夢に破れて、すべてに行き詰まった男が選んだ道とは、、、。

主人公(ウイリー)

  • 一生働きつづけてこの家の支払いをすませ、やっと自分のものいなると、誰も住む者はいないんだな。
  • 人に好かれれば、困ることはない。たとえば、わしだ。
  • 大物なんだぞ、おれは!
  • 一生に一度でいいから、こわれないうちに払いきって、ちゃんと自分のものしてみたいよ!これじゃいつも、ゴミ捨て場と競争しているようなもんだ!私が払い終わるころには。車はくたばる。冷蔵庫は狂ったようにベルトをすり減らす。ちゃんと時間をみはからってやがる。払いきったとたん、寿命がくるってしかけなんだ。
  • わたしは36年間、この会社のために働いたんだ、なのに、保険料をさえ払えないんだ!
  • ものをいうのは、顔がきくか、にっこり笑って相手をつかむか、です!つまりコネ、コネですよ!
  • 人間、生まれたからには、そのままでは死ねませんよ、何かを残さなくちゃね。

妻(リンダ)

  • なぜ、誰もが世界を征服しなけりゃならないの?
  • 家の最後の支払いは、今日すませました。今日ですよ。でも、もう住むひとはいない。、、、これで、自由になったのよ。、、、借りも、、、払いも、、、なくなってね、、、

息子(ビフ)

  • 二週間の休暇のために、一年五十週間を身を粉にして働くわけだ。
  • どうしてもつかめないんだよ。これという価値が。
  • おれは人の頭に立つような人間じゃないんだ。あんただってそうだ。足を棒にして歩く注文とりにすぎないんだ。とどのつまりは、ごみ箱にほうりこまれるのがおちさ!、、、おれは1時間1ドルの人間だ!
  • お父さんは、悪い夢を見ていたんだ。とんでもない見当ちがいの。

家族・仕事・老いなど現代人が直面する問題に斬新な手法で鋭く迫り、アメリカ演劇に新たな時代を確立した作品である。

だれのまわりにもいるような身近な姿、使い捨てのセールスマン群、を的確にしかも冷ややかに、距離感をもって描いている。アメリカンドリームが持つ問題を指摘した作品だ。

この作品は、発表当時の1949年以外に、3回のリバイバルがあった。1975年、1984年、1999年である。主人公のウイリーというセールスマンが吐く道徳と虚勢と本音が入り混じった言葉には誰もが胸を打たれるはずだ。劇場街はアーサー・ミラー通りと呼ばれているほどの影響があった作品である。アーサー・ミラーの指摘した現代人が抱える問題は今も生きている。

 

 

ヨガ。蕎麦と酒。深呼吸。新人物風土記。

朝はヨガを1時間。

昼食はうまい蕎麦を食べながらビールと日本酒を飲んだので、自宅で昼寝ということになりました。

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夜はZOOMで深呼吸学部を受講。別のパソコンで「新人物風土記」のアイデアを探るという内職をしながら参加。

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「新人物風土記」「新・人国記」のアイデア大分県ではどうなるか。

磯崎新(大分)。富永一朗(佐伯)。立川澄人(大分)。松下竜一(中津)。横松宗(中津)。稲尾和久(別府)。福田平八郎(大分)。野上豊一郎(臼杵)。梅津美治郎(中津)。滝廉太郎(竹田)。平松守彦高山辰雄。尾畠春夫(日出)。ペトロ岐部(国東)。福沢諭吉(中津)。利光松男(中津)。重光葵(杵築)。野依秀市(中津)。広瀬武夫(竹田)。賀来龍三郎(中津)。前野良沢(中津)。久留島武彦(玖珠)。村山富市。柴田紘一郎。広瀬淡窓(日田)。野上弥生子臼杵)。朝倉文夫。宇治山哲平(日田)。黒田如水(中津)。有光教一(中津)、双葉山(宇佐)、、、。

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「名言との対話」10月17日。大山のぶよ「ぼく、ドラえもんでした。」

大山 のぶ代(おおやま のぶよ、1933年10月16日 - )は、日本の女優、声優、歌手、脚本家、エッセイスト、タレント。

東京都渋谷区出身。子ども時代に変な声だといじめられた時に「弱いと思ったら、そこをどんどん使いなさい」と励ましてくれた母が早く亡くなったこともあり、「手に職を」つけようと、都立三田高校在学中に劇団俳優座養成所に入学。夫はタレントで『おかあさんといっしょ』初代体操のお兄さんの砂川啓介

1956年「この瞳」(NHK)でデビュー。「ブーフーウー」「ハリスの旋風」「江戸を斬る」などに出演する。代表作の「ドラえもん」の声「可愛い、人のよいロボット」に遭遇し、「ぜひやらせてください」と申し出る。代表作の「ドラえもん」の声は1979年4月から2005年3月まで、45歳から26年間担当した。

