6月の寺島実郎の「世界を知る力」ー悪魔のシナリオ。日本へのインパクト。黒海の地政学。近代史におけるロシアと日本のンシンクロ。日本の戦略。。

寺島実郎の「世界を知る力」

悪魔のシナリオ。膠着、長期化の状況下で喜んでいる人々がいる。

  • ロシアの消耗:ウクライナの重自治。アフガンに進攻したソ連の撤退と同じになるか。ロシアの弱体化すでに実質的な出フィルとが始まっている。産業の木の不善。物価上昇などロシア国民の苦闘。世界銀行の予測:2022年は▲8.9%成長。核付きの大きな北朝鮮。GDP11位だが、3-5年後には20位以下と弱体化。
  • 軍事支出の増大と武器商人の活躍:武器輸出が増えている。ウクライナアメリカ53億ドル+NATO=1000億ドル以上(1.3兆円)。予算の2-3倍。兵器の見本市。
  • 化石燃料世界一のアメリカははエネルギー価格の低迷と脱石油の流れで困っていたが、1バレルあたり40ドルの上昇で、100ドルを超えた。それだけで年間1.5-1.6兆ドル(200兆円)で潤っている。

日本へのインパクトは? ウクライナ穀物輸出ができないと、国連は16億人が食糧危機にさらされると予測。

  • 危機時のレジリエンス(耐久力):「食とエネルギーと水」のファンダメンタルズ。
  • 食糧自給率37%:7.4兆円の輸入。ロシアは0.8%。今年小麦価格は41%の上昇。
  • エネルギー(石油・LNG)の輸入は16.9兆円。ロシアは0.9兆円で5.6%。アメリカが7.9%。今年原油先物は57%上昇。
  • 日本の輸入は食とエネルギーで24.3兆円、これが30兆円超になる。
  • 日本の輸出の主力は自動車・電機製品エレクトロニクス・鉄鋼で33.4兆円、これが価格の上昇で10%増える。
  • インフレ懸念:欧米はこぞって金利上昇中。日本は低金利のままさらに「恐怖の円安」が効いてくる。1ドル135円という24年ぶりの円安。2012年は79.8円で7割の下落。
  • IMF予測:日本の購買力平価レートは1ドル91.5円。現在は135円ゾーン、145円ゾーンに近づくだろう、8割の下落。
  • 日本は迷走:日銀は独立した物価の番人のはずだが、アベノミクスに追従・異次元の金融緩和、補助金助成金・給付金は赤字国債で日銀が引き受け、1241兆円の借金。硬直。金利を上げることができない。せっちんずめの状況で金縛りにあい、脱する手段を見出せない。
  • 消費者物価(CPI)は現在2.1%上昇。今後さらに上昇する。景気後退下の部かk上昇というスタグフレーションにさらされる。
  • 岸田政権:金融肥大化をどう修正するかというテーマへの回答が「新しい資本主義」。「貯蓄から投資へ」は証券会社のスローガンのレベル、国の政策ではない。大事なのは産業だが産業人は沈黙している。産業人の誇りのなさに腹がたつ。

「ロシア・ウクライナ」理解の背景。欧州理解のカギは黒海

近代史におけるロシアと日本。

  • ロシア:1853年にクリミヤ戦争勃発。オスマンとフランス(ナポレオン3世)、イギリス連合軍とロシア(ギリシャ正教ロシア正教)のエルサレムの管轄権を争う戦争。クリミヤ半島のセバストポリの戦い(5万人が籠城、349日)の敗北で後進性を自覚。アレクサンドル2世の大改革の時代でなり、農奴解放、富国強兵、殖産興業で近代化。
  • 日本:1853年のペリーの浦賀来航で後進性を自覚。明治維新で富国強兵、殖産興業で近代化。ロシアと日本は相関、並行でシンクロしている。
  • ロシアと日本が激突したのが日露戦争(1904-1905年)。
  • 敗北したロシアは1917年のロシア革命レーニンスターリンに率いられた社会主義ソ連になる。そのソ連が1991年に崩壊し、ロシア正教の大ロシア主義のプーチンの時代になる。
  • 勝利した日本は日英同盟日露戦争第一次世界大戦で乗り切り、日英同盟なき時代にアジアに回帰し、大東亜戦争に突入し敗北。戦後は日米同盟で今日まで・
  • ロシアと日本が共通するのは、西欧へのあこがれと自身の限界を知るとナショナリズムへ回帰する傾向。ロシア・中国という権威主義グループと欧米の民主主義グループという世界の分断に、日本はどう対処するか。単純に欧米につくのではなく、アジアとの対話に取り組み、さらにAA諸国、南米にも目配りするという、もう一つのシナリオがある。
  • 現在は大事なタイミング。主体的、創造的な、日米関係を踏まえた一味違う同盟という選択肢。6月21日のウイーンでの第1回核兵器禁止条約締結国会議。際立った役割がある。ドイツはオブザーバー参加、日本は不参加。被爆国日本として核を持つ国は核攻撃をしてはならないという考えの国際条約化など、外交に知恵をしぼるべきだ。非核保有国としてどうやって案ℤ年を保つのか。単純な極構造に陥ってはならない。
  • 日本企業の劣化。日本人の劣化。誠実さ、ごまかしのさなさ、額に汗して働くという日本人の良さ、技術と努力で、仕事を通じて自分を高めることから人生を充実していく。最近は無責任化が横行。仕事の現場が「ブルシットジョブ」になっているのではないうか、この点は日本全体の課題だ。

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「名言との対話」6月20日。守屋荒美雄「自ら書き、自ら出版する」

守屋 荒美雄(もりや すさびお]1872年6月20日明治5年5月15日) - 1938年昭和13年)2月8日)は、日本教育者実業家

岡山県倉敷市出身。岡山県関係の教員学力検定試験をいくつか突破し、文部省教員検定試験を合格し、文部省地理地誌中等教員免状を取得。1897年に中学教員となる。1898年、中等教員検定試験に合格する。

1905年、地図・地理教科書を出版。1910年教職を辞し教科書執筆に専念する。『動的支那地理』(1913年)の序文は同郷の犬養毅が書いている。1914年、『動的世界大地理』を刊行。

1917年、地理・地図専門の出版社「帝国書院」を創立。1920年、地図帳『帝国地図』を発刊し、テーマに沿った主題図、統計、索引、持ち運びできる大きさという現在の地図帳のスタイルをつくった。

