「図解塾」:梅棹忠夫「文明の情報史観」の図解化にチャレンジ中ーー「放送」「消防」「都市」「教育」、、

20時から22時まで図解塾を開催。

以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日の「情報の文明学」図解のパワポ化では、「放送」や「消防」「都市」「教育」などの分野について、「情報」という視点からの 興味深い分析・見解に触れることができました。その中で、日本人はビジョンは持たないと言われるが、固定ビジョンを持たないが故に、創造も模倣もできるところがよい、といった話や、創造していく際には、目標や結果ではなくて「原型」をつくることが大切、といった話が印象に残りました。また、パワポ化した図を説明することが、言葉の関係性や納得感を考えることにつながり、理解が深まるということも実感できました。「情報の文明学」もいよいよ終盤。 久恒先生から、 次の図解塾のテーマについて、いくつかご紹介がありましたが、どのプランも大変興味深く、後の講義が楽しみです。また、「図解塾」第2期レポートも大作となって刊行される見込み。こちらも大変楽しみです。引き続きよろしくお願い致します。
  • 本日もみなさまありがとうございました。講義内容をまとめたものは、講演されるそれぞれの土地や場所について情報産業論の観点から説かれていて、いろいろなものを情報産業に結び付けて、新しい見方を教わった気がいたします。情報論語録では、放送について、電波には編集権がないとか、BGMは無意味情報だとか、研究者に発想料だとか、見えないもの流してしまっているものについて、情報の観点から論じられていて、なるほどと思わされることばかりでした。また来週も、また、今後も何をやられるのか楽しみです。図解塾の2期のレポートももうすぐできそうですね。垣内さん、鈴木さんどうもありがとうございました。完成するのが楽しみです。
  • 久恒先生、今日もありがとうございました。第2期図解塾の記録集、編集作業に入られたとのこと、超大作に感銘を受けました。第3・4期図解塾の記録集も再始動しなくては。。。「専門家とは、自分の立場からあらゆるものをみる」ということを地で行く梅棹先生の情報の文明学の図解では、さまざまな業界での講演をまとめた情報論語録のパートでした。「パーティ学、要素をひとつにまとめること、経済的秩序の殻を脱げ!」というキーワードは、ダイバシティの重要性を指摘していたのだなと本日も先見の明に触れることができました。これからの人は人生に目的(金儲け)がなく、生きている中で少しずつ未来を感じながら、未来を創っていく人なのではという考えもなるほどと思いました。原型があり、発展していく時代。ゴールを決めて始めると発展せず、うまくいかないというプロセスも、現代人の体質改善から取り組みが必要な課題ですね。次回もよろしくお願いします。
  • 久恒先生、皆様、本日もおつかれさまです。いやぁ、本日も出席敵わず、残念!いささか乱入気味ですが、本日の自分の「気づき」情報をup致します。8月2日東京新聞「洗筆」欄に出ていた「ニシェル・ニコルズ」さんをご紹介します。ご存じSFテレビドラマ「スタートレック」で通信士「ウフーラ」大尉を演じ人気を博しました。役柄は他の白人男性と「対等」を間柄で、まだ人種差別が激しかった当時(1966-1969年)としては画期的な「時代を変える」役柄。ウフーラ大尉に憧れ、毎週の放映を楽しみにしていた黒人の男の子と女の子が居たそう。二人は後年、自身も時代をリードする大人物に成長。男の子の名はバラクオバマ(第44代合衆国大統領、アフリカ系アメリカ人初)、女の子の名はメイ・ジェミソン(1992年9月スペースシャトルエンデバーで初めて宇宙飛行を行ったアフリカ系アメリカ人女性)。同じ肌の色も持つスターに憧れ自分への励みとし、いつしか自らが憧れられる存在に成長していくという「倖せのリレー」の様子や、時には差別も受けていた「悩めるスター」を陰で励まし続けたといわれるキング牧師の存在という「支え合う」人々の姿勢は、今の世においても忘れてはならない大切な事と感じた次第です。去る7月30日に老衰の為89歳の生涯を閉じたニシェル・ニコルズさんは、役名を自ら名付けたそう。その名は「ウフーラ」スワヒリ語で「自由」を意味するそうです。有難うございました。次回も宜しくお願い致します。
  • すみませんが、8月3日(水)の図解塾は欠席させていただきます。宿題だった34番をGoogle Driveにアップロードしましたが、ここにも一応jpeg形式でアップしておきます。