物語の主人公たちは東京都練馬区に住んでいる。このロボットは「どこでもドア」を持っていて、「古今東西」、「過去未来」、「宇宙、海中、地中」に連れていってくれる。2112年9月3日生まれのドラえもんは身長129.3cm子守り用のネコ型ロボットで、人間の手伝いをする。

原作の藤子・F・不二雄は大山のぶよに「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ」と声優冥利に尽きる言葉をいってくれた。

1969年から1996年まで小学館の雑誌で連載され、単行本45巻に1,345話が収録されている。「ドラえもんがポケットから出す多種多様なひみつ道具(現代の技術では実現不可能な機能を持つ)で、のび太(以外の場合もある)の身にふりかかった災難を一時的に解決するが、道具を不適切に使い続けた結果、しっぺ返しを受ける」が基本的なストーリーだ。

全国の子どもたちはドラえもんのとりこになってしまう。いつの頃からか、大山のぶよは他の声の出演は断るようになり、ドラえもん一本の声優になった。

原作の漫画が出版された国および地域は、中国、香港、台湾、韓国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイ、ラオスカンボジアインドネシアキプロス、イタリア、スペイン、フランス、ロシアである。

アニメーションはこれまで、北米(アメリカ合衆国、カナダ)、中南米(ブラジル、コロンビア、チリ、アルゼンチン、エクアドルボリビア、ペルー、パラグアイベネズエラパナマ、メキシコ、プエルトリコキューバドミニカ共和国ニカラグアコスタリカホンジュラスエルサルバドル)、ヨーロッパ(スペイン、イタリア、フランス、ポルトガルポーランドベラルーシ、ロシア、イギリス)、中東(サウジアラビアカタールUAEオマーンエルサレムイスラエル、トルコ)、アフリカ(アルジェリアリビアチュニジア)、東アジア(中国、香港、マカオ、台湾、韓国)、東南アジア(インドネシア、マレーシア、タイ王国ベトナム、フィリピン、シンガポールカンボジア)、南アジア(インド、バングラデシュブータン、ネパール、パキスタン)、オセアニア(オーストラリア)でも放送された。全世界といってもよい。

私も子育ての間は、一緒に「ドラえもん」をよくみた。小学生になった孫も、一心不乱に漫画を読んでいる。ドラえもんは永遠だ。

作家の瀬名秀明は「私は物語の基礎を『ドラえもん』と『コロコロコミック』から学んだ」。漫画評論家米澤嘉博は、「ひみつ道具」を主軸にして作られる『ドラえもん』の作劇を「マンガにおける一つの発明」と評価している。

ガンの為、降板のニュースが流れたとき、友人の黒柳徹子から「あなた二十六年なんてなによ、私は『徹子の部屋』をもうすぐ三十年よ」と2004年に電話がある。大山はその後、認知症になって夫が面倒を見ているとの報道に接している。

やめてから2カ月たってドラえもんとの楽しい日々を書こうと机に向かい、1年後に書き上げる。それが『ぼく、ドラえもんでした』(小学館文庫)だ。それを読んだ。

ソフトバンク孫正義は、今までのロボットは人間のプログラミングのとおり動くガラボであり、「ロボットの時代とAIの時代をかけ合わせる、『スマボ』 の時代がやって来る」とし、「もし日本で1億台の 『スマボ』 が導入されれば、労働人口にしておよそ10億人相当の国に生まれ変わる」と夢を語っている。「ドラえもん」もつくって欲しいというのは子どもだけでなく、今や大人になった日本人たちの共通の願いだろう。

弱いところを勇気をもって打ち出すと、それが個性となって、声優となり、空前絶後のの大ヒットを生んだのだ。その声は日本中の子どもたちに届いた。それはドラえもんが生まれた22世紀まで生きる可能性のある今日の子どもたちの生き方にも影響を与えるはずだ。大山のぶよが関与した「ドラえもん」の世界という発明は、世紀の大プロジェクトになったようである。

 

 

 

 

 

「小早川秋聲」展。「最澄と天台宗のすべて」展。知研セミナーの試行を始める。

都心に出る用事があり、合間に美術館と博物館を訪問。内容は別途記述の予定。

東京駅。東京ステーションギャラリーの「小早川秋聲」展。

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上野の東京博物館の「最澄天台宗のすべて」展。

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夜:知研セミナー:猪俣さんの「憲法改正」がテーマ。10数人が集合。憲法論議に花が咲いた。来月は小野さんの「みんなで本を書こう」。「共著の技術」というサブタイトルをつけたらどうかな。

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終了後、知研幹部会に参加。

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「名言との対話」10月15日。米山稔「 天はチャンスを与えるときに、必ずピンチを添えて与える」

