映画『聖の青春』(棋士)。「田原書房」の講座(miro)。「図解塾」「幸福塾」の準備(ZOOM)。「道」(禅)。

映画『聖(さとし)の青春』をBSでみました。

29歳夭折した将棋の天才棋士村山聖九段の物語。難病を抱えながら全霊をこめて打つ将棋の世界。羽生善治との聖なる戦い。羽生善治は1970年9月27日生まれの一つ上で、通算成績は村山の6勝8敗(不戦敗1)とほぼ互角だった。とてもいい映画でした。

https://eiga.com/movie/84239/  (映画.com)の紹介より。

村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段。享年29。

難病と闘いながら将棋に人生を賭け、29歳の若さで亡くなった棋士・村山聖(さとし)の生涯を描いた大崎善生による同名ノンフィクション小説を、松山ケンイチ主演により映画化。幼い頃から腎臓の難病・腎ネフローゼを患い、入退院を繰り返した村山聖は、入院中に何気なく父から勧められた将棋に心を奪われる。師匠との出会い、そしてプロ棋士として羽生善治ら同世代のライバル棋士たちと死闘を繰り広げ、まさに命を削りながら将棋を指した村山聖の壮絶な一生が描かれる。、、羽生善治 とは「東の羽生、西の村山」と並び称された村山を演じる松山は、役作りのため20キロ以上も重増。羽生役には東出昌大が扮した。

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田原真人さんガmiroに建築中の「田原書房」の講座。40人。うち、知り合いは5人ほど。イベント会場ににたどり着くまで23分かかった。これもプログラミングされていたらしい。

  • miro上に自分書房を建築中。自分書店の可能性。一人一人がキュレーター。ワールド感。遊び心。立体的。プロセスを楽しむ。文化の時代。投げ銭。自分書房ネットワーク。自分書房キット。アイコンファインダー。クレーン。飛行船。
  • 曼荼羅。お墓。銭湯。、、、、広島、市川、北海道、、、。
  • 自分をつくった本。自分がつくった本。自分がつくる本。図解ウェブとmiro。地下と地上と雲上。過去・現在・未来。混浴。レイランド。ブクログとの連動。、、、、

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「図解塾」第4期の準備。「幸福塾」の準備

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今日のヒント。朝比奈宗源。『人はみな仏である』(春秋社)

・人類がどうすれば幸せになるかという、基本的な人類の目標を見失ってしまいそうな現代を、いちばん憂えるのであります。

・世の中で長者といわれる人、お経の定義では富もあり心も豊かで智慧もある人のことですが、人間の長者、幸せな人というのはそういう人だと思います。

・幸せになるにはつくりごとをやめることじゃ。つくりごとを重ねると身も心も不健康になる。

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「戦後命日編」で、以下の様に朝比奈宗源を取り上げている。

「名言との対話」8月25日。朝比奈宗源「雑念や妄想はなくならない。なくならないものをなくそうとするからまたひとつ煩悩になる」

朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年明治24年1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗禅僧

京都妙心寺などで修行し、鎌倉浄智寺住持をへて、1942年円覚寺貫主となり。1945年には円覚寺派管長となる。1963年賀川豊彦尾崎行雄らと世界連邦日本仏教徒協議会を結成し会長となった。1979年、88歳で死去。

朝比奈宗源と向き合うことになり、 中国の偉大な禅者・臨済の言行録である有名な『臨済録』を現代語で読める機会が巡ってきた。

臨済は臨済宗。866年の没年だけがわかっている。黄檗希運の法を継ぎ、参禅修行者には厳しい(かーつ!)を与える臨済宗は中国禅宗のなかで最も栄えた。

朝比奈は『臨済録』で、まず、この語録は「教外別伝、不立文字を本領とする禅者の語録である」とし、「いかなる文字言句も、月をさす指であり、門を叩く瓦である」と、朝比奈はこの本に掲げた「現代語訳について」で述べている。

教外別伝とは、仏陀の教えは、言葉によって伝達された場合もあったが、仏教精髄は言葉によって表現しうるものではないので、心から心へと直接伝達されるとする考え方だ。不立文字とは、経論文字によらないで、師の心から弟子の心へと、直接に悟りの内容を伝えてゆく伝法の方法だ。いずれも禅宗独特の用語である。

その上で、臨済は弟子たちに何を語ったか。その語録が『臨済録』である。弟子たちは執拗に「仏法のぎりぎり肝要のところは何か」と問う。師は一喝する。その繰り返しの中で、師は本質を述べていく。

・信に徹しきれない者はいつまでたっても埒のあく日はあるまい。

・自己の一念一念が本来清浄であると悟れば、それがお前たちの法身仏そのものだ。

・どんな場合でも自己がはっきりしていれば、外境にいかなる変化が起こっても振り回されることはない。

・仏と魔とは、一心の悟りと迷いの両面である。

・たった今、ここで自己が本来仏であり、他に求むべき何ものも無いことを見てとれ。

・今、仏道を学ぼうとする人たちは、まずなによりも自らを信じなくてはならない。

・大器の人であれば、なによりも自己の尊さを信じて、他に惑わされないことが大切だ。随処に主となることができればその場その場がみな真実である。

・生と死とは一如であって対立するものではない。

・死骸のような文字や言句を担いで天下に走りまわり、みずからの邪見に妨げられて心の自由を失っている。

要するに、先人や文字に真実を求めることなく、仏そのものである自らを信じ迷いなく、随処に主となり、日常生活を送れ、ということを繰り返し言っているのである。

そして朝比奈宗源は、雑念や妄想、煩悩には実体はないのだから、見るもの聞くもの、みな仏性であることを悟って、生活をすれば仏になることができると語っている。外界の人や書物や言葉に惑わされず、毎日を清浄な心をもって生活せよ、そう理解しよう。

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今日は「明治誕生日編」で取り上げる。違う本を読むと、違った学びがある。それを積み重ねていくと、深い学びになっていく。仏陀臨済道元白隠、そして宗源。