1925年、現在の関東第一高校を創立。1938年、現在の吉祥女子中学校・高等学校を創立。

20代の1898年にはキリスト教の洗礼を受けて名前を「荒美雄」(すさびお)と改める。「ス」は最高という意味、「サビオ」は賢人という意味であるから、「最高の賢人」を自称したことになる。他人にも説明しただろうし、何よりも自身を奮い立たせる効能があっただろう。

教科書の名前に「動的」という冠をつけている。静的な教科書に対する批判をこめた言葉だ。青少年に向けてダイナミックな血沸き肉躍る、面白い教科書をめざしたのであろう。国際的な地位を高めている日本国民ににふさわしい地理教育を行うという強い志が感じられる。守屋は生涯で200冊に及ぶ教科書を刊行し、雑誌「地理学研究」の創刊するなど、日本の地理教育に大きさ足跡を残した。「地理教育の父」と呼ばれるにふさわしい業績である。

守屋は1872年(明治5年生まれ)である。因みに同年生まれの著名人の没年を調べてみた。樋口一葉は明治の日清戦争直後の1896年に24歳で没している。守屋自身は戦前の真珠湾攻撃の3年前の1938年で65歳。佐々木信綱は戦後の東京オリンピックの前年の1963年で91歳。平櫛田中は第2次オイルショックの1979年で107歳。いずれも同年生まれであるが、生きた時代が全く違う感じがする。

さて、「地理・地図」を生涯のテーマと定めた守屋荒美雄は、若い頃から「最高の賢人」と自負するだけあって、自ら教育現場で工夫し尽くした教科書を執筆しながら進化させ、ついには教科書を発刊する出版社を創設して自ら教科書を進化させていった。そしてその延長線上に、思う存分教育に当たれるように、中学校・高等学校までつくってしまった。

「自ら書き、自ら出版する」の前に、「自ら学び」を置き、途中に「自ら教え」、後に「自ら導く」を置いたらどうか。守屋荒美雄は、地理教育を生涯のライフワークと定め、「自ら学び、自ら教え、自ら出版し、自ら導いた」、志の人である。

 

久留米の「坂本繁二郎生家」と「青木繁旧居」を訪問。二人は小学校以来の親友。晩成の鈍才・坂本は87歳、早熟の天才・青木は28歳の生涯だった。。

久留米で「坂本繁二郎生家」と「青木繁旧居」を訪問。

この二人は近所に住む小学校時代からの親友だった。坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にブリジストン創業者の石橋正二郎(1889-1976年)や、政治家石井光次郎(1889-1981年)がいた。石橋が青木繁坂本繁二郎の絵を収集したのもこの縁である。2011年に東京のブリジストン美術館青木繁展が開かれているのもそういう流れの中の一コマである。

青木繁代表作「海の幸」が印象に残る画家であるが、この作品を描いた20歳を少し超えた頃を頂点に28年という短く苦悩の多い人生を送ったことを知った。
青木は何に一生を賭けるかと思案する。「人生とは何ぞや」「我は男子として如何に我を発揮すべきや」。学者、政治、軍人、、、。哲学、宗教、文学、、、そして最後に芸術にたどり着く。「われは丹青の技によって、歴山帝(アレクサンダー大王)若しくはそれ以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだ」。
上京し東京美術学校に入り、黒田清輝の指導を受ける。上野の図書館に通い、古事記日本書紀をはじめ諸国の神話、宗教書を読み漁る。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」「大穴牟知命(オオナムチノミコト)」などの作品を描くが、父危篤の報を受けて久留米に帰り、以後熊本、佐賀方面を放浪。福岡にて28歳の生涯を閉じる。
この画家の没した翌年に坂本繁二郎などの友人が「青木繁君遺作展覧会」を開催する。青木の作品に好意的であった夏目漱石は「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思ひます」と友人あての書簡の中で書いている。そしてその翌年に「青木繁画集」が刊行された。青木は死後に評価を高めた。
そして後に久留米出身の河北倫明(京都国立近代美術館長)が「青木繁の生涯と芸術」という論考を書き、私たちは夭折の天才画家・青木繁の芸術を知ることができる。また渡辺洋の「悲劇の洋画家 青木繁 伝」(小学館文庫)には、同郷で繁の叔母モトにかわいがられた人を母に持つ渡辺は小説の形式で、青木繁の人間像に迫っている。この小説では会話には方言を用いており、青木本人の言葉や、友人たちとの会話が真実味を帯びて描かれている。
同時代を生きた友人、そして後に掘り起こしてくれた郷里の具眼の士、そういった人たちによって青木繁は100年もの間、生き続けてきたのである。

実際に見た「海の幸」は、私のイメージと比べると小さかった。それでもタテ70.2センチ、ヨコ182センチの横長の大作だが、昔教科書で見た鮮烈なイメージの大きさほどではなかった。しかし、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目である。

友人の坂本繁二郎は、「流れ星のような生涯だった」と言い、蒲原有明は「比類のない伝説のようだ」と青木の生涯を総括している。福田たねとの間に生まれた幸彦は、後の尺八奏者、随筆家である福田蘭童で、ある。

谷口治達「青木繁 坂本繁二郎」(西日本新聞社)には、高等小学校時代からの友人二人の軌跡が描かれていて興味深く読んだ。28歳で夭折した早熟の天才・青木繁と、明治・大正・昭和と87歳まで画業を全うした晩成の坂本繁二郎
二人の友人であり早稲田大学を出て故郷で旧制中学の国語教師をしていた梅野満雄の二人の比較がよく特徴をとらえている。「彼らは大いに似て大いに異なるところが面白い対照だ。同じ久留米に生まれてしかも同年、眼が共に乱視。彼は動、是は静。、、青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に棲む。彼は浮き是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成。、、、」

周囲に迷惑をかけ続けた青木繁は悲劇の天才であり、人格者・坂本繁二郎は求道の画人であった。どちらにも「繁」という字がついているのが面白い。

 

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夜は「遅咲き偉人伝」の集録。テーマは「人物記念館1000館の旅」から。1時間。

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「名言との対話」6月18日。ルー・ゲーリッグしかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグHenry Louis Gehrig, ドイツ語:Heinrich Ludwig Gehrig(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ), 1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグプロ野球選手。

ニューヨーク市生まれ。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した名選手である。17年間で1995打点を挙げ、生涯打率は3割4分。1927年1936年にはアメリカンリーグMVP。1934年には三冠王本塁打王3回、打点王5回。打率.350以上6回、150打点以上7回、100四球以上11回、200安打以上8回、40本塁打以上が5回。1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「殺人打線」と呼ばれヤンキースの黄金時代を築いた。