米山 稔(よねやま みのる、1924年10月15日 - 2019年11月11日)は、日本の実業家。スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社創業者。

新潟県長岡市生まれ。沖縄戦線に派兵された。慶良間諸島渡嘉敷島で激しい戦闘を体験して生き延びて捕虜生活を送る。

米山製作所(現ヨネックス)を設立し、漁網用の浮きなど木製品の製造販売を開始。バドミントンラケットの生産に転じ、新素材の導入や海外市場戦略で、バドミントンやテニスのラケットを世界のトップブランドにそ育て、ゴルフ用品にも進出した。この間、ピンチの連続の連続であった。

『ネックス米山稔 負けてたまるか』(日経ビジネス人文庫)を読んだ。

ヨネックスは、情報力、技術力、そして新素材研究を重視している。素材研究と技術開発を行い、常に新しい素材を研究していいなとライバルにすぐに追い抜かれる。

ヨネックスは、バドミントン・ラケット、テニス・ラケット、ゴルフクラブと成功を重ねており、ランニングシューズ、スケボー、、、、と挑戦は続いている。米山によれば「20世紀は、石油と自動車とスポーツの世紀」だそうだ。我田引水の感じもするが、メディアの発達も急速であったから、そうかも知れない。

世界のバドミントンんのレジェンドになっていたインドネシアのルディ・ハルトノをラケットを改良することで応援し、全英オープン選手権7連覇を果たした。現在ではヨネックスは世界のバドミントン界で圧倒的な支持とシェアを誇っている。

テニスでは「頂上作戦」を敢行。キング夫人。マルチナ・ナブラチロワ伊達公子マルチナ・ヒンギスセレシュ大坂なおみ、などトッププレイヤーの信頼を得ている。そしてゴルフでは、父が同姓同名の米山みどりを応援している。

「獨征」という額を自宅に飾っている。ひとりゆく、と読む。小学校の恩師から贈ってもらったものだ。「どんなことでも良いから日本一になれ」と、志の大切さを教えてくれた。人間は独りに徹するとき、最も強く生きられるという趣旨だ。

経営哲学は「ピンチはチャンス」である。ピンチに見舞われるたびに、独自の製品をひねりだし、チャンスに変えていく。米山は「創造」の人である。

以下、挑戦と挫折のくり返しから絞り出した言葉をみよう。

「辛くて辛くてどうしようもないときに、救いの手をさしのべてくれる書物に出会い、吸い込まれるようにして読み切り、そこから光明を見いだした経験を持つ人は、読書に楽しみ以上の何かを求めるようになる。そうなると、読書は人生、経営の道標になってくる」。

「繁栄は滅亡の前触れであり、ピンチは繁栄へのチャンスである」

「転んでも、そのたびにひと回り大きくなって起きあがる。それをモットーにした私には「越後の雪だるま」というあだ名がついた」。

この本には海外のメーカーの社長や、トップアスリートと楽しそうに、親しそうに写っている写真が多い。小柄だが、満面の笑顔で愛嬌があり、活力に満ち溢れた感じがする。

世界的スポーツブランド「ヨネックス」を育てた男、「負けてたまる」がモットーの米山稔は天寿を全うした。享年95。

 

 

 

 

『鴎外語録』4-ー「50代後半の男の生き方」から「遺言」まで。

『鴎外語録』4-ー「50代後半の男の生き方」。

以下、語録。

  • (渋江)抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文藝方面の書をも読んだ。其述が頗るわたくしと相似てゐる。、、、抽斎は嘗てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかった。はるかにわたくしに優ったせい勝の具を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。(「渋江抽斎」)
  • 五十九歳になったら隠居しようと思っていた渋江抽斎は「若し父とおなじやうに、七十四歳まで生きてゐられるものとすると、これから先まだ二十年程の月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をすり。先ず老子の註を始めとして、、、を果たして、それから自分の為事に掛かるのだ、と云った。(『渋江抽斎』)。しかし、それから間もない同年の安政5年8月に急病、当時流行のコレラにかかって逝去してしまった。
  • 老いぬれど、馬に鞭打ち千里をも、走らんとおもふ、年立ちにけり(「賀古鶴所宛鴎外書簡」)
  • 人間は生きてゐる限は思量する。、、、余す所の問題は、わたくしが思量の小児に、いかなる玩具を授けているかと云ふにある。(「なかじきり」)
  • 、、併しその師はこはくはない。人の説に、老年になるに従って増長するちいふ「死の恐怖」が自分にはない。、、、死をも恐れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。(「妄想」)
  • 生死ノ別ルル俊寛アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントす 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラズ 書ハ中村不折ニ依託シ 宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ 手続ハソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ 何人ノ容喙ヲモ許サス(「遺言」)