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「名言との対話」8月3日。岩崎小彌太「資本家は利潤追求を目的とするが、経営者は利潤追求を越えた目標を持つべきである、それは国家への奉仕と、国利民福の実現と、一人一人の社員の人間としての完成である」

 岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。

 「三菱」の創業者・岩崎彌太郎1834年生まれ)は、海運から始めて鉱業、造船業、保険、為替など事業の「多角化」を図った。

二代目の弟・彌之助(1851年生まれ)は海から陸へと事業「領域を広げ」、丸の内・神田に10万坪の土地を買った。

その後、彌太郎の息子の久彌を経て、彌之助の息子・岩崎小彌太は30年の長きに亘り社長業を続け、部門毎の「分社化」に取り組み重工(造船)、商事、銀行、地所と優れた企業をつくっていった。巨大な三菱財閥は小弥太の時代に完成したのである。

 第一高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学に入学した小彌太は在籍一年でイギリスに留学する。小弥太はケンブリッジのカレッジを優等で卒業している。当時の優等生は菊池大麓(東大総長、文部大臣)のみだった。漱石も同時代の官費留学生だった。

小彌太は「小生帰国の上は、官庁の 制 肘 を受けない学校を起し、理想的教育に専念してみたい」と思っていたが、帰国後、すぐに副社長に任ぜられ、そして弱冠30歳で社長に就任する。辛抱し、「五五歳になったなら三菱をやめて社会事業に乗り出し、新聞を経営したい」、「不偏不党、社会の 木鐸 となり得る新聞」、を作りたいと考えていた。しかし、そうはならなかった。不本意ながらも三菱の総帥の任に応じ、全力疾走して、67歳で生涯を終えたのである。

武田晴人『岩崎小彌太』(PHP新書)から小弥太の事業経営に関する言葉を拾ってみよう。

商業活動については、「生産者と消費者との中間に立って、最も便利に 且つ最も廉価に物品の分配を司る」、「我々は大いに競争す可きである。然し私は我々の競争をして量の競争たらしめず寧ろ質の競争たらしめたい」と意義を強調している。

三菱のDNAともいえる三菱グループの経営理念、いわゆる「三綱領」を定めた。「所期奉公」は社会貢献、「処事光明」はフェアプレイ、「立業貿易」は海外貿易を意味している。「自分は国家社会のために仕事を行う考えである。三菱とか岩崎家の利害などは第二、第三の問題」としていた。私益でもなく、国益でもなく、国民の福利の増進を事業目的としたのである。

「事業経営は国民生活の必要と産業自体のモラルの向上に目的を置くべきで、利害を主とし営利を第一義としてはならない」とし、「実業界の人々は、其の品性に於て其の操行に於て、共に国民の模範にならなければならない」、そして「政治に 干与 し政党に接近するが如きは実業人の使命の逸脱」と戒めている。

  二代目岩崎彌之助は、中国陶磁も含めた東洋美術の一大コレクションを夢見ていた。絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣などを蒐集した。それを引き継いだ小彌太は、800を超える中国陶磁を学術的観点から系統的に蒐集している。その蓄積が 現在の静嘉堂文庫美術館に結実している。

「利潤を越えた目標」には、文化興隆のための美術館建設も入っていたのであろう。その考え方の伝統は、2010年に開館した三菱一号館美術の存在にも引き継がれている。

 

 

 

 

 

 

 

「遅咲き偉人伝」第13回目、小説家の「新田次郎」をリリース。ー「春風や 次郎の夢の まだ続く」

「遅咲き偉人伝」第13回目は小説家の新田次郎

https://www.youtube.com/watch?v=TSIJfjO95ts

  • 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家。
  • 気象庁の役人。測器課長(51歳)として富士山頂の測候所を完成。
  • 二足のわらじ。役人作家。
  • 退職(54歳)小説家として一本立ち。「強力伝」「八甲田山死の彷徨「武田信玄」。

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39度の猛暑。「図解塾」の準備。

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「名言との対話」8月2日。速水御舟「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年明治27年)8月2日 - 1935年昭和10年)3月20日)は、大正昭和初期の日本画家である。本名は蒔田栄一。