1934年の来日時、沢村栄治の好投による「完封負け」の危機から全米軍を救ったのがゲーリッグのソロ本塁打による1点だったから、日本でも強い印象を与えた。

連続試合出場記録は2130試合という世界記録は、後に「鉄人」と呼ばれた衣笠(2215)、リプケン(2632)に破られる。

1939年には当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号4」が永久欠番に指定された。『トータルスラッガーズリスト メジャーリーグ万能強打者列伝』第二巻(著者:箭球兜士郎 野球文明研究所)には、打撃成績が詳しく紹介さている。

愛称は「アイアン・ホース」、そしてライバルであった動的なベーブ・ルースとの比較で「静かなる英雄」とも呼ばれている。ゲーリッグは1941年6月2日に37歳の若さで亡くなる。翌1942年にゲーリッグの半生を描いた『打撃王』が公開されている。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)と知ったゲーリッグは引退を決意し、連続試合出場記録は本人に手で幕を閉じている。衝撃を受けた世間は、この病気を「ルーゲーリッグ病」と呼んだ。手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく。しかし、体の感覚、視力や聴力、内臓機能、そして精神機能にはダメージはない。難病である。

ベース・ルースもかけつけた「ルー・ゲーリッグ感謝デー」での挨拶は、「ファンの皆様、ここ2週間に私が経験した不運についてのニュースをご存知でしょう。しかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています」だった。1941年6月2日に没。

「鉄の馬」と称される、14年間無休の頑強なスラッガーは、ALSという難病で野球選手としての活躍を絶たれている。そういう不運がなければ、連続出場記録はさらに伸びていただろう。数々の記録もさらに華々しいものになったはずだ。37歳という短いが濃厚な生涯については、本人は「幸せ」だとしている。ルー・ゲーリッグは、記録とともに記憶に残る英雄だった。

 

 

 

 

 

 

石橋正二郎(ブリジストン創業者):久留米の石橋正二郎記念館を訪問し、『石橋正二郎伝』伝記を読んだ。

石橋正二郎記念館(久留米市)。

石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年明治22年)2月1日 - 1976年昭和51年)9月11)は、日本実業家。 

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石橋正二郎は家業の仕立物屋から出発。足袋の底にゴムを貼りつけた地下足袋で成功。その後、自動車時代を見据え、ゴムの生産技術を生かした国産タイヤに進出。今日のブリジストンの創業者である。また石橋は鳩山一郎の後援者としても知られている。そしてもう一つをの顔が美術コレクターである。石橋正二郎は政治家・鳩山一郎を支援し、一方で美術品の蒐集にもあたった。現世を司る「政治」と永遠の美を見つめる「美術」、この二つが財をなした実業家の金の使い道である。

坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にブリジストン創業者の石橋正二郎がいた。石橋が坂本繁二郎と坂本の友人の青木繁の絵を収集したのもこの縁である。東京のブリジストン美術館で今回の青木繁展が開かれているののを見たことがある。

「時の短縮は、私の信条である、もし他人の3分の1の時間で仕事をすれば、結局3倍の仕事ができるわけだ。だから一生外の活動時間を、仮に40年とすれば、120年分の仕事量となる勘定なる。」

私が尊敬する人たちは皆時間管理、タイムマネジメントの達人たちだ。誰1人として時間管理が下手な人はいない。そういう人たちは人が3時間かかる仕事を1時間で仕上げてしまう。だから膨大な仕事量をこなすことができる。それは仕事の熟練を促していき、あっという間に優れた成果を上げてしまう。この石橋正二郎と言う大実業家もそういう人の1人だ。こういう人は自分の部下たちを鍛え、会社そのものを鍛えに鍛えていったに違いない。この考え方で一代であのブリヂストンを創ったのだ。

記念館で購入した『石橋正二郎伝』(静岡新聞社)を読んだ。著者は大坪壇だった。懐かしい名前である。「知的生産の技術」研究会で1986年に刊行した『知的生産者の発想現場から』(TBSブリタニカ)でインタビューをした相手だった。当時は大坪さんはブリジストン・秘書室主査だった。著者プロフィールをみると、本が出た翌年に大学教授へ転身している。

その大坪さんが書いたということで、熱心に読んだ。大坪さんはブリジストン石橋正二郎の補佐的な仕事を約10年間務めている。1987年に静岡県立大学教授。その後、静岡産業大学学長をつとめている。この本は2019年(令和元年)に90歳の卒寿の年に刊行したものだ。「インテレクチュアル・エンジョイメント」「仕事は能率よく、生活は愉快に」というというモットーのままにやってこられたのだろうと推察する。かくありたいものだ。

さて、石橋正二郎について。訪米時に「お金は稼ぐより使う方が難しい」というロックフェラー3世の言葉を常に頭に置いていた。それが美術品収集と美術館の建設、あるいは郷里への幅広い貢献になった。

経営:「世の人々の楽しみと幸福の為」。確かな人事哲学。広告宣伝の天才。マネジメントシステムのイノベーター。人が本で法は末。人物を見る目。推理する力の大小と深浅で成功の大小が決まる。数字と事実。「タイヤは命を乗せている」。

ゴムをベースにした脱タイヤ路線を進化:カーボンブラック製造。スチールコードの製造。ラジアルタイヤ。多様なゴム製品。ゴルフボール。スポーツ用品。電気自動車。小型ロケット。航空機。石油事業。寝具。オートバイ。LPG。、、、

人物:新しもの好き。一流好み。一番主義。沈思黙考、熟慮断行。即断。長期経営計画。撤退もうまい。石橋学校。建築好き。自然愛好家。「建築と造園は人間最高の趣味である」が口ぐせ。日記。挨拶原稿は自作。強い郷土愛(久留米大学石橋文化センター、プール21、美術館、、、。鳩山一郎の支援者としての顔。

言葉:ニクソンショック時「大丈夫乗り切れる。私についてきなさい」。「本筋から離れ投機でもうけることは間違い」。予言「共産主義は衰え、結局資本主義に一歩ずつ歩み寄ると思う」(1962年)

大坪壇は「60代からの方が大きな仕事を始めている」と観察している。ある意味、遅咲きともいえる。60歳、ブリジストンサイクル(株)の設立。62歳、プリンス自動車会長。71歳、東京の旗艦工場の建設。72歳、ブリジストンの株式の公開。74歳、会長。80歳、佐藤栄作大蔵大臣の要望に沿って東京国立近代美術館を建設、寄贈。82歳、久留米の石橋文化センターの日本庭園寄贈式。87歳まで、生涯現役だった。生涯現役のモデルだ