夜20時から2時間:深呼吸寄席。

  • 橘川・久米対談「稲葉喜一。高島野十郎。豊田誠。AIのべりすとα2.0(小説)。Star Birth。Trin-samaAI(絵を描くAI)。
  • 滑川海彦「英語韻律法とロック詞のお話」:「詞・詩は解説できても翻訳はできない」「詩は音」「British Rock]「American Rock」、、、。「詩の翻訳」という観点からの私の最後の感想を以下の様に述べた。「JAL広報部時代の上司(茂吉の高弟の柴生田稔の長男)が世界子ども俳句のプロジェクト。俳句はHaikuに。万博で世界中から集め日本語に翻訳し発表。Jack Stam1928生というコピーライター。「俳句の国の天使たち」を発刊。俵万智・Jack Stam共訳『サラダ記念日』1988年。Jackは英語が母国語、日本在住30年以上、そして詩的センスあり(酔雀という俳号)。翻訳は人を得れば可能か」。

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名言との対話」10月14日。トニー谷「「芸人は職業じゃない。生き方です。生き方なんだから、引退なんてとんでもない。私は死ぬまで芸人です」

トニー 谷(トニー たに、1917年〈大正6年〉10月14日 - 1987年〈昭和62年〉7月16日)は、 舞台芸人(ヴォードヴィリアン)。本名、大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)。 

東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)銀座出身。「トニー」という芸名は外人からつけられたあだ名である。姓の「大谷」のタニーをもじってトニーと呼ばれ、それがトニー谷 となった。村松友視トニー谷、ざんす』(毎日新聞社)を読んだ。
ヴォ―ドビリアンという言葉にこだわっていた。コメディアンではない。歌と踊りと笑いを総合した舞台をつくる芸人だという心意気だった。

「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」「ネチョリンコンでハベレケレ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」「バッカじゃなかろか」など独特の喋りで爆発的な人気を博した。このうちのいくつのリズミカルなテンポのいい言葉は私の耳にも残っている。

芸能界では誰に対しても吐く毒舌と嫌味な行動で嫌われたが、エノケンこと榎本健一だけが「君の生命はアドリブにある」と励ましてくれた。「レディーズ・アンド・ジェントルメン」とやると「分かんねえぞ」と野次られて、「アンド・ミーチャン、ハーチャン」と切り返し喝采を浴びるという調子である。トニーのアドリブは天才的だった。

トニー谷流英語は「トニングリッシュ」と呼ばれ、一世を風靡した。英語を日本語にしてそれを七五調に仕立てなおしたカタコト英語である。敗戦を認めたくなかった支配層はトニーに強い妬みを持ったと言われている。

異端児、風雲児、ゲテモノ、戦後の混乱期に咲いた流行児、毒、トニー現象、植民地芸人、ニュースをひっくり返す天才、、とトニーに対する評価は独特だがいいものは少ない。私も子ども頃に、テレビでそろばん片手に芸を披露する姿を見て楽しんでいた。

「私の人生は二十九から」とトニーは語り、それ以前の辛酸をなめつくした不幸な生い立ちについては秘密にしていた。生まれ変わったのだ。それ以前のことが世間に知られたのは、世間を騒がせた6歳の息子の誘拐事件だった。

トニー谷がこだわったのはヴォードビリアンという名前である。ヴォードビリアンとは通俗的喜劇、歌曲・舞踏・軽業・寸劇などを組み合わせた寄席的見世物をみせる芸人と「広辞苑」にある。ネタは新聞、ラジオ、テレビ、日常体験を利用して、寸暇を惜しんで拾い、大学ノートに書きつづる。この手の芸人は次々と新しいネタで勝負しなければならない芸人は辛いと思うが、日本ではこの分野ではトニー谷は傑出している。「ひとに真似されるのも、ひとの真似をするのも大きらい。ぼくにしかできないものをやりたいのよ」。

浮き沈みの振幅が大きい芸人だったが、10年周期でエネルギーを爆発させるというしぶとさを持っていた。時代をよく見つめていたということだろう。

69歳で亡くなった後、遺品のそろばんは永六輔が引きとり、四谷のトモエ算盤社内にある「そろばん博物館」に展示されている。トレードマークのメガネは大村崑が譲り受け、福井県鯖江市の「めがねミュージアム」に寄贈・展示されている。

「芸人は職業じゃない。生き方です。生き方なんだから、引退なんてとんでもない。私は死ぬまで芸人です」というトニー谷は、案外、生真面目な芸人だったと思う。芸人は生き方だという覚悟はすさまじい。芸能人でもなく、芸術家でもなく、芸人を自称した。「芸人」については、芸と人のことだといった森繁久彌なども思いう浮ぶ。タモリ、たけし、さんま、ダウンタウンなど、俳優や歌手などをはるかに超えた感のある現代のスーパースターたちの芸人論も聞いてみたい。彼らはその場を仕切る司会という立場にいる。猛獣よりも猛獣使いの方が地位が高くなっているのが現代だ。