東京浅草出身。1908年に優れた教育者でもあった画家・松本楓湖主宰の安雅堂が塾に入門。同門の兄弟子・今村紫紅と行動をともにする。禾湖浩然の号を経て、1914年に速水御舟を名乗る。御舟とは貴人の乗る舟の意味である。1917年、第4回院展に出品した『洛外六題』が激賞され、日本美術院同人に推挙された。

1925年、軽井沢に3か月籠って代表作『炎舞』を完成させる。

1930年、大倉喜七郎後援の「ローマ日本美術展覧会」参加のため横山大観らと渡欧し、『名樹散椿』を出品。イタリア、ドイツ政府から勲章を受章した。

速水御舟今村紫紅の新南画、装飾的な琳派、写実技法の西洋画と、常に新しい日本画を模索し続け、将来を期待された。

代表作の一つ『炎舞』は、深い黒の闇の中で真赤に燃える炎の周りを蛾たちが舞う姿を描いたもので、幻想的であるが、迫真の写実作品である。この作品は山種美術館に収蔵されている。山種美術館には速水御舟の絵が100点以上収蔵されているのだが、もともとは安宅産業の安宅英一が集めたコレクションの一部である。有名な安宅コレクションは、中国陶磁、韓国陶磁、速水御舟の3本柱でできていた。そのほとんどは大阪市立東洋陶磁美術館の核となっている。その一部を山種美術館が一括購入したのである。

渋谷区広尾のこの美術館はよく訪れるが、速水御舟川合玉堂奥村土牛のコレクションが中心である。

御舟は惜しいことに40歳の若さで亡くなっており、寡作でもあったために、生涯で600点ほどの作品しか残っていない。原山渓がスポンサーになり、そして武智鉄二が集めた御舟の作品が安宅コレクションに結実したのである。

婦人画報』2019年7月号では、御舟と市川雷蔵に関するコラボ企画が載っている。その記事の中で、「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という御舟の言葉をみつけた。ある分野の頂点を極めようとするには努力だけでなく凛凛たる勇気が必要だ。そこから見える景色をわがものにしたら、そこから降りて、再びさらに進化した分野の頂点に向かって勇気をふりしぼって登っていこうとする御舟の心意気を感じることができる名言である。

中国の南宗画由来の文人画とも呼ばれる南画、装飾性が豊かで大胆なデザイン性を持つ琳派、そして徹底した写実を重視する西洋画と何度も梯子を登り、登り返した速水御舟の画家としてのキャリアがみえる。この画家に長い時間があったなら、日本画の世界も大きく変わったかもしれない。改めて山種美術館で御舟をしのびながら『炎舞』をみてみたい。

 

 

ZOOMミーティング4件。

姿池。

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今日のZOOMミーティング

・近藤秘書とのミーティング1時間:「名言の暦」は今週完成。「全集」第6巻に着手。ブログ本「2021年」はその次に。

・デメケンミーティング30分

・力丸さんとのミーティング30分

・深呼吸学部事務局ミーティング30分:8月の修学旅行の日程確認。

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ユーチューブ「遅咲き人伝」のブラッシュアップ。修正版が出来次第アップ。

メルマガの発行。

知研関係。

出版の予定を整理。

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「名言との対話」8月1日。木下杢太郎「科学も芸術も其の結果は世界的のものであり、人道的なものである」

木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年明治18年)8月1日 - 1945年昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、詩人、戯曲、小説、翻訳随筆、評論、俳句、短歌、絵画をよくした医学者

木下杢太郎という名前は、文壇史の中にかすかに記憶がある。俳人で、医者という程度しか頭になかった。2010年に伊豆の伊東で木下杢太郎の記念館を訪問し、この人物の多才さに驚いた。
1913年に始めた呉服雑貨の店で、100年の歳月を紡いできたしっかりした建物である。裏には杢太郎が生まれた部屋が保存された170年前の建物の一部も付いている。「米惣」という家業は繁盛していたが、当時はこの伊東の地は、陸路、海路とも東京まで丸一日かかった。

木下杢太郎、本名・太田正雄は、8人兄弟の8番目の末っ子である。姉のきんとたけは東京に遊学し、きんは大隈重信邸に寄宿し、たけは萩の舎で樋口一葉と一緒に学んでいる。また、すぐ上の兄・円三は、後藤新平が総裁をつとめた帝都復興院の土木局長で、「隅田川を橋の博物館にする」という後藤の構想を実現した人物である。永代橋などの設計者である。後に事件に巻き込まれて自殺する。帝都復興の人柱になった人物である。またその上の兄・賢次郎は、政治の道に入り伊東市長として活躍している。