「名言との対話」1月9日。朝比奈宗源「自分で自分を育てる。これが道心だ」

朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年明治24年1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗禅僧。 88歳で遷化。

静岡県静岡市清水区出身。4歳で母を亡くし、7歳で父を亡くす。8歳、お釈迦様の涅槃図を拝み、お釈迦様はほんとうに死んだのではないと聞き驚く。11歳で出家。32才で日大の宗教科専門部を卒業し、鎌倉の浄智寺の住職となった。42歳で円覚寺住職となる。1942年、51歳で臨済宗円覚寺派管長。

禅宗は仏法の全体なんだ、そんな宗(真言宗天台宗、浄土宗、真宗、)などといわれるもんじゃないと、道元禅師は主張しておられます。これが禅の立場に立つ者の本領であります。

・仏教で「神」とは何だと言うなら、「自然」と言ってもよい。宇宙そのものだ。

・解決すべき問題があって、はじめて聞いたり教えられたものが肥になって自己が成長する。

・人間は、辛いことも2年、楽しいことも2年、まず2年辛抱しなさい、必ず自体が変化する。

・喝ーーーなにもかもふっとばす。

この本では「道」についての理解が進んだ。

・道とは何ぞ、剣、茶、香等々を通じて自己の心の大本に達するを目標とするところに、道といわれる所以がある。いわんや仏道においてをやだ。

・志を立て、自分が自分を育てよ。人が育てるのでない。自分で自分を育てる。これが道心だ。

道、仏道、道心。自分の力で自分自身になっていく。それが仏の心だ。何でもいいから、道を歩こう。それは本当の自分への道である。

 

 

 

 

 

古田隆彦の「人口波動学」講座の第1回目ーー少産・多死化。人口容量。5回の人口波動。

14時ー16時。古田隆彦の「人口波動学」の最初の講義でした。2か月間で、10回の講座を受講します。

少子・高齢化という認識は間違っている。少産になり、多死の時代を迎えた。多死マイナス少産の差が人口減少の本当の主因。人口の上限を「人口容量」という考え方でとらえて、人類史、日本史に5回の波動があることを発見した。人口抑制装置の発動による人口減少による 生息水準の上昇で21世紀後半から日本の人口は増加に転じる可能性が高い。それは6回目の人口増加の時代だ。

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  • 少子・高齢化ではなく、少産・多死化。人口容量。ロジスティック曲線。環境容量。人口波動。
  • オシレーション。人口反復。人口はい動。人口波動(南亮三郎)
  • タテ軸は対数、ヨコ軸は逆対数のグラフで波動がわかる
  • 5つの波動:石器前期・石器後期・農業前期・農業後期・工業前期。6つ目は工業後期ではないか。波動は日本にはある。中国、イスラムなど世界もある。
  • 全10回の講座:しくみを読み解く。歴史を見直す。未来を予測する。
  • 平成享保から令和明天へ。文化・文政時代。人口減の中の産業や生活とは何か。
  • 空き家問題は時代のテーマ。人口容量の限界の家の数と人口減少のミスマッチ。

ブログ

・JINGEN 。JINGEN〈人減〉ブログ   

生活学マーケッティング。生活学マーケティング: 9月 2016

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20時から。深呼吸学部の講義。

戦後の家電(主婦・若者)と自動車(最先端素材)。AiBoは相棒。移動(利便)・誇示(優越)・楽しむ(個人)・交流(関係)。EVI=自動車産業+情報産業の総決算、結晶化。交流と関係満足。旅行。移動と交流。実行力と想像力。公園と空地。miro、、、、、

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朝はヨガ:今年最初のヨガを1時間。

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今日のヒント。宮嶋裕子「三浦家の居間でーー三浦綾子ーその生き方にふれて」(マナブックス)。

山田洋次「彼(寅さん)が幸せな気持ちになるのは、自分の近くにいるだれかが幸福になったときですから。しかもその出来事に少しでも自分が役立っていたらもっと幸せ、という」

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「名言との対話」1月8日。舟橋高次「シャチハタ」

舟橋高次(ふなはし たかじ 1902年1月8日〜1986年6月3日)は、日本の経営者。

愛知県出身。1925年舟橋商会を創業。万年スタンプ台を発売。1930年、鯱(シャチ)を描いた旗(ハタ)をつくる。1941年、シャチハタ工業。1964年、社長。1965年、Xスタンパー(スタンプ台不要)。1968年、シャチハタネーム。1977年、会長。1983年、ネームペン、1986年、1986年、ネーム9。同年死去。

その後も、新商品開発は続く。1995年、電子印鑑システム「パソコン決済」。2003年、おなまえスタンプ。2005年、オビニネームペン。2008年、キャップレス9、乾まきペン。2009年、データネームEX。2010年、ディズニーキャラクタースタンプシリーズ、ネーム9着せ替えパーツ、2021年、ケズリキャップ。2014年、エポンテ。2016年、osmo。

1968年にはアメリカ。1993年、マレーシア。2004年、中国。2007年、ヨーロッパと着実に海外展開もしている。2021年6月決算では、年商は連結で189億円、従業員は1127名だ。

この会社の「万年スタンプ台」、「Xスタンパー」、「シャチハタネーム」は私も、仕事やプライベートでよく使っていた。シャチハタネームはスタンプがなくても、そのままハンコを押せるので愛用していた。特に、カード型のハンコを手帳から取り出して押すと驚かれたものだ。
今では誰もが知っている「シャチハタ」というネーミングは、鯱(シャチ)を描いた旗(ハタ)というシンボルからだったことを初めて知った。鯱は舟橋高次の出身地の名古屋城天守の鯱からとったものなのだ。

日本では「花押」という書名の方式があった。明治6年10月1日に明治新政府太政官布告で「本人が自書して実印を押すべし。自書の出来ない者は代筆させても良いが本人の実印を押すべし。」と定めている。そこからハンコが市民権を得るようになった。10月1日は「印章記念日」だ。