 

 

 

 

「図解塾」課外授業10回目ーーテーマは「独学者列伝」

図解塾。課外授業。テーマは「独学者列伝」。以下、講義メモ。

毎回、資料がまとまっていくのが嬉しい。

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以下、塾生の感想。

  • 本日も濃い2時間をありがとうございます。いつもながら長年にわたり蓄積された人物記念館、「名言との対話」データベースの威力はすごいと思いました。「独学」のテーマで非常に多くの人々の生き方や学び方を教えていただきました。この時間の最初に「独学とは」という問いがあり、ほぼ全員が「自主性」という意味のことを答えていましたが、話を聴いているうちに、「既存の権威によりかからない」「学歴に頼らない」「その分ものすごい勉強量”怒濤の仕事量”」ということに気付きました。そして、すでに社会は学歴や組織に頼る時代ではなくなってきています。型にはまらない能力をつぶさないで生かせる環境をどう作っていくか、上の世代の大きな責任です。また、独学について思い出したテレビの番組がありました。それは「ブラタモリ」。地域の解説をする方たちは、必ずしも大学教授などではなく地域に根ざして長年研究をしてこられた方も少なくありません。また、先週の「青天を衝け」の中で渋沢栄一の父親が亡くなりますが、仕事の傍らずいぶん本を読んでいたことが分かりました。課外は図解塾のメンバーでなくても参加できるとのことで、今後、これはと思う方に声を掛けてみようと思います。
  • 本日もありがとうございました。独学のテーマでの人のお話。毎回思いますが、先生の名言との対話こそ独学ですね。それをお話いただいて、ものすごくお腹いっぱいとなりました。自分がこれ!と思ったことをとことん突き詰める。他人のまねをしない。それが、自分で自分を作る。自分というものを表現する場をもつ。ということになる、ということですね。これからの自分のヒントとなることばかりでした。ありがとうございました。次回はまたまた千本ノックですね。よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。今回のお題は「独学」。「我流」とか「素人はだし」などという、どちらかというとあまり好意的に受け止められ難い、ネガティブな意味合いとして捉えていた言葉でした。今迄の「学び」の認識は、既存のカリキュラムに沿って知識要素をひたすら積み上げるというモノ(いわゆる、勉強)でしたが、確かにこれだけですと「何の為に学んでいるのか」先が見通せない為、なかなか持続は難しそう(いや、できなかった)。何よりも皆同じプロセスで学んだ成果はこれまた皆同じ凡庸なものでありましょう。一方、本日の言葉のシャワーで浴びせ掛けられた、あらゆる第一人者の名前と夫々の「独学」で成した学びの背景を知ることで、俄然ポジティブで発展性に満ちた真の「学び」であると、がらりと印象が変わっていきました。共通した「独学」のプロセスは、①ハングリーな状態で「すごいもの」と出会う。②その「現物」に益々興味を覚えのめりこむ(好奇心)。③周りの目を気にすることなく、時には勇気をもってその世界へ飛び込んでいく。④素直な心で様々な情報を否定せず咀嚼・吸収していく。⑤益々のめり込みを継続し、結果一つの世界観を得る。⑥嫌われようが誰もが認める「独創的な魅力」をモノにする…あー、安藤忠雄さんのお写真眺めながら、なんか勝手に納得してしまいましたが、果たして自分にとっての「すごい出会い」とは何やねん!とセルフ突っ込みしつつ、今後も学び続けるぞと思いを新たにした次第です。次回もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生本日はありがとうございました。今の自分にとって、先達の広がりと深まりを味わい、勇気と自己確信が得られた時間でした。これまでの独学者の残した言葉や学び方、歩んだ道のりを全て彼らの意図する解像度で理解できているわけではありませんが、これまで自分が歩んできた文脈と部分的に共鳴するものがあり、自己確信の高まりにつながりました。 正直なところを広げると、私にはわかりやすい学歴がなかったり、ずっとあまのじゃくに生きてきた所がありました。