妻は「つねに物事を深く考え、進歩的、独創的、積極的で、計画は常に遠大であり、人のまねをするのではなく、人のしないことをしなければいけないといっている」と語っている。

石橋正二郎という傑物の伝記は、息子の幹一郎の友人でブリジストンにも在籍経験のあっる小島政二郎のものなどあるが、ビリジストンに長く勤め、正二郎の身近で仕事をした経営学者である大坪壇の伝記で、石橋正二郎のことがよくわかった。

以上、久留米で学生時代からの友人の上野君の案内と説明、記念館訪問、伝記を読んで、石橋正二郎という人物の大きさに感銘を受けた。

知的生産者の発想現場から

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「名言との対話」6月18日。ジョージ・マロリー「そこにエベレストがあるから」

ジョージ・ハーバート・リー・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 - 1924年6月8日もしくは9日)は、イギリス登山家

イギリス人。ケンブリッジ大学を卒業。マロリーはエベレストに3度の挑戦している

1921年第一次遠征隊は偵察が目的で若手として参加。1922年第二次遠征隊では頂上アタック隊を率いた。1924年第三次遠征隊では、アンドリュー・アービンとともに 8170m地点の最終キャンプから山頂を目指したが、再びキャンプに戻ることはなかった。1999年にマロリーの遺体が発見された。登頂していたか、はいまだにわからない。

「登頂」とは何か。登頂とは生きて帰ってくることまで含むことが常識であり、マロリーが頂上登ったかどうかに関係なく、1953年にイギリス人のヒラリー卿とシェルパのテンジンが初登頂した。

当時は極地探検の時代であった。1909年の北極点到達。1911年の南極点到達。そして世界最高峰のエベレスト登頂への挑戦。イギリスを始め、世界の主要国が国の威信をかけてしのぎを削っていた「探検の時代」であった。

3回目の挑戦の前に、「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われたマロリーは「Because it's there」と答えた。日本では「なぜ山に登るのか?」という問いにし、「そこに山があるから」と訳してしまった。誤訳である。「it」は山一般を指すのではなく、世界最高峰のエベレストをさすのである。本当は「そこにエベレストがあるから」が正しい。

この「そこに山があるから」は、大学の探検部時代に聞いたことがあるが、よくわからなかった。何か哲学的な深い意味があるような議論が多かったが、もっと単純だったのだ。世を惑わす世紀の大誤訳である。

同じような誤訳は他にもある。「United nations」を日本は国際連合と訳した。本来は第二次世界大戦戦勝国連合である。拒否権という大きな権限を持つ常任理事国が米英仏露中であることが示している。ドイツや日本は敵国であるから、世界政府というような幻想は持ってはいけないのだ。

因みに「Right」は福沢諭吉は「権理」と訳すべきだとした。しかし 法律用語として「権利」となってしまった。「利」は利益である。「理」は道理だ。福沢の主張どおり訳していると世の中の風潮も違ったかもしれない。

今さらではあるが、「そこに山があるから」というマロリーの言葉は、本当の意味を離れて、常識になってしまった。それはそれでいいのだろう。

 

 

知研セミナー:小酒井正和「仮想世界だけじゃないメタバース」ーー講義と体験会


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メタバース」はホットなテーマなので、学生も含め23人が参加。

以下、私の理解可能な範囲でキーワードをピックアップ。

デジタルツイン=現実世界+仮想世界。フィジカル空間とサイバー空間。リアルとメタ。現実空間と超空間。二つの世界を自由に出入り。

世界はいくつもある。コミュニティは選べる。ユーザーがつくりあげる。ミラーワールド。子どものマインクライフト。自動運転などシミュレーションして社会化、マース、近未来モビリティ。ソサエティ5.0。SPATIAL(仮想空間の職場)。AR(拡張現実)はポケモンなど。Figment(窓から)。

マイクロソフトはMR(複合現実)。Hololens。Lidarセンサー付きグラス型デバイスAVATAR異世界の自分。容姿からの解放と自由。アバター参加。自分を見せなくてよい。ミチコンPlus(スマホアプリ)。NFTはコピーされない、ブロックチェーン

教育。マイクロシフトはマインクラフト。SAP(メタバースの拡張)は業務フロ。アップルは教育プラットフォーム、iPad。子どものゲームから。グーグルも教育ソリューション。ブロックチェーン。暗号資産。

体験:cluster。ワールドクラフト。内面から始まるコミュニケーション。出会いの場の拡大。「バーチャル渋谷」。ドラえもんの世界。麻雀。不登校もZOOMで出席。フェアな教育。性善と性悪。コントロールが必要。本性の心理学。

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ゲスト講師の小酒井先生から
  • 本日の知研セミナーにご参加いただきましてありがとうございます。弟子たちも参加させていただきまして光栄です。まだまだゲーム以上の価値を提案しきれておらず、予断を許さない話題ではあります。本当に、ブロックチェーン技術を主体としたネット社会の民主化が成し遂げられるかはまだ分かりません。他方で、AppleGoogleはハードウェアでユーザーをロックインしようとしてるフシもあり、イノベーションを阻害する立場にも見えます。今後、本学でももうちょいおもしろいコトを開発する方向でもありますので、継続してお知らせできることができましたら、お知らせしたいと存じます。