現在では「ハンコ」は評判が悪い。非効率な仕事のやり方の代名詞として取り上げられているので、逆風にあるだろうが、この会社の研究力による商品開発力は本物のようだから、創業者の精神を引き継いで乗り越えていくだろう。

 

参考

・(株)シャチハタのホームページ 会社概要|シヤチハタ

・はんこの「なるほど歴史館」 - 【印鑑・はんこ・実印】 はんこ屋さん21オフィシャルサイト

 

初の単著『コミュニケーションのための図解の技術』の電子版を刊行。

ディスカバーe-book選書、2022年の最初の新刊です。

1990年に刊行した私の初の単著『コミュニケーションのための図解の技術』の電子版。当時は「図解」によってビジネスのコミュニケーションを活発にしようという提言をした本は無かったので、ビジネス街や霞が関の官庁街で売れて、話題になりました。結果的に私の人生を一変させることになった記念すべき本です。

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これまでの“文字”による情報の伝達では、そのスピード、正確さにおいて、膨大な量の情報が溢れる現代の情報社会に対応できない。そこで登場するのが、「図解」によるコミュニケーションだ。図解の長所は一目で全体像が掴めること。ダラダラと文章で書かれた“通らない”企画書も、「図解」にすれば論点がパット目に飛び込む“通る”企画書に大変身。絵心のないアナタでも、図解で企画書が書けるようになるためのノウハウを新聞、雑誌の実例を使って手取り足取り教えます。(「BOOK」データベースより)

「なんとくなく、同じ著者の本を読んでみたくなり、図書館で見つけた本を読みました。いまさらながら、「知的生産の技術」研究会の一員だったんですね。その会の本拠地?が、以前、勤務していた場所に近かったので、心なしか親近感が。面白いと思ったのは図解の勉強への応用の効果でした。なんと言葉と図表で説明されたことは、5日後でも60%も覚えているらしいんです。言葉だけ、図表だけでは、それぞれ、10%と20%でした。中小企業診断士の勉強に活用しようと。でも、振り返ってみると、意識してなかったのですが、学習した事を図にすることはよくやっていました。いいヒントをもらったな。しかし、時間はかかります」。(Tulipaさんの書評)

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仕事始めで、近藤秘書とZOOM打ち合わせ。新しいプロジェクトの構想が多いので、忙しくなりそうです。

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レクサスの販売店で懇談。注文は多いが、生産が間に合わない。コロナ禍で半導体などの部品調達に問題がある。注文があっても、半年、1年かかる。

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今日のヒント

森茉莉「再び幸福になれた時、ほんとうを知っていることは自分にとっても人にとっても幸福な事なのだ」

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「名言との対話」1月7日。森茉莉「再び幸福になれた時、ほんとうを知っていることは自分にとっても人にとっても幸福な事なのだ」

森 茉莉(もり まり、1903年明治36年)1月7日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の小説家、エッセイスト。

東京市千駄木町生まれ。森鷗外と2人目の妻・志げの間に生まれた長女である。16歳から26歳までの間の二度の結婚に破れる。父・鴎外の印税期間が切れて、51歳から物書きになった。1957年、54歳で父・鴎外をテーマとした『父の帽子』で第5回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。小説では『濃灰色の魚』などを経て、『甘い蜜の部屋』(泉鏡花文学賞)、『恋人たちの森』(田村俊子賞)などがある。『森茉莉全集』全8巻がある。

『幸福はただ私の部屋の中だけに』(ちくま文庫)を読んだ。父・鴎外、室生犀星三島由紀夫の3人は茉莉にとって特別な存在だった。可愛がってもらた鴎外は最初の恋人であったし、犀星は文筆の師匠であり、そして三島は「無理に死んだ理由は私には明瞭にわかる」と書くほど親しくしていた。

森茉莉は、少ないお金で大いに生活を楽しむことができた人だ。それを「贅沢貧乏」と呼んでいる。同名の著書もある。

幼いころから父・鴎外の膝に抱かれていたこともあり、明治の文豪・森鴎外をもっとも身近にみた人である。母・しげは『舞姫』を読み、主人公・太田豊太郎に恋をした。そして見合いの相手が鴎外であり、結婚することになった。茉莉は父の小説は全部理屈でできているから、好きではなかった。鴎外は最初の1行も、最後の1行もわかっていて書いていた。父自身もそう思っていたはずだ、だから翻訳は情緒あふれるものを選んでいたと観察している。眼が三角で下がっていて、髭が上へはね上がっている、と鴎外の顔を表現している。また鴎外の原稿用紙については、白く、滑らかな洋紙で、丸い枠の中に西洋の女の横顔が透いてみえると書いている。白く、滑らかな洋紙とは、鴎外が「文机の塵はらひ紙のべて物まだ書かぬ白きを愛でぬ」と詠んだ「紙」のことである。

茉莉はむしろ父のライバルであった夏目漱石の小説が好きだった。ユーモアに満ちていて、面白い。上品な甘みのあるおかしみがある。この本を読んでいて、森茉莉の文章は父・鴎外の厳格でスキのない文章ではなく、滑稽をうまく描いた漱石を意識している感じがした。漱石のユーモア感覚と同じ匂いがする。

同時代の作家たちの寸評も面白い。田辺聖子井上ひさしが好き。北杜夫マンボウより自身を描いたものの方が好き。山崎豊子の構成力。与謝野晶子の見識。富岡多恵子の死生観。親分と呼ぶ花森安治親分の贈り物のうまさ。萩原朔太郎の長女・萩原洋子は親友。、、、