いくつかとりわけ今回自分に響いた内容を自分の文脈と併せて共有させていただくと、江崎利一「学問に実地が伴えば、鬼に金棒であるが、実地に学問が伴えば、それこそ鬼に金棒以上のものであろう」学校や書物から得た学びに体験が追い付いたときに感じた感触が前者のイメージ。後者のイメージも自分のここ一年半近くの活動の中で起こったことに近いと感じました。約一年半くらい前から、言葉あそびが好きでにキャッチフレーズや屋号等を考える「言語化のお手伝い」をしていました。進めていくうちに何のためにキャッチフレーズがほしいか、自分だけのキャッチフレーズが出来上がると何が捗るかという深掘りをするようになりました。すると、「それができると自分がはっきりする」、「自信がつく」。それを受けて、「じゃあそもそもそうして自信を得られないのか」というような、まずモヤモヤの紐解き、言葉にしていく時間になりました。もはやそれは「言語化のお手伝い」ではなく、1対1のカウンセリングの提供でした。限りなく目の前の人のニーズに寄り添おうとはしたものの、率直に言って自分はやぶ医者でした。それからは、普遍的な人との向き合い方を学問の面と実地の面で経験を積み重ねていきました。学問を伴った実践者に話を聴いたり、発達心理学からキャリア形成論、メンタルモデルにU理論、傾聴、最終的にはナラティブ・アイデンティティという概念に至りました。学問的に紐解かれてい民間の概念においても、伝統的な意識進化のプロセスに触れるべくネイティブアメリカンのFirst Peace Circleに触れたり、本質的なつながりを味わうアティテューディナル・ヒーリングなど、実地につながる学びを深めていきました。そうして、そのすべてを折々の対人セッションで実地を重ねていきました。今振り返ると、忙しくも充実していた時間であり、好奇心の赴くままの探求だったので、自分の持つ伸び率もえげつないものがあったと思えます。・レオナルドダヴィンチ「自分は無学だ」「知恵は経験の娘」 そうした実地を重ねていく中で、人との向き合い方や「悩みとは何か。どこからきて、どこへいくものか」、パターンやサイクルに自分なりの仮説が見えてきました。まさに経験が生んでくれた知恵だったと言えるのかもしれません。とはいったもの、独学を進めれば空埋めるほど、世界には知らないことであふれていたり、自分が紡いだ知恵を別の言葉で表現されていることがあることにすぐに気が付きました。ああ、無知の知。僕はレオナルドダヴィンチではないけれど、そうして体感した世界が紡いできた叡智の広さと深さの前には、思わず「自分が無学だ」と打ちのめされるような、一生味わい尽くせるなあと不思議とぞくぞくする気持ちがありました。それからは、人の言葉や読書は半部答え合わせのような、別解や似た結論でもどのような旅路をたどってきたのか形になったものなのか、プロセスを味わう喜びを知りました。広岡浅子「犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません」 お話を聴いてふと感じたこと。俗っぽい言葉になりますが、「男を尻に敷く」技術・手段こそ学問だったのかもしれません。男の実地に金棒を添えるもの、または女性起点の学問が男の実地を動かしていくという視点もあるのかも知れません。ここまで書いて、自分の独学を思い返した時、ふと一つの疑問が沸き上がってきました。独学者たちの学びを振り返りはどのように行われていたのか、どのようないみをもっていたのかということです。自分にとって学びの振り返りとは、大きく分けて二つの意味合いがあります。一つ目は、学習の定着のための定期的なメンテナンス。これは世間的にも学習局セなどの話で語られることが多いなと思います。二つ目は、自分の学びがこれまでどのような歩みをしてきたのか振り返り、「何のために始めた学びだったか」、「その学びは当初のニーズに適っていてるか」、という検証から次の学びの旅路の方向性を策定する時間という役割です。このプロセスが、学びを癒し、次に深めたいものを見つけための泳ぎたい広がりの海の方角を教えてくれるようなイメージがあります。ふと内容を振り返り味わっただけで、思った以上の文量になってしまいました。今日得たことは自分の体感とともにひとつずつ味わっていき、今後も自分の目指したい世界観のため、好奇心の赴くままの独学を続けていきます。(ゲスト)