杢太郎は一高から東大医学部に進み、41才から東北大教授、52才から東大教授、そして60才で死去、という経歴も堂々たるものだが、彼には多くの分野への興味と、それぞれ一級のあふれる才能があり、そのことが逆に終生にわたって杢太郎の煩悶の種であった。

21歳の時の日記には「われかつて医師と画工との間にまよい、ついで医師と文学者との間に迷いき。而して昨夏来また画工と文学者との間に迷う」とあるように、どの分野にも一流の才能を持っていた。

家族の圧力で本業として渋々選んだ医学の道では、皮膚科の権威となり、水虫をもたらす白癬菌の発見者であり、太田ぼはんの発見者、そしてライ病の研究者でもあった。学問的研究者としては一流の業績を挙げている。真菌学の祖といわれている。

この杢太郎という筆名は、家族の監視から逃れるためにつけた名前であった。樹下に瞑想或は感嘆する農夫の子、という意味である。文才については、戯曲、小説、随筆、評論、翻訳と何でもござれだった。「日本遣欧使者日記」やルイスフロイスの「日本書簡」などの翻訳、美術を扱った「大同石仏寺」、そして歌集「食後の唄」など実に豊かな才能を感じる。同世代の斎藤茂吉は杢太郎と白秋に影響を受けたと語っている。「唐草表紙」には、漱石と鴎外の二人の巨匠の序文が載っている。鴎外は「官能的働きが極めて鋭く、且つ豊かで、、、作者は一段と高いところにある」といい、漱石は「豊かな情緒を濃やかにしかも霧か霞のように、ぼうと写し出す御手際です」と書いている。ブルーノ・タウト「は真面目ですぐれた理解力をもっており、日本で最も立派な人物の一人だ。親切で典雅でしかも多力である」と讃えている。

1907年の新詩社の鉄幹、白秋、吉井勇、などと回った九州旅行、高村光太郎などと開催したパンの会、ライバルで親友でもあった啄木との交流、漱石の教えを受け、そして鴎外を生涯の師として尊敬する。パンの会は、江戸情調的異国情調的憧憬の産物であつた。パンとはギリシャ神話の牧羊神、半獣半神。上半身が人間で、下半身が獣。木村荘八の絵が有名だ。杢太郎の「パンの会の回想」によれば、佐々木博士、吉井、北原、與謝野、伊藤、古泉、斎藤、平野、上田、藤島、鈴木氏、高村、石井、小山内、北原、長田、柳、吉井、猿之助、南、高村、永井、山崎、谷崎、武者小路、小宮、島村、柏亭、青山、一平、内田魯庵、など同時代の俊秀の名前がみえる。

画才を活かした装丁も得意で、白秋、谷崎、小宮豊隆斎藤茂吉などの本の装丁も頼まれている。「百花譜」として872枚にわたって医学用便せんに描き続けた花の絵も素晴らしい。子供の頃からの夢であった画家になっていたら名作を数多く残したであろう。

医者で文学者ということから、森鴎外に親しみを感じていた。杢太郎は鷗外の文業を「テーベス百門の大都」と形容した。ルクソール神殿や死者の谷があるエジプトの古都テーベのこと。森博士邸の観潮楼歌会にもパンの会のメンバーと参加している。

杢太郎は「科学も芸術も其の結果は世界的なものであり、人道的なものである」という。彼にとっては、熱中したすべて分野はつながっていて、世界を知り、世界を変える人道的な活動だったのだろう。この木下杢太郎という興味深い人物を観察すると、興味が広くかつそれに応えるように才能が溢れていると、迷いが多くなると同時にいずれにも没頭できずにいるという不幸も背負ってしまうと感じてしまう。全て一流であった。しかし歴史に名が残るのは一流の中の一流、つまり超一流の人の仕事である。多芸多才の人は歴史に名前が残りにくい。代表作というものの存在が大事なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世田谷文学館「山下和美展」「セタブン大コレクション展Ⅱ」。「遅咲き偉人伝」の収録「公文公」「山口洋子」。