参加者の学びから。

  • 6月の知研セミナー、メタバースについてのレクチュアと体験会終了いたしました。この日のために多大なご準備をしてくださった小酒井先生、誠にありがとうございます。メタバースへの取り組み方や考え方、デジタルツインについてもよく理解できました。日本はどちらかというと、新たな世界に支配的に関わりたい、という冒頭のお話を聞いて、なるほど、と感じました。最後の出席者による簡単な感想と質疑応答では、今後の教育についてこの新たな(とは言え、既に考え方自体はかなり前からあったそうですが)プラットフォームをどう考え、どう活用していくかについて示唆に富んだ質疑があったように思います。是非またこういったテーマで更に深くメタの世界への検知を深めたいと思います。
  • 小酒井先生、本日は知研セミナーメタバースの講義ありがとうございました。実際にアバターメタバースの空間を体験させていただく貴重な機会でした。自分のアバターが仮想空間の中を歩いたり走ったりする、というのは事前にイメージしていましたが、実際に体験してみると想像していた以上に面白く、アバターが飛び跳ねるところはユーモラスで思わず笑ってしまいましたし、うまくポーズはとれませんでしたが、階段を上がって集合写真をとったりと、いろいろなことが、仮想空間の中で一味違った楽しさになっているという感覚でした。そういう意味では、リアルな世界からは感じられない新しい楽しさ(新しい価値も)が生まれる可能性が大いにありそうだ、と思いました。本日は貴重な体験、ありがとうございました。
  • 今日の知研フォーラムは、玉川大学の小酒井先生のメタバースのお話と体験でした。クラスターは今年の初め頃、名前は覚えていませんでしたが一度経験したことがあります。微生物学が専門の友達が主催した、いわば微生物の水族館ともいうような空間でした。アバターで動いたり展示の前でその専門家に質問したりしました。FacebookからMetaに社名が変わったのに当座はぴんときませんでしたが、クラスターなどの経験をするうちに経営者がそういう方向を目指しているのかと少しずつ分かってきました。岡山の中学校の先生のお話は、たいへんよく分かり、共感します。また、バーチャルでの恋愛の話題もとても面白かったです。オンラインで知り合い、リアルで会えるようになるのが楽しみ、というのもよかった。たしかに、そういうこともあり、だと思いました。楽しかったです。ありがとうございました。
  • 小井井先生:本日のセミナー、大変有り難う御座いました。最近のIT技術の状況に疎い私にとっては、驚かされる事が非常に多く、又、考えさせられるセミナーでした。仮想空間など訳のわからない話だと思っていましたが、ここまで進んでいるのですね。昔、インターネット、SNSという概念を最初に聞いた時の事を想起致しました。最初は、馴染めない話でしたが、今では、私さえ、その世界の中にいます。本日の小酒井先生のお話も、近未来の話だと思います。私はアバターによる仮想空間の恋愛は、現実に会えば、想像していた容姿と異なり、お互いに幻滅するのかと思っていましたが、若い人の経験談では、逆に容姿に捕らわれず、人間の中味で判断出来るので、良い面があるとの話でした。メータバースは単なる手段ですが、逆に人間関係や社会も変えうる可能性があると感じました。お陰様で非常に勉強になりました。有り難う御座いました。
  • 小酒井先生、本日は、大変興味深い貴重なお話をありがとうございました。遊びの美学を持って実学をと言うことを小酒井先生が大切にしておられるとの事で、私も、普段あまり、そのように考えないので、ぜひ遊びの美学を大切にしてみようと思いました。今日の講義も、その精神が、メタバースのお話しに含まれているように思いました。メタバースの普及経路の図表がとてもわかりやすく、現在のメタバースの位置がよくわかりました。①ゲームの地ならし②仕事と学校での利用拡大③経済圏の成立と流れがありますが、数年以内には、③に行くのではと、メタバースの可能性を期待しています。今まで言葉の意味やつながりが、よくわからなかったのですが、③になった時、メタバース、NFT、希少価値、仮想通貨など融合する意味や重要性が、今回の講義で、わかるようになり、感謝しています。VR活用方法ですが、奈良時代鎌倉時代、江戸時代などさまざまな時代に行って、その時代の人の暮らしについてや当時の人の気持ちの理解が深まり、学習や教育の場や趣味活動で役立つのではと思いました。また、地域のさまざまな社会課題解決にも役立つのではと思いました。クラスターの体験演習もでき、とても楽しく学ぶ事ができました。おかげさまで、メタバースについて、今後も、理解を深めたり、取り組んだり、関っていきたい思いが、強くなり、今回の小酒井先生の講義を受ける事ができましたことを感謝しています。ありがとうございました。
     

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16時:多摩大OBの岡君とZOOMで打合せ

19時:知研幹部会

20時:知研セミナー「メタバース

21時半に終了後、テレビで力道山を取り上げていた。朝鮮人と日本人。大相撲の関脇で突如辞めた原因は「朝鮮人大関横綱になれない」という師匠の言葉が原因だったという張本の証言。

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「名言との対話」6月17日。臼井吉見「教育の中軸は自己教育だと思いますが、その自己教育の中核は、自分と異質な人間との対話です」

 臼井 吉見(うすい よしみ、1905年6月17日1987年7月12日)は、日本の編集者評論家小説家日本藝術院会員。

臼井 吉見(うすい よしみ、1905年明治38年)6月17日 - 1987年昭和62年)7月12日)は、日本編集者評論家小説家

長野県安曇野市出身。旧制の松本中学、松本高校を経て、東京帝大文学を卒業。臼井は後に原発事故で知られた福島県の双葉中学の国語教師にもなっており、また郷里で教員をつとめた後、上京し総合雑誌『展望』の編集長をつとめる。文芸評論家としても活躍する。

1964年、59歳から大作『安曇野』を書き始め、途中病気の5年間もあり、この邂逅の物語を69歳で完結させ、谷崎潤一郎賞を受賞する。原稿は5600枚だ。登場人物は、新宿中村屋を興した安曇野出身の相馬愛蔵と黒光夫妻、荻原碌山、井口喜源治、木下尚江、そして臼井である。明治から昭和にかけての、安曇野の人々を中心とした人生における邂逅の物語だ。安曇野が有名になった作品である。

その後、天皇制を論じた『獅子座』というライフワークに取り組むが未完に終わっている。明治維新臼井吉見に寄れば、王政復古ではなく、岩倉具視のクーデターだった。臼井は天皇に対しては戦争責任を問わないわけにはいかないとという意見だが、同時に天皇に限りないシンパシーも持っていた。一人の人間から基本的人権を奪っているという考えだった。ついにライフワークは完成しなかった。

2012年に安曇野を訪れたとき、安曇野ちひろ美術館碌山美術館と、臼井吉見文学館を訪ねた。小学校校長先生は、深田久弥が『日本百名山』で取り上げた、窓から見える常念岳(2857m)を指しながら、「常念を見よ」と臼井らに語っていた。郷里の山は人格形成に影響を与えることが多いが、臼井はこの言葉をしっかり覚えていた。三角の形をして美しい常念岳は臼井の心にも影響があったのだろう。

臼井の講演録「自分をつくる」には、教育者としての名言が並んでいる。

「体を動かし、頭で考え、心に感ずる」

「精神の成長の時期に作られる友達が生涯の友達です。たがいに精神の成長の秘密を知っている同志が友人です」

「肝心の発電は、他人任せにして、電線だけ引っ張って、自分の精神の火をともそうとしたって、だめなんです。か細くても、消えそうでも、精神の世界では、自家発電でなくては、ごまかすわけには行かない」