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「名言との対話」10月13日。辰野金吾「俺は頭がよくない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家、工学博士。

佐賀県唐津生まれ。工学寮(現・東大工学部)の試験で官費入寮生に漏れ、二度目で受かった。31人中の最下位だった。辰野は後に造家学を首席で卒業することでわかるよに刻苦勉励の人であった。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太長野宇平治、矢橋賢吉、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞、岡田時太郎らの人材を輩出した。帝国大学総長渡辺洪基 の意向を受け、工手学校(現・工学院大学) の創立(1887年)を推進し、運営にも尽力した。大隈重信の要請を受け、早稲田大学建築学科創設(1912年)にあたり創設顧問に就任し尽力した。

東大仏文科で小林秀雄三好達治らを育てたフランス文学者の辰野隆は息子である。金吾は相撲好きで長男の隆を相撲部屋に入門させたこともある。その縁だろうか後に旧両国国技館を設計したのも辰野だった。晩年に隆から、本人がつくった多くの建築物の中で気に入った建物を聞かれて、「一つもない。俺は一生懸命やったがダメだったなあ」と語ったという。辰野金吾の志がいかに高かったかがわかる言葉だ。ちなみに長女・須磨子はビタミンの発見者・鈴木梅太郎夫人である。

辰野金吾の代表作として挙がるのが、1914年に竣工した中央停車場、現在の東京駅である。関東大震災でもびくともしなかったほど堅牢で、震災当時は堂々と建つその姿に、多くの人が励まされた。辰野の建築は設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれたこともこのエピソードで納得できた。

日本銀行本店、京都支店、小樽支店、大阪支店を始め、第一銀行、森岡銀行、朝鮮銀行、百三十八銀行、山口銀行、加島銀行など金融機関の建物っも多い。いずれもルネサンス系に辰野独特の手法を加えた作品が多く、「辰野式」と呼ばれている。赤レンガに白色のストライプが入り、賑やかなスカイラインが特徴だ。

現在でも台湾総統府として使用されている旧台湾総督府庁舎は辰野が監修した作品の一つである。私も台湾でその威容をみたことがある。
18世紀から19世紀かけて美術家や建築家をはじめ多くの人たちがヨーロッパ各地を数か月から数年をかけて訪ね見聞を広める旅をした。グランド・ツアーである。辰野も2年間のイギリス滞在を終えて、1年間のフランス・イタリアへのグランド・ツアーを試みている。旅をすることによって教養を積むという考え方はこのグランド・ツアーに由来している。

辰野の師匠は、鹿鳴館など名建築を残した工部大学校のコンドルとイギリスへの官費留学中に師事したバージェスだった。コンドルの後任として工部大学校教授となった辰野は日本の建築学に次の3つのオリジナルな視点を持ち込んでいる。美術建築の概念、日本建築学の研究、耐震建築学の創始である。つまり日本独自の建築学は辰野がつくったといえる。

現在の日本建築学会を立ち上げ会長となった。この学会は大学関係者だけでなく、技術者や施行業者も加えており、設計者、技術者、施行者の三位一体の建築界が生まれている。また建築は民間の事務所で勝負すべきであるという信念で東京と大阪に建築事務所を構えて200棟を超える膨大な辰野式建築で、美術と建築の一体となった世界をを生んでいった。1919年に国会議事堂の設計競技で審査員を務めるが、その年に大流行したスペインかぜに罹患し死去している。出身の佐賀県には旧唐津銀行本店 「辰野金吾記念館」がある。

辰野は努力と戦いと挫折の連続の中で、階段を一つづつ登っていった人生だった。最初は平凡だが、じわじわと追い越していく。気がつくと、いつの間にかトップになっているというタイプだった。「俺は頭がよくない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」と語っている。この自覚とそれを克服する努力が辰夫金吾という人格を形づくった。最近言われなくなった「克己心」という言葉を久しぶりに思い出した。近年、改装なった東京駅を見るたびに、辰野金吾に想いを馳せよう。

 

 

 

 

 



 



 

 

 

 

「ゴッホ展ー響き合う魂」ーークレラー=ミュラー美術館という永遠のコレクションをつくった女性コレクターの生涯。

東京都美術館の「ゴッホ展ー響き合う魂 ヘレーネとフィンセント」。

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ゴッホの作品を若い頃から順番にみれるという幸運に恵まれた。やはり晩年の絵がいい。

フィンセント・ファン・ゴッホは戦前は絵は一枚も売れなかった。そのゴッホが、偉大な芸術家と言われるようになったのは、4歳年下の画商の弟・テオの存在が大きいが、もう一人いた。ゴッホの死後、無名の頃からゴッホの絵に魅せられてた女性の蒐集家がいた。イレーヌ・クレラー=ミュラー(1869-1939)である。この女性は遂にはクレラー=ミュラー美術館をつくるまでになり、そのおかげでゴッホという存在が永遠になったのだ。この美術館は、若い頃から晩年にいたるまでのゴッホの作品をそろえている。その規模は世界一である。

ヘレーネは母親業に専念することでは満足できなかった。美術教師のブレイマーから学ぶ中でゴッホを発見し、蒐集を始める。

42歳ので危険な手術に際し、成功し生き延びたなら美術館の建設に生涯を捧げようと決意する。成功した実業家の夫の財産をつぎ込んでいく。

自分のためではなく、将来世代のために蒐集するようになる。写実から抽象へといたる絵画の歴史と美術がもたらす精神的な慰めを体験してもらうという目標を持った。その後、凄まじい速度で作品が集まっていく。年間数百点集め、とくにゴッホの作品の市場価値を高めることになった。

夫の会社が危機に見舞われたとき、夫妻は財団を設立する。ゴッホの油絵から素描に至るまで揃っていく。1929年の世界恐慌で会社が立ち行かなくなったとき、ヘレーネはオランダ国家に作品を寄付する。1938年、クレーラー=ミュラー美術館が開館し、ヘレーネは初代館長に就任する。美術館付きの家、ミュージアム・ハウスをハーグ近郊に建てることを考えていたが、その夢は結果的に国立の美術館として結実する。