猛暑の中、思い立って世田谷文学館を訪問。

漫画家・山下和美展。父をモデルにした「天才 柳沢教授の生活」を手入れたかったが、売っていなかったのは残念。

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「セタブン大コレクション展Ⅱ」は、世田谷文学館(セタブン)所蔵のコレクション展だ。Ⅰ期・Ⅱ期とあわせた図録を購入。

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ユーチューブ「遅咲き人伝」は。公文公山口洋子

公文公(1914-1995年)は高知の土佐中学、高知高校を経て、大阪帝国大学理学部数学科の第1期生となった。卒業後、郷里高知の高校の数学の教師となる息子の毅に夕食前に自分でつくった数学の教材を小学2年生から解かせ、帰宅後採点し、翌日の問題をつ来るという作業を毎日実行する。6年生では高校の微分積分を終了してしまう。この教材を近所に分けたのが、公文式の始まりだ。創業は1958年で、44歳の時である。55歳まで33年間の教師生活を送るのだが、1952年には禎子夫人の実家のある大阪の高校に移る。公文式教育研究所となった。

「十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人」とは人口に膾炙した言葉だが、それは教育の失敗だと公文は言う。その原因は、教材の問題であり、指導法の間違いであり、指導者の責任である。子供自身の能力のせいにせずに、方法論に徹底的に着目したところが、公文式が教育界を席巻したポイントだろう。

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山口 洋子(やまぐち ようこ、1937年5月10日 - 2014年9月6日)は、日本著作家作詞家。高校を1年で中退。16歳で競輪にはまり込む。名古屋でクラブを任された。1957年東映ニューフェイス4期生となる。2年で女優をあきらめ、19歳で東京・銀座でクラブ「姫」を開店。各界著名人を顧客として抱え、経営に手腕を発揮し、「姫」は伝説のクラブになった。マダムはバンドマスターのようなもので、統率のために人を眺めつづけた。究極の人間のふれあいの場所を体当たりで生きていく。それが作詞と小説の材料になったと「NHK人物録」で語っている。

1968年頃から作詞活動を開始する。「噂の女」「よこはま・たそがれ」「ふるさと」「夜空」「うそ」「千曲川」「夢よもういちど」「雨の東京」「ブランデーグラス」「北の旅人」「アメリカ橋」などの多数のヒット作があり、特に1960年代後半から1970年代前半にかけて目覚ましい活躍をした。1973年、「夜空」でレコード大賞を受賞。作曲家平尾昌晃とのコンビはこの時代を代表するゴールデンコンビとして知られている。

1980年代、42歳からは近藤啓太郎にすすめられ、小説の創作活動も始め、1985年には『演歌の虫』、『老梅』で48歳で直木賞を受賞した。 出版点数は100冊をゆうに超える。日本音楽作家協会会長にも就任している。作詞家としてレコード大賞、小説家として直木賞、という快挙は、阿久悠でさえ叶わなかった勲章だ。

2000年刊行の63歳で書いた『生きててよかった 愛、孤独、不信、絶望の果てに』という自伝を読んだ。人生の機微を書いた自伝エッセイである。坂本冬美の本名デビュー、五木ひろしと中条きよしの命名者で、山口洋子は本名である。酒場を切り盛りし、演歌の詩を書き、人を小説で描く、そういう山口洋子は男と女の生態をみる眼が鋭い。

クラブの経営者、作詞家、小説家と年齢を重ねるごとに、咲いた花が大輪になっていく人生であった。

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「名言との対話」7月31日。柳田国男「お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」。

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年明治8年)7月31日 - 1962年昭和37年)8月8日)は、日本民俗学者。

柳田国男は、東大法科を出て農商務省農務局に入り、全国の農山村を歩く。1923年の関東大震災を契機に本筋の学問のために起つ決意をし、貴族院書記官長を44歳で辞任した。そして1945年の敗戦にあたって、固有信仰を明らかにすることによって、日本人の文化的アイデンティティの拠り所を再確認しようとする。柳田は民間伝承の学問を「一国民俗学」と呼び、「自らを知る」学問と規定した。

還暦を迎えた柳田国男は、「還暦祝賀会は呑気な江戸の町人隠居のやること」であり、お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」と弟子たちにはっぱをかけている。柳田は立ち止まることを潔しよしとはしない。日本民俗学の組織化と体系化を独学と独力で行い「柳田学」を確立した。1951年に文化勲章を受章している