臼井吉見という名前とやや太り気味の姿は子供の頃のNHKの人気テレビ番組「それは私です」で覚えている。山本嘉次郎、池辺良、中村メイコ曽野綾子と並んで人当ての推理をする番組だ。臼井は偉い人のように思ったが、よく間違えるので愛嬌があったように記憶している。

座右の銘「滾々汨々」(こんこんいついつ)は墓碑にも刻んである。考えや知恵がこんこんとわき出るようにしていたいという意味である。

「教育の中軸は自己教育だと思いますが、その自己教育の中核は、自分と異質な人間との対話です」。この言葉は、教育の本質を突いている。人は自分で自分を教育していくしかない。その中核は同質との遭遇である。仲間との交流は心が休まるが、それでは成長は望めない。常に新しい空間に身を置き、自分とは異質の人たちとの遭遇を求めて行動しよう。自分は自分自身を鍛える最高の教育者なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「知覧特攻平和会館」ーー父の世代は日露戦争、息子の世代は大東亜戦争。その子どもが私たちの世代だ。

先週土曜日に知覧の知覧特攻平和会館を訪問した。

「知覧」「筑前町大刀洗」の特攻も、「広島平和資料館」と命名された原爆も「平和」という言葉をつけている。長崎は「長崎原爆資料館」でサブで長崎市平和会館となっている。なぜ「平和」がついているのか。何かありそうだ。

桜並木に沿って1000以上の石灯篭が迎えてくれる。散華した17歳から20代前半の1036人の魂を慰めるために計画されたのだ。一基一基が特攻隊員の墓である。会館の建物の形も特攻隊員の魂を鎮める場所という厳粛な雰囲気を漂わせている。

写真、遺書、日記、手紙まど4500点が展示されている。そして映像、戦闘機などもみることができる。勇ましい言葉とともに、あどけない少年の出撃前の顔をみて、涙が出てくる。どんな人も、涙を禁じ得ないのではないか。「必中必殺」「悠久の大義」「最高の名誉」「幸福」「天皇陛下万歳」、、という紋切り型の遺書。特攻は決死隊ではなく、必死隊であった。中には「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」という人もいたらしい。

知覧高女のなでしこ会(当時14、15歳)「お兄様がた」「日本女性ということを忘れず一人でも殺して死ぬつもりです」「立派な方々ばかり」「日本の兵隊さんはえらい」。彼女たちは厳罰を覚悟で実家への手紙を預かっている。

「特攻の母」と慕われた鳥濱トメ「隊員たちの多くは、戦争をしてはならない。平和な日本であるように、ということを言っていました」「みんな極楽に行く人たちでしたから、とてもやさしいんです」「僕たちは年齢をほんのわずかしかもらえないから、残りはおばさんにあげる。だからからだを大事にして長生きしてください」「こんないたいけな子供たちが、、、ほんとに不憫でならなかったよ」。戦後、知覧に進駐した米兵の世話もせざるを得なくなる。米兵からは「ママ」と呼ばれた。観音像建立までしている。戦争孤児、混血児もあずかった。娘の礼子は赤坂の「薩摩おごじょ」という居酒屋で生き残った人たちと交流を続けた。

遺書・遺詠「人生の総決算 何も謂うこと無し」「君の為吾は征くなり南の海に 敵殲滅の火と燃えて」「俺が死んだら何人泣くべ」「笑って征きます」「幸福な一生を送ることができました」「来る年も咲きて匂へよ櫻花 われなきあとも大和島根に」「遂に最後までお母さんと呼ばざりひ俺、、、母上お許しください」「栄えある特攻隊長として部下とともに皇国の永遠無窮を信じ欣然として死に就きます」「来る年もまた来る年もとこしへに 咲けと祈りて我は咲くらむ」「武人最高至上の幸福です」「初陣が最後」「かへらじと思ふこころのひとすじに 玉と砕けて御国まもらん」「あんまり緑が美しい 今日これから 死に行く事すら 忘れてしまいそうだ、、、」「皇国に生まれ君のため地獄に生く、何たる極楽ぞ」「たかが五尺の体を、それを五万トンの棺桶に休む」、、。

三角兵舎での死を待つ日々。オンボロの飛行機しかあてがわれなかった。不時着後、帰した者への冷たい仕打ち。

彼らの父の世代は日露戦争。息子の世代は大東亜戦争である。その息子が私たちの世代だ。

 

 

 

 

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羽生善治が1500勝を達成というニュース。

羽生 善治(はぶ よしはる、1970年昭和45年〉9月27日 - )は、日本将棋棋士永世竜王十九世名人永世王位名誉王座永世棋王永世王将永世棋聖、名誉NHK杯選手権者。連続タイトル保持 - 27年9か月 (1991年3月18日棋王獲得-2018年12月21日竜王失冠)。現在は無冠。1970年生まれの51歳。

インタビュー:「試行錯誤」。「新たなスタイルを」。「自然体で」。「長く」。

次の目標

・通算タイトル獲得100期。歴代1位の 99期(大山80期)。

・A級復帰。

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安藤百福やなせたかし新田次郎森繁久彌公文公山口洋子佐藤忠良柴田トヨ。村野四郎と片岡球子。古川薫と川田龍吉。野上弥生子宇野千代葉室麟内田康夫今西錦司宮尾登美子壷井栄石井好子

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「名言との対話」6月16日。大倉喜七郎「成功者はおやじの喜八郎さ、おれは息子でひとつ足りないから喜七郎てんだ」

大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年明治15年〉6月16日 - 1963年昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥

大倉喜八郎が築いた財閥の御曹司として生まれる。18歳で英国のケンブリッジ大学に留学し、7年を過ごす。ボートやスキー、自動車、そして美術、音楽などの文化にも造詣を深めた。「バロン(男爵)・オークラ」とも呼ばれていた。父は91歳まで家督を譲らなかったため、部屋住みの期間がながかった。大倉財閥は直系15社に加え、大倉鉱業、大倉商事、日本無線東海自動車、帝国ホテル、川奈ホテルなど200社以上の関係会社を傘下におさめていた。

喜七郎独自の事業としては、1930年にローマで開催した日本画の大展覧会のために、横山大観を団長とする芸術使節団を送り込んだことを思いだした。大観の「夜桜」など大作の名画ばかりであった。準備の映像をみたことがあるが、大観が笑っている姿をみることができた。

腹違いの弟の大倉雄二が書いた『男爵 元祖プレイボーイ 大倉喜七郎の優雅なる一生』(文芸春秋)を読んだ。雄二は父が83歳の時に60歳以上年下の母から生まれた庶子である。恵まれた嫡男を貧しい庶子の視点から描いた伝記である。