その翌年、1939年にヘレーネは70歳で永眠する。その2年後、夫のアントンも79歳で死去しヘレーネの隣に埋葬される。

商人の妻から、自立した女性に、そして男性優位の美術界を揺るがす先見の明をもつ名コレクターとして歴史に名を残したのである。

 

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「名言との対話」10月12日。三浦雄一郎「 老いは怖くない。目標を失うのが怖いのだ。 あなたのエベレストを探しましょう」

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、日本のスキーヤー、登山家、獣医師。本日で89歳。

旧制青森中学校在学時に岩木山で開かれたスキー大会で優勝し初タイトルを獲得する。青森県弘前高等学校在学時に、全日本スキー選手権大会の滑降競技で入賞、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人優勝する。

北海道大学獣医学部を卒業。母校の北大獣医学部に助手になる。1960年代始め頃からスキー学校を開設しし、1962年、アメリカ合衆国でスタートしたばかりの世界プロスキー選手権に参加。1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172.084キロの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ、その記録映画 「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST]」はアカデミー賞を受賞した。

1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。しかし目標を失う。65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を果たすという目標を立てる。

2003年次男(豪太)とともにエベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヶ月)樹立。2008年、75歳2度目、2013年80歳にて3度目のエベレスト登頂世界最高年齢登頂記録更新を果たす。

アドベンチャースキーヤーとしてだけでなく、行動する知性派また教育者として国際的に活躍中。 記録映画、写真集、著書多数。またテレビでのCM出演も多い。アメリカン・エキスプレス。北の誉(北海道ローカルCM)。大和実業 エスカイヤクラブ。サントリー ローヤル(1990年)。2008年からのサントリー セサミンは今でも流れていてよく見かける。

現在、クラーク記念国際高等学校校長、NPOグローバル・スポーツ・アライアンス理事長、全国森林レクリエーション協会会長などを務めるなど精力的だ。

・老いは怖くない。目標を失うのが、怖い!何のために長生きしたいのか。健康の先に
何を見たいのか。その目標がはっきりしないとただの怠け者になってしまう。

・エベレストに登るという夢を持った途端人生が変わった。そして、夢を持てば
実現できることを改めて知った。

・老いぼれるのは結局、自分で諦めているんですよ。年を取ると、できない理由ばかりを一生懸命考え始めるんです。

・僕は限界に挑戦することで「人類のフロントランナーでありたい」と思い続けてきました。

本田宗一郎さん、佐治敬三さん、盛田昭夫さん、私が会った一流の企業家は、やっぱりみなさん前向きで、上機嫌な人たちだった。

53歳で世界七大陸最高峰のスキー滑降という目標を達成した後、三浦は喪失感を味い、生活が乱れた。そして65歳で「70歳でエベレスト登頂」という大いなる目標を持つに至った。それは父親の影響だった。

父のリハビリの様子を見ていて「人間いくつになっても夢をあきらめなければ成し遂げられるんだ」と実感し、「自分も人生このまま終わってなるものか」と再び情熱が沸き起こる。父親は、白寿でモンブランでのスキー滑走をやってのけた人だ。98歳から99歳の2年間で本も3冊書いている。その姿を間近に見ていたら、自分もまだまだと思わずにはいられなくなる。エベレスト登頂を前にして体力が、30代後半の水準まで戻ったのは、父親に負けてはいられないという思いが、それだけ強かったからだ。101歳で亡くなった三父・三浦敬三は死の直前まで現役のスキーインストラクターとして活躍している。

三浦雄一郎「65歳から始める健康法」(致知出版社)を読んだ。70歳、75歳、そして80歳でエベレスト登頂を達成した。85歳での目標は、チョ・オユーというヒマラヤで6番目に高い8201mの高峰に登り、その山頂からスキーで滑ることだと述べている。三浦によれば肥満の原因の大本は大きな目標がないことだとそうだ。大きな目標を持つと有酸素運動と規則正しい生活という現状維持の守りの健康法から攻めの健康法に転ずる必要がでてくるという。そのためのトレーニングもすごい。両足首に1キロのアンクルウェイトをつけて10キロの重さのザックを背負って歩くトレーニング。一日二度、全力で壁を押す。階段を上り下りする。特に下りは歩く。舌出し運動を一日100回。噛む力。主食は少し残す。サプリメントセサミンか?)。30から50回ほど、よく噛む。「人生いつも今からだ」という生き方。新しいジャンルに挑戦すること。

「今の私にとっては、自己ベストの更新を目指すというのがそのまま人類の限界突破につながります」。自己ベストが世界、いや人類の記録になるところまできた。「ザ・ファースト・イズ・フォー・エバー」なのだ。

本日で89歳になった三浦雄一郎の「老いは怖くない。目標を失うのが怖いのだ。あなたのエベレストを探しましょう」というメッセージには励まされる。この先も三浦雄一郎の動きに注目しよう。