「カッコイイ」という言葉や、西郷輝彦舟木一夫の名前も出てくる。1987年の没しているから、森茉莉は最近の人だったのだ。

このエッセイ集には「幸福」という言葉がやたら多く出てくる。タイトルからして「幸福」のありかを示している。

「幸福」は茉莉本人の部屋の中だけにあった。ダブルベッドの上に必要なものは全部そろっている。かたわらに好きなものを置いて、好きなものに囲まれてる大きな幸福を堪能している。他人を幸福にしようとしている人が本物なら、自分自身が楽しいのだろう、という醒めた幸福観もある。

茉莉は恋愛小説を書くが、本人は一度も恋愛をしたことはないのだそうだ。結婚生活も単なる日常だに過ぎないと考えていて、そこには幸福はなかったのだろう。「何か書くようになったことは、私をずいぶん幸福にしたようだ」とも書いている。50代をむかえて、生活のためにやむなく文章を書いたことが森茉莉を幸福にしたのである。

「裸の人間」というミニエッセイでは「再び幸福になれた時、ほんとうを知っていることは自分にとってもひとにとっても幸福な事なのだ」と書いている。そして不幸が来たら驚かずに落ちついて、その手から素晴らしい宝石をもらうべきだ、という。その宝石とは「ほんとうの幸福」のことを指している。何も知らない幸福は幸福ではない。不幸を知った後の幸福こそ、本当の幸福なのだ。だから不幸はありがたいのだそうだ。

身の回りの小さな幸福を積みあげれば「大きな幸福」になるし、不幸は裸の真実を教えてくれるから、実は「本当の幸福」も連れてくるのである。森茉莉のそういう考え方によれば、幸福も不幸も、自分のとらえかたしだいだということになる。「不幸の力」を意識しようという幸福論は独特だが、その通りかもしれない。

 

「人間を考える」シリーズーー斎藤幸平。藤原辰史。角幡唯介。奥野克己。

NHKカルチャーラジオ「人間を考える」シリーズを4本連続して聴きました。37歳、46歳2人、60歳という若い世代の興味深い講演でした。

  • 斎藤幸平(大阪市大。1987年生)『人新世の資本論』。コロナ。資本主義の限界。気候変動、気候崩壊、気候危機。人類の責任。2100年に2度以内上昇。人新世。新しい地層。格差と環境。グレートリセット。GX。ESG。SDGs。アヘン。CO2、2020年▲6%。石油からレアメタルへ。収奪の構造。便利な生活の代償。帝国的生活様式。グローバル・サウス。システムの変更。ケアの低評価。エッセンシャルワーカー。テレワーカーはブルシットジョブ。防災器具。食糧。高税率と分配による消費。豊かさの再定義。再生産力重視。CO2はきっかけ。今の幸せとは何か。代替のない地球。さもないと絶滅。
  • 角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家。1976年生)。地図を持たない登山。
  • 奥野克己(立教大。文化人類学者。1962年)。マレーシアのプナンの研究から。
  • 藤原辰史(京大人文研。1976年生)。『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社

話題の『人新世の資本論』は読んでいるが、『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考』はまだだ。読んでみよう。

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今日のヒント。サントリーウェルネス「美感游創」。伊藤裕(慶應義塾大学医学部教授)。「幸福寿命」。

  • 人生の本当の目的は、幸せになることではないでしょうか。「生涯、幸せを感じて生きていけることが大事」というメッセージを込めて、僕は幸福寿命を提唱しています。
  • 一人では幸せになれない。人間は、そういうふうに発達してきた生き物です。だから、幸せのためにはつながりが欠かせません」
  • 「幸せ」は、「過去」よりこれからの「未来」が きっと良くなっていくだろうと感じる 今にあります。(『幸福寿命 ホルモンと腸内細菌が導く100年人生』)

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「名言との対話」。1月6日。藤原与一「方言の山野海陸が私を招きます」

藤原 与一(ふじわら よいち、1909年1月6日 - 2007年10月23日[1])は、日本の言語学者、方言学者。享年98。

1937年 広島文理科大学文学科卒業。1937年 広島文理科大学助手。1945年 広島文理科大助教授。1950年 広島文理科大学文学博士。 テーマは「尊敬表現法についての研究」。1951年 中国文化賞。1953年 広島大学文学部助教授。1963年 広島大学文学部教授。1972年 広島大学を定年退官。1972年 広島方言研究所を開設。

広島文理科大学において東条操に出会ったことにより方言学に進む。国の方言調査を行った。広島大学教授定年退官後は広島方言研究所を設立し、多数の著書を出版した。国語教育に関する著作も多い。今治市大三島図書館には藤原与一の寄贈図書を中心とした「与一文庫」がある。また、藤原与一の方言研究の資料と蔵書は広島大学図書館へ寄贈された

著書は1943年から2004年まで、60冊ほど。共編著は1968年から2001年まで、12冊。膨大だ。『昭和日本語の方言』全8巻 三弥井書店 1973-2001という仕事もある。28年間。以下、並べてみたい。壮観だ。