午前は関係各社の社長、会長業。午後はアシスタントに囲まれて作曲をしていた。そしてプレイボーイ、浪費家、通人、粋人、光源氏などと呼ばれていた遊び人だった。「バロンは文化的すぎるよ」と言われるほど、壮大な不労所得で一流の芸術家、芸人に援助するだけでなく、日本ペンクラブ日本棋院にも大きな援助をしていた。

敗戦で満州、シナ、朝鮮にあった全財産を失った。そして財閥解体により公職を追放され、全てを手放すこととなった。

しかしホテルへの未練は断ち難く、1958年には「世界一のホテルを作る」と、76歳で資本金10億円を集め、新ホテル建設のための会社を設立する。私有地の私立美術館「大倉集古館」以外の部分がホテルの建設用地となった。3年後に「世界に通じる日本の美と心」をテーマとしたホテル・オークラが完成する。雄二は喜七郎が「知っていたのは金の威力で、価値ではなかった」と書いている。喜七郎は。80歳で死去。

それにしても父の喜八郎が、ひとつ足りないとして、喜七郎と命名したの不思議だ。生まれたてなのにわかるのだろうか。しかし大倉財閥として名前が残ったのは、喜七郎の「ホテル・オークラ」である。今までこのホテルには何度も足を運んだし、大倉集古館も堪能しているが、このようなドラマがあったことを初めて知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幸福塾」。本日のテーマは「〇〇の父」。

「幸福塾」。本日のテーマは「〇〇の父」。

インスタントラーメン。沖縄学。現代漫画。生協。柔道。近代陶芸。日本近代医学。日本近代資本主義。プロ野球。日本のウイスキー。日本の物理学。ペースメーカー。漫画。近代陶芸。台湾砂糖。レスリング。公園。植物学。近代俳句。民芸運動コミケ。プロレス。、、、、

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以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。「〇〇の父」と言われる各界の先駆者・第一人者となった方々をご紹介いただきましたが、実にたくさんの偉人が「父」としてその分野を極め育ててきたかが分かり大変興味深く伺いました。例えば「インスタントラーメンの父」の安藤百福。ラーメンは平和産業。インスタントは時間を大切にすること作ること。時計の針は時間を刻んでいるのではない、自分の命を刻んでいるのだ。人類は麵類!・・・など、魅力的でユーモラスな言葉が印象に残りました。また、「近代陶芸の父」川喜田半泥子。銀行の頭取職にあって、趣味で陶芸作りに没頭し、魯山人と並び称されるまでになったとのことですが、あくまで趣味の立場で取り組んでいたというところに凄さを感じました。また「日本近代資本主義の父」渋沢栄一の「老化は新知識の欠乏」という言葉には、思わず背筋がぴんとなる思いでした。毎回新しい言葉に出会います。次回以降も楽しみです。
  • 本日も、ありがとうございました。「〜の父」をテーマに数多くの方々を紹介いただきました。一つの分野を極めたというよりは、複数の分野で活躍されている方々の多さに驚きました。有能さと器用さを兼ね揃えていると思いました。安藤百福のリーダとは権力ではなくて責任の所在であるというフレーズから、リーダーのあり方を学びました。リーダーだからこそ得られる権力を権力として行使するのではなく、メンバーが自由に活躍できるための責任として使っていく姿勢になるほどと思いました。紹介いただいたお一人お一人は、ブレないものを持ちながらも、人徳の良さもじわりじわりと伝わってくるものを感じました。だからこそ、いい人が集まってきて、心地よいエネルギーが場に満たされるのではないかと、思った次第です。遠出から帰宅された次の日にこの幸福塾を開催いただいたこと、本当に感謝申し上げます。
  • 本日参加出来ず、大変残念です。皆様の投稿で、様子だけでも伺うことができれば幸いです。
  • 本日もありがとうございました。いつものことながら、非常に濃い時間でした。「まんぷく」や「青天を衝け」などTVドラマで親しんでいた人もいれば、全く名前を知らなかった人もかなりいました。それぞれの生き方やエピソードなど、興味は尽きません。いくつか気付いたことがあります。(1)生協の父、賀川豊彦が知られざる知の巨人だということを知りました。貧しい人たちのための非常に多くの事業をリードしてきました。こういった、あまり世に知られていなかった数多くの人々を発見する期待が高まってきました。(2)「コンタクトレンズの父」とか「四コママンガの父」など、日常生活で細かい物だけどお世話になっているものの一つ一つに、それぞれの歴史があり、「父」(または「母」)と呼ばれる開発者の存在があることを再認識しました。(3)最後の笹川良一の生き方については、完全に偏見にとらわれていたことを実感しました。もっと多角的に、クリティカルに全てをみなければいけないと思いました。なお、今日は今西錦司氏と京都学派のことを取り上げましたが、読書会をやってみたら、というご提案がありました。とてもいいアイディア、ありがとうございます。
  • 本日も先生、みなさまお疲れ様でございました。「〇〇の父」と言われるたくさんの方々のお話をいただきました。いろいろな方面の、初めてその分野を開拓し、引き継がれ「父」と呼ばれるようになった方々のお話でした。また、NHKの朝ドラになってる方も多く、人物像のイメージがしやすかったです。南方熊楠は日本民俗学の母?と呼ばれているそうで、日本民俗学というものを作った産んだからでしょうか?安藤百福さんのおかげでインスタントラーメン食べることができていますし「インスタント食品は時間を作り出す産業」は、なるほどと思いました。岡本太郎と父母まわりの方々の物語はぜひ見てみたいです!嘉納治五郎の「人に勝つより自分に勝ちなさい」を忘れないように日々過ごさなければと思いました。明治大学米沢嘉博記念図書館は行ってみたいと思いました。本日もありがとうございました。
  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。神にまでは登りつめることがなくても、〇〇の父と呼ばれる方々のお名前業績に触れ、素晴らしい先人達に改めて敬意を表したいとおもいます。私が存じ上げる方だけでは無く、忘れられた巨人の方もおり、得るところ大でした。以前の講義で城山三郎の「部長の最晩年」と書棚の片隅で遭遇、久しぶりに手に取りました。以前は途中で放り投げた本でしたが、年齢のせいか楽しく読了しました。主人公の永田耕衣は個人としての生き方が中心に描かれていて、俳句の父と呼ばれるまでにはなってなかったですが、公人、私人としての生き方も学ぶところだいでした。次は笹川良一にトライしてみようとおもいます。次回も宜しくお願いいたします。
  • 昨日「幸福塾」ありがとうございます。ご教示に感謝申し上げます「公人」とは、肩書や組織から当てがわれる役回り、いわゆる「役人」であるかないかによって規定されるものではなく、個人の公的意識、志向の強さ、嗜好の深みや私的なレベルを超えての物事の受け止め方によることが多いものと思います。昨夜ご紹介いただいた「…の父」といわれる人々は、そういう人々なのでしょう。
  • 久恒先生、皆様、昨日はありがとうございました。昨日のテーマは「公人」の中の「〜の父」と呼ばれた方々のお話でした。「父」とは、「その分野で最初にやった人」という定義でしたが、私は更に「その分野を一般人にも分かる様に形創った」方々であるようにも思いました。安藤百福柳宗悦北里柴三郎渋沢栄一岡本一平賀川豊彦などなど、今の私達の日常があるのは、こうした先人達のおかげだと改めて気付かされる事しきりでした。また、笹川良一のように、思いもよらない方面に足跡を残している「父」たちの話を聞き、人は一面だけでは語れないと改めて思いました。「父は多いが母は少ない」という現象の中には、当時の時代背景などが関わっていると考えたのですが、唯一男性で「日本民俗学の母」と言われている南方熊楠がなぜ「父」ではなかったのか、とても興味が湧きました。次回が楽しみです。

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「名言との対話」6月15日。山崎久夫「(夢は)時計王、服部金太郎

山崎久夫(1904年6月15日ー1963年4月8日)は、日本の実業家。セイコーエプソン創業者。

山梨県諏訪市出身。高等小学校卒業時には、「時計王、服部金太郎」という人生の夢を披露したというエピソードがある。

服部時計店に奉公していた久夫は、関東大震災で帰郷し、父と時計店を始める。その山崎時計店は一番の商店街に進出するまでになった。

危険分散を考えていた第二精工舎から「時計の組み立て」をやらないかと誘われる。製糸業が化学繊維によって圧倒されつつあった諏訪地方の新しい地域産業に育てようと考え、「大和工業」を設立。1946年から生産を始める。1959年、大和工業は第二精工舎諏訪工場と合併し、諏訪精工舎となり、久夫は代表取締役に就任。この会社が現在の「セイコーエプソン」である。このことによって諏訪地方に時計組み立ての産業が根付くことになる。

ねじまきの時計から、電子時計の時代を経て、久夫は世界中の技術者ができなかったクオーツ(水晶)を使った誤差のほとんどない腕時計の開発に挑戦する事を考える。全国の学生たちを熱意で口説き落とし、諏訪で開発に挑み大きな成功を果たす。

この物語は、NHKの人気番組『プロジェクトX 挑戦者たち』で「新たなる伝説、世界へ 逆転田舎工場世界を制す クオーツ・革命の腕時計」として取り上げられた。ついに山崎久夫は「時計王、服部金太郎」になるという子ども時代の夢を実現したのである。

因みに家業の山崎時計店はどうなったか。1955年に久夫の長男の壮一が東京などでの修行を終えて帰郷し、山崎屋時計店を復活させる。時計、ジュエリー、金地金、メガネ、補聴器などを扱うミスズ工業となっている。

現在では、諏訪地方は時計など精密産業の集積地として独特の存在感を放っている。それには特産の水晶(クーオーツ)を活用しようとした山崎久夫らの活躍があったことを初めて知った。時代の要請と地域の資源を組み合わせて、「時計王、服部金太郎」という自らの夢を実現する。それが新しい地域産業となっていくという素晴らしいストーリーに感動させられた。

 

 
 
 
 
 

 

 

 

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」6回目「加藤廣」をリリース。伊丹十三・宮脇俊三・鈴木大拙・永田耕衣・松本清張。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の6回目をリリース。

加藤 廣(かとう ひろし、1930年6月27日[1] - 2018年4月7日)は、日本の小説家。

youtu.be

伊丹十三(映画監督)

youtu.be宮脇俊三(鉄道紀行作家)

youtu.be鈴木大拙(仏教学者)

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松本清張(作家)。永田耕衣俳人

youtu.be人生100年時代をどう生きるか」(予告編)

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「名言との対話」6月14日。今村明恒「災害予防のこと、一日も猶予すべきにあらず」

今村 明恒(いまむら あきつね、1870年6月14日明治3年5月16日) - 1948年昭和23年)1月1日)は、日本地震学者地球科学者

鹿児島市出身。一高から帝大理科大学物理学科に入学。大学院で地震学を学び助教授。1899年、海底の地殻変動津波を引き起こすという学説を発表。1905年に50年以内に東京で大地震が発生すると警告。1923年の関東大震災が起きた。1923年に教授に就任。1929年、日本地震学会を再び創設し会長となった。1933年の三陸地震では住民の高所移転を「提案。「稲むらの火」のエピソードの小学校国定教科書に載せることに骨を折った。また、1944年の東南海地震、1946年の南海地震も予言している。

上山明博関東大震災を予知した二人の男』(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2011年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生すること、その場合には圧死者3000人、火災が発生すると死者10万人以上と警告し、震災対策をせまる記事を雑誌『太陽』に寄稿した。今村の上司の大森房吉教授は、関東大震災が起こるとすれば、相模湾震源と予知していたが、世間が動揺することを恐れ、これを浮説として否定したため、今村は「ほら吹き」と批判される。大森はノーベル賞がほぼ内定していた学者で、「地震学の父」と呼ばれていた。一方の今村は二つ年下で、無給の助教授に甘んじていた。

 大森がシドニーに滞在していた時、東京で大地震が発生する。「来た! つに来た!」と今村は快哉する。安政の大地震以来68年ぶりの大地震だ。5万2千人余が焼死した。本所横綱町の被服廠跡では、火災旋風で3万8千人が焼死している。帝大教授の寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いたのもこの時だ。

大森はシドニーから戻った死の間際に、山本権兵衛総理と帝都復興院総裁の後藤新平に提案する。復旧では再び壊滅的な損壊を被るから復興が大事だ。消防用水の確保、耐震基準の強化、道路拡幅と公園の整備、防災意識の啓蒙。後藤の復興政策は大森の献策が基礎になっていたのだ。

今村の警告が現実のものとなった後、関東大震災地震を予知した研究者として、今村は「地震の神様」と讃えられるようになった。

今村の「災害予防」はもちろんだが、「地震の少ない西洋で発達した文明を、地震が多発する日本に移入するのは土台無理があるということさ」と田中館愛橘博士が語っているのは見逃せない。原発問題についても示唆に富む予言だと思う。