『伊豫大三島北部方言集』中央公論社1943。『日本語:共榮圏標準口語法』目黒書店 。『日本語方言文法の研究』岩波書店。『私たちの国語』中学生全集 筑摩書房。『ことばの歴史』福村書店。『これからの国語』角川新書。『毎日の国語教育』福村書店。『日本人の造語法:地方語・民間語』明治書院。『方言学』三省堂。『方言研究法』東京堂出版。『国語教育の技術と精神』新光閣書店。『ことばの生活のために 表現と理解への手引き』 講談社現代新書。『日本語方言文法の世界』塙選書。『ゆたかな言語生活のために 方言から見た国語』 講談社現代新書。『世界コトバの旅』朝日新聞社。『理の国語教育と情の国語教育』新光閣書店。『方言の山野:ことばのさとをたずねて』文化評論出版。『昭和日本語の方言』全8巻 三弥井書店。『私の国語教育学』新光閣書店。『方言生活指導論:方言・共通語・標準語』三省堂。『瀬戸内海域方言の方言地理学的研究』東京大学出版会。『方言学の方法』大修館書店。『伊予大三島北部方言集』柳田国男国書刊行会全国方言資料集成。『幼児の言語表現能力の発達「わが子のことば」を見つめよう』文化評論出版。『方言敬語法の研究』昭和日本語方言の総合的研究 第1巻 春陽堂 。『日本語をあるく・方言風土記』冬樹社。『私たちと日本語』岩波ジュニア新書。『方言文末詞<文末助詞>の研究』春陽堂書店。『方言学原論』三省堂。『民間造語法の研究』武蔵野書院。『子どもの民俗:一時代まえの生活とことば』和泉書院。『言語研究:方法と方法論』三弥井書店。『瀬戸内海方言辞典:伊予大三島肥海方言を中心に』東京堂出版。『方言学の原理』三省堂。『文末詞の言語学三弥井書店。『中国四国近畿九州方言状態の方言地理学的研究』和泉書院。『日本語方言分派論:方言‘区画'(分派)とその系脈』武蔵野書院。『小さな語彙学』三弥井書店。『あいさつことばの世界』武蔵野書院。『方言の山野を行く:私の方言学』三弥井書店。『言語調査としての方言調査』三弥井書店。『言語類型論と文末詞』三弥井書店。『実用音声学』武蔵野書院。『方言学の精神』三省堂。『文法学』武蔵野書院。『愛心愛語抄 言語研究の一小径に立って』三弥井書店。『日本語方言辞書:昭和・平成の生活語』東京堂出版。『「現代語」学』武蔵野書院。『言語哲学への思い』三弥井書店。『日本語方言音の実相』武蔵野書院。『方言学建設』ゆまに書房。『藤原与一方言学論集』ゆまに書房。『日本語方言文法』武蔵野書院。『日本語方言での特異表現法』武蔵野書院。『日本語史と方言』武蔵野書院。『現在学トシテノ方言学』武蔵野書院。『ことばは、愛。:心美しいことばの生活を』東京堂出版。『一方言学徒の歩み』武蔵野書院。『言語生活の学:方言学の発展』武蔵野書院。『日本語における文末詞の存立』三弥井書店

共編著:『文語の文法:古典の新学習』橋本威共著 中央図書 1968。『方言研究叢書』第1-2巻 編修 三弥井書店。広島方言研究所紀要。『瀬戸内海言語図巻』広島方言研究所共著 東京大学出版会。『方言生活語彙』(編修) 三弥井書店。『小学校児童作文能力の発達』編著 文化評論出版。『方言:文表現法』(編修) 三弥井書店。『方言敬語法』(編修) 三弥井書店。『方言地理学』(編修) 三弥井書店。『表現類語辞典』磯貝英夫,室山敏昭共編 東京堂出版。『日本語文末詞の歴史的研究』佐々木峻共編 三弥井書店。『瀬戸内海圏環境言語学』室山敏昭共編 武蔵野書院。『国語教育の創造』岡利道共著 三弥井書店

いくつかの著書に内容をアマゾンで調べた。

・『方言の山野を行く―私の方言学』。「方言の山野海陸が私を招きます。私をがっしりとらえます。そこに息づくことばが、しみこんできます。日本語の生態が見えてきます…。歩く中で自然にかもされてくる方言の学問を大切にしてきた著者が、方言の旅・生態学などを語る」。

・『一方言学徒の歩み』武蔵野書院。「方言研究家の第一人者・藤原与一先生が語る、愛媛県大三島より日本全国方言調査行脚の旅。目からうろこの話満載。四国→中国→近畿→中部→関東→奥羽→九州と、それぞれの地方の臨場感ある言語生活が居ながらにして体験できる」。

藤原の研究の価値を認めた三弥井書店は、国文学、民俗学関連の専門書の刊行する出版社で、藤原与一『昭和日本語の方言』全8巻を刊行した。また創業100年を超えている語学系のは武蔵野書院も多くの本を刊行している。

経歴と著書を並べてみたが、学者として一筋の道をまっしぐらに歩き通した尊い生涯であると感じ入った。この継続力とエネルギーには頭が下がる。藤原与一は95歳まで著書を刊行しているのが実に事だ。 

方言は820年頃の『東大寺諷誦文稿』に初めてでてくるから風土と歴史の賜物である。さて、藤原与一の師は、日本の方言研究の土台を築いた25歳年長の東条操(1884年生。東洋大学教授。円地文子の父)、そのまた師は17歳年上の上田萬年(1867年生。東京帝大文科大学学長)である。これは明治政府の標準語政策により失われつつあった「方言」の保存に尽力した学者の系譜である。

標準語の必要性の一つは近代国家の国民意識を涵養することに威力をした。軍隊においては命令が逆の意味にとられることもあり、統一は死活問題だった。「すごい」という意味の言葉も47都道府県で違った方言がある。「べらぼう」は東京、「すっげえ」は神奈川、「めっちゃ」は大阪、「ごっつう」は奈良。「がば」は佐賀だ。テレビなどで最近はやっている言葉には方言由来のものが多いという印象を持っている。

私は仙台で職を得たとき、ズーズー弁を予想したのだが、全くといってよいほど聞かなかった。また大分県中津市の同級生たちとの東京での同窓会でその場にいない友人の発言「うたちい」という方言を話題にしたら大いに盛り上がったことを思い出す。方言は仲間意識を喚起するようだ。

「方言の山野海陸が私を招きます」とは、方言研究の第一人者・藤原与一の研究者人生をあらわす名言だと思う。「山野海陸」という言葉を初めて知った。山野とは、山岳と草原と原野であり、そこに住む住民を指し、海陸とは、海と陸だが、海岸沿いと川沿いという意味にとろう。つまり日本中のあらゆる場所を訪ね歩いた、あるいは歩こうとした決意が心にしみる気宇壮大な言葉である。

方言の記録を残そうとする3代にわたり継続された使命感に導かれたライフワークに挑んだ貴重な生涯だと感銘を受けた。ここでの「ライフ」は上田萬年、東条操、藤原与一の生涯を意味している。彼らの志は著作と教育によって後代にも引き継がれているのだろう。

 

 

YAMI大学深呼吸学部参加型社会学科の初回の講義と意見交換会に参加。

YAMI大学深呼吸学部参加型社会学科の初回の講義と意見交換会

30人集まった。10人ほどは私も知り合い。男性13人、女性17人と優勢。世代は適当にばらけている。

主宰する学科長の田原真人さんから、2ヶ月にわたって「参加型社会」に向けて、その概念を提唱する橘川幸夫さんの10数冊の著書を読み解きながら、時代の変化を俯瞰していくという趣旨が述べられた。初回は1981年刊行の『企画力』解説から始まった。

ブレークアウトセッションで、5人のグループに入る。20分の意見交換では、「代理店」「実感」「コピー」「システム」「多様性」が話題になった。

全体のセッションでブレークアウトの各グループの議論の様子を聞く。私のグループは一番若い瀧本君が説明したが、田原さんからの指名で私も発言した。

私は、図解塾と重なっているので、この会しか出れないが、様子がわかった。

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70年代について、音楽の「ロッキンオン」投稿雑誌「ポンプ」を創刊した橘川さんは、最初の著書「企画力」で以下の様に語っている。

「原理」は3つ。運動論としてとらえよう。全体像をつかもう。プロセスを大事にしよう。社会はマスメディアが力を持つようになった。人々はメディアを通じて情報を知り、メディアに情報を流す。ここでは玄人と素人が明確に分かれていた。これは「代理人」システムだ。大学、広告、政治なども代理店だ。そう橘川さんは説明している。

私は橘川さんと同年生まれだが、70年代は違う様相を意識してきた。彼は東京で生まれ育ち音楽とメディアを通じて社会に対峙している。私は地方で高校から大学時代を過ごし、受験戦争とクラブ活動に青春を燃焼、大企業(JAL)に職を得て世の中の実態に苦しみながら自分を探した。30歳になるまでわずか2年半を東京で過ごしたが、後は札幌と海外であり、橘川さんの世界と交わることはなかった。

東京に戻った30歳になって「知的生産の技術」研究会という勉強会に入った。そこで誰かが「企画書」を書いた橘川さんを講師に招いて出会う。大企業の底辺で動いていた私は彼の講演の内容はまったく理解できなかった。しかし、労務担当を経て10年ほど経って広報の仕事をし、メディアと縁ができるようになって、「代理店の時代」というエッセイを社内報に書いている。労働組合は社員の代理店、マスコミは世論の代理店、旅行代理店は消費者の代理店、広告代理店は企業の代理店、というシステムになっており、その代理店が大きな力を持つような社会になってきた。その危機感のなかで、直接それぞれの本体と触れ合いながら、社員の参加で会社を改革することを模索していた。それは会社がバブル崩壊でおかしくなったとき、その改革の任にあたったときに社員の参加、参画で危機を乗り切ろうとしたことに生かすことができた。それは今となっては橘川さんの理論と主張と同じだった気がする。

私自体は、80年代は知研という装置で一流の講師陣の話のシャワーを浴びたが、よく考えると彼らも欧米の知識人の代理店、アカデミズムという知識の代理店である人も多かった。こういうことをこれからずっとやっていても展望は開けないと思った私は、企業の現場の泥臭さの中で、飛び出すことのできない自らの世界を深掘りしていく。社会への参加、参画を強く意識して学んだ。その結果、90年に初の単著『図解の技術』を上梓することになった。

公人としても、個人としても、「参加・参画」を意識して30代を乗り切ったともいえるかもしれない。

2010年時代に入って、福岡空港のラーメン屋で偶然の再会を果たし、私の人生も大きく展開していき、今日のこの場面に立ち会っているのだ。今となってはその再会は必然だったような気もする。

今日は、哲学者の三木清について、毎日書き続けている「名言との対話」で取り上げた。その三木清の「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している」というメッセージをかみしめている。

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力丸君との定例ズームミーティング。知研。会社。miro。人物記念館応援隊。、、

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今日のヒント。三木清。「人生論ノート」。

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。

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「名言との対話」。1月5日。三木清「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している」

三木 清(みき きよし、1897年〈明治30年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉9月26日)は哲学者。法政大学教授。

兵庫県生れ。京大哲学科で西田幾多郎らに学ぶ。1922年から1925年に、ドイツ,、ランスに留学、ハイデッガーらに学ぶ。

1926年三高講師、1927年法政大学教授となり「人間学マルクス的形態」をはじめマルクス主義の諸論文を発表する。1930年共産党シンパ事件で検挙、拘留され転向し、マルクス主義の運動から離れる。1937年論文「日本の現実」を機縁に昭和研究会に参画、東亜協同体論を展開した。

1945年3月共産主義者庇護のかどで治安維持法違反で検挙される、9月26日獄死する。

著作に「パスカルに於ける人間の研究」「唯物史観と現代の意識」「人生論ノート」などがある。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫)を読んだ。終戦直後のベストセラーになった本だ。

断片が羅列されたエッセイのようで軽く読めるが、人生についての三木の結論のようにも読める。以下、私が共感するところをあげてみる。

・機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。

・習慣を自由になしえる者は人生において多くのことを為し得る。

・どのような天才も習慣によるのでなければ何事も成就し得ない。

・切に義人を思う。義人とは何か、ーーーー怒ることを知れる者である。

・人は軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。

・怒りを避ける最上の手段は機智である。

・もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。

・彼ら(古代人や中世的人間)のモラルの中心は幸福にであったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。

・成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。

この本は何度か手にしているが、その都度深く共感するの極め付きは、以下の文章である。「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している」。「希望」という章の冒頭のこの言葉は、断然光っている。

私の師である野田一夫先生がいつか語ってくれた「必然的偶然」は、三木の言葉をさらに凝縮した言葉だと思う。

偶然によって三木は共産主義者をかくまったということで逮捕される。権力側は微罪であり、はやく解放すべきだという意見もあったが、間に合わずあっけなく三木は死んでしまう。批判する側はこの獄死に深い意味を付与する。偶然が必然になり、それが運命となって人生を総括する。三木清の場合そのものだ。三木清は天上で苦笑いをしているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

『紫式部日記』ーー無聊を慰めるための執筆、華麗な貴族の世界の観察、そして再び憂鬱な老後。

NHK「古典講読」の「王朝日記の世界Ⅱ」(聞き逃し配信)の『紫式部日記』14。電通大の名誉教授の島内景二の解説がいい。

藤原道長の娘・彰子が男子を生む。そこに女房として出仕し観察している紫式部の日記である。一条天皇左大臣道長中宮・彰子、高級貴族、上臈たち女房たちの様子、そしてそれをみている紫式部の生活と感想が描かれていて、興味深い。10数回散歩しながら聴いていたが、今日で昨年最後の回を聴いた。

源氏物語』の清書を中宮と直接毎日のように相談し、何人かの筆上手に依頼し、冊子にする草紙づくり様子がわかる。

清書原稿は戻って来ないうえに、原稿の推敲の前の下書き文章を道長が勝手に持ち出して困ったことなども率直に書いている。道長とは親しいようで、時折言葉をかけられていて、絶頂期にあった藤原道長の人となりもわかる。

紫式部は多くの中宮の出産の行事が終わり、実家に下がる。亡くなった夫がいない屋敷は狭く庭も見どころがなくわびしい。一人になった式部は源氏物語を書き始めたころの思い出や人間関係が頭に浮かんでくる。

夫亡きあと、長く孤独に暮らすことになった。花や鳥をみて、季節の移り変わりを知る。行く末の心細さが身に染みる。そういった気持から逃れようと、物語を書き始める。当初は親しい人たちに読んでもらって感想を聞いたりして、孤独を何とか耐えていた。それで生きてこられたのだ。

ところが『源氏物語』の評判があがり、宮仕えすることになり、生活は一変してしまった。質素な世界と豪奢な世界、どちらが自分の世界なのだろうか。豪奢な世界は、『源氏物語』の世界と重なっていた。物語を発芽、成長させたのはこの屋敷だった。来年1009年に9回忌を迎える夫亡きあとはずっと所在なくぼんやりしていた。物語を書こうと決意する。同じ教養を身につけている人たちに読んでもらった。友人たちと意見交換した。差し当っては、生きていることが恥ずかしいということは感じなかった。

そして出仕した生活では極楽のような空気を吸っていたが、辛いことも感じることになった。紫式部と同じ心を持つ友たち、通じあえる人とも縁遠くなってしまった。

今は孤独だ。試みに精魂込めて書いた『源氏物語』をめくってみてもあまり感興もわかない。信頼する友人たちも自分を軽蔑しているだろう。奥ゆかしい人は、権力や財力と交わる宮仕えの人との交際をいやがる。手紙などがいつ誰に読まれるかわからないからだ。今の自分の心境は理解できないだろう。自然に付き合いもなくなっていく。訪問者もいない。生きている満足感もない。ここも自分の居場所ではない、、、、。

しかし、島内景二は友人たちとの付き合が減ったのは「自分をモデルにしているのではないかと思ったのではないか」と解釈している。いつの時代も文筆家は孤独なのだ。

紫式部天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、寛仁3年(1019年)までは存命したとされている。夫は藤原宣孝。999年に一女を生んだ。長保3年(1001年)に結婚後3年程で夫が死去。その後『源氏物語』を書き始め、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて(1000年から1007年の間)、道長の娘で、一条天皇中宮彰子に仕えている間に『源氏物語』を完成させた。1012年まで出仕していた。

私がラジオで聞いた紫式部日記の時代は、23歳から34歳、あるいは31歳から42歳あたりになる。夫亡きあとの無聊を慰めるために、自宅で書き始め、道長の土御門邸で完成させた『源氏物語』を書いたのは、この時代ということになる。

夫亡き後の寂しい時代、それから脱出するために物語を必死で書いた時代、それが評判になり華麗な世界をみた時代、そしてすべてが終わったら、また次の憂鬱な時代が待っていたのである。

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今日のヒント。

中国では、「冨、貴、寿、寧、康」の5条件を具備した者が最大の幸福者である。

裕福。尊敬される。長寿、心安らか、健康。

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「名言との対話」1月4日。夢野久作「これを書くために生きてきた」

夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年明治22年)1月4日 - 1936年昭和11年)3月11日)は、日本幻想文学作家。享年47。

福岡市出身。父は玄洋社系の国家主義者の大物である杉山茂丸。その長男。修猷館卒業後、志願兵。除隊後、慶應義塾大学文学部に入学するが中退。禅僧、農園主、能の教授、新聞記者と種々の経歴を持つ。1926年、『あやかしの鼓』を雑誌で発表し、作家生活に入る。『缶詰の地獄』『いなか、の、じけん』等、因縁と心理遺伝を題材とした作品を表した。

作品を読んだ父親が「夢の久作が書いたごたる小説じゃねー」と評し、それを使って夢野久作というペンネームにしている。「夢の久作」とは九州福岡の方言で、「夢ばかり見る変人、夢想家」の意味である。

一人の人物が話し言葉で事件の顛末を語る独白形式と、書簡をそのまま地の文として羅列し作品とする書簡形式という独特の文体を用いた。

「アッという間、夢、幻、このように一生を懐古するする人は多い。その間に経験することは、年齢も、出会いも、すべてが初めてのことだから、うまくたちまわることはなかなかできない。生まれて死ぬ間は、会って別れての連続である」という夢野久作の感慨には共感を覚える。いつだれとどのような場所で出会うか。人の運命は出会いによって変わることは確かだ。

夢野久作ドグラ・マグラ』(上。角川文庫)を読んだ。 小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』と並ぶ日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる、構想10年の畢生の奇書『ドグラ・マグラ』は、比類のない評価を得た。

「精神医学の未開の領域に挑んで、久作一流のドグマをほしいままに駆使しながら、遺伝と夢中遊行病、唯物化学と精神科学の対峙、ライバル学者の闘争、千年前の伝承など、あまりにもりだくさんの趣向で、かえって読者を五里霧中に導いてしまう。それがこの大作の奇妙な魅力であって、千人が読めば千人ほどの感興が湧くにちがいない。探偵小説の枠を無視した空前絶後の奇想小説」というのがアマゾンの紹介だ。

ドグラ・マグラとは、「幻魔作用」となっている。舞台は福岡の九州帝国大学の医学部精神病科である。、、、、脳髄が物を考える。狂人。自我亡失症。脳。胎児のみる夢。神の否定。夢。時間。仮死。、、、。狂人の書いた推理小説という設定で、夢野の思想と知識の集大成である。一度読んだくらいではよくわからない難解な内容だった。そういった本を奇書というのだろうか。

夢野久作は「これを書くために生きてきた」と語っているように、10余年かけて書いた畢竟の力作である。30代半ばから40代後半にかけて構想、執筆し、1935年に自費出版で刊行された1500枚の長編である。完成した翌年に47歳で死去しているから、まさにライフワークとなった。それを果たした人である。

 

 

 

 

 

誕生日。ブックオフで新プロジェクト「幸福塾」の資料を買い込む。

1月3日は誕生日。孫のブックオフトイザらスに付き合ったので、ブックオフで「幸福」「幸せ」という言葉がタイトルについている本を手当たりしだいに集めて購入しました。古本であり、2割引きでもあったことから、10数冊で3600円という安さでした。

今年開講する「幸福塾」の資料です。小説、育児、調査、エッセイ、お金など、様々の視点から「幸福」を論じているので、大家の「幸福論」とは違った意味で、気楽に読んでみます。

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今日のヒント。日経一面「成長の未来図2」。1月3日。

・パーソル総合研究所と慶応大の前野隆司研究室。「幸せの実感が低い人が多い企業は減収が多かった」。

三菱UFJ銀行など有力企業が相次ぎ社内の幸福度を調べる仕組みを取り入れ始めた。

本の広告「復元力と幸福経営を生むリスクマネジメント」(上田和勇編著。同文館出版)(一面下)

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世界最高齢認定。福岡在住の田中カ子(カネ)。1903年1月2日生。119歳。明治、大正、昭和、平成、令和の5代。身振り、手振りでコミュニケーション。大好物は炭酸飲料やチョコレート。(日経1月3日)。来年は人間の物理的な限界といわれる120歳になる。注目!

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「名言との対話」1月3日。三岸節子「画家は長く生きて成熟した作品を描くことこそが本領」

三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家。

愛知県尾西市生まれ。19歳、女子美術学校を首席で卒業。同年画家の三岸好太郎と結婚。29歳、夫が急31歳の若さで急逝。30歳、D氏賞。40歳、戦後銀座の日動画廊で個展。43歳、菅野圭介と別居結婚。48歳、離婚。49歳、渡仏し長男・黄太郎と会う。50歳、帰国。62歳、好太郎の遺作を寄贈し北海道立美術館が創設される。63歳、黄太郎一家と渡仏し、定住。69歳、ブルゴーニュに農家を購入。70歳、渡仏。78歳、北海道立三岸好太郎美術館が開館。81歳、勲三等宝冠章。85歳、朝日賞。87歳、三岸好太郎三岸節子典。89歳、女流洋画家初の文化功労者。93歳、尾西市三岸節子美術館が開館。94歳、逝去。

夫の三岸好太郎の北海道札幌の立派な美術館には2009年に訪問したことがある。31歳で夭折した画家だ。どうしてこのような立派な美術館があるのか、不思議に思った。この美術館は節子の62才の時に開館している。また節子自身の美術館は93才という亡くなる直前に開館している。夫婦そろって美術館があるおは珍しい。妻の節子は94才まで画業を続けているというように対照的な人生だった。

2010年4月には日本橋高島屋で行われた「没後10年記念 三岸節子展 心の旅路−−満開の桜とともに」をみた。最近発見された日記と代表作をからませながら展示するという好企画だった。「絵を描くことは、長く遠く果てしない孤独との戦いである」という言葉が印象に残った。

今回の企画展では最近発見された日記の文章を絵に添えるという試みが成功している。この画家は、画風をどんどん変えながら、長い生涯にわたって絵を描き続けたが、言葉にも心打たれるものがある。その言葉も年齢とともに記してあったので実感がわく。

  • 世に謂う安穏な暮らしというのが、私にとって一番の敵なのである。身を棄ててかかっているのである。
  • 骨を噛む悔恨と孤独。ギリギリの地点まで自己をつっ放して安心立命したいと希う。それをしなければ私は救われないのである。57才
  • 家族近親の面倒を見てそれが満足だというのか、なんと味気ないことだろう。60才
  • 私の運命は好んで困難な道を歩む。、、なんというむずかしい世界か、しあkしやり遂げねば。カーニュに死すともよし。64才
  • 絵を描くことは、長く遠く果てしない孤独との戦いである。64才
  • もっともっと深く掘り下げて、根元の自己をつかみだしてもっと根の深い作品を描きたい。広野の一本の大木のように何百年も生き続け生命力が得たい。68才
  • 新鮮な、シャープな、繊細な、ピリピリした花を描きたい、、、、痺れるような美しい花の絵を描いたい。72才
  • まだまだ生きている間は、一枚の作品に年齢相応の深い味わいを出してゆきたい。72才
  • 私には才能がない。ただ努力と根と運があるだけで今日まで歩いてきた。、、才能である。才能の不足である。73才
  • 私は人物が描きたい。最後の仕事は人物とゆきたい。92才

2022年の現在、私にはこの画家が、最後に人物画にいき着いたことに共感を覚える。