柳田の著作は膨大だが、もっとも有名なのは『遠野物語』だろう。「100分で名著ブックス」の石井正己『柳田国男 遠野物語』を読んだ。

神隠しに遭いやすい気質であると自身も認めている33歳の柳田は遠野出身の22歳の佐々木喜善と出会い、遠野に口承で伝えられている数々の物語を聴く。遠野は典型的な「小盆地」で、縄文から近現代までの時間が凝縮されていた。佐々木の語りの中では、山の神、里の神、家の神、天狗、山男、山女、河童、幽霊、まぼろし、狼、熊、狐、鳥などが頻繁に登場する。

柳田は翌日から聞き書きをもとにまとめはじめた。『遠野物語』では「其日は風の烈しく吹く日なりき」などと、伝文体の「けり」ではなく、「き」を使っている。本当に見てきたことなのだと読者に思わせる文体であり、読者を物語の中にいざなう力があった。
遠野物語』初版は350部限定の自費出版だった。友人の島崎藤村田山花袋 は、旅人の趣味的な著作にすぎないと批判したが、芥川龍之介泉鏡花は高く評価している。
柳田国男の影響受けた梅棹忠夫は、還暦記念として比較文明学シンポジウム「文明学の構築のために」を開き、「生態系から文明系へ」という基調講演を行っている。

「人物記念館の旅」や「名言の対話」を続けてきて、梅棹忠夫大山康晴など偉大な業績を残した先達たちの共通項は、お祝い、褒賞などに惑わされずに、機会を捉えて自らのテーマに邁進していることだと思う。還暦にあたって、弟子たちの申し出に「お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」と答えた柳田国男の姿勢と心意気を継承していきたい。

 

 

ブログ。テレビ体操。ヨガ。散歩。BSで大谷。ユーチューブ。kindleで読書。オーディブル。ZOOM。

土曜日。今日は休養日となった。

  • 5時からブログ。昨日の神保町ツアーと「名言の暦」では重光葵を書く。
  • 6時25分:テレビ体操を10分間。
  • 6時40分:日枝神社まで夫婦で散歩というルーティン。「幸え給え」。
  • 9時からはヨガ教室で1時間、体を整える。男性ばかり5人で、女性の先生から指導を受ける。週1回のこの教室に通うと、疲れがとれ、体が引き締まり、体調がよくなる感覚がある。このヨガも随分と長くなった。
  • 10時半:BSでメジャーの大谷翔平の試合をみながら休養。
  • 昼食後、横になりながら、ユーチューブを聞く。
  • 15時半:暑い中、星野珈琲まで歩く。いつもの席でkindleで「天風」の読書。
  • 18時:風呂。オーディブル大倉喜八郎『致富の鍵』を聴く。
  • 19時半:夕食
  • 21時頃から、久しぶりにZOOMで深呼吸学部を覗き、橘川さんの新構想を聞く。

今日は7000歩だった。

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名言との対話」7月30日。中村天風「どういう風に毎日、一日の人生を生きることが、一番我意を得たものになるかという、その考え方が、人生観なんです」

 中村 天風1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家実業家

日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。「天風」という号は天風が最も得意とした随変流抜刀術の「天風」(あまつかぜ)という型からとられたものだ。

福岡県柳川市の出身。福岡の修猷館中学で学ぶが、熊本済済高学生を正当防衛で刺殺し退学。その後、玄洋社頭山満に預けられ、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた。

日露戦争に備えて潜入した満州では「人斬り天風」と呼ばれる。肺結核で帰国し、北里柴三郎の治療を受ける。親交のあった孫文の親類になりすまして肺結核患者には渡航許可の下りなかったアメリカへ33歳で密航し、コロンビア大学で学ぶ。

帰国途上のエジプトでインドのヨガの聖人・カリアッパ師と邂逅、そのまま弟子入りしヒマラヤで2年半修行する。インドから日本へ向かう途中で孫文の第二次辛亥革命に巻き込まれ中華民国最高顧問に就任。

帰国後は銀行頭取などを歴任するが、43歳のある日、感じることがあり一切の身分、財産を処分し、「心身統一法」を説き始め、「天風塾」を主宰した。多くの信奉者を得ている。東郷平八郎松下幸之助、そして野球の広岡や王貞治も、心身統一法の弟子たちである。メジャーで活躍中の大谷翔平も天風の『運命を拓く』の影響を受けている。

以下、「天風語録」から。

  • 人々の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うようにしよう。
  • いかなることがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行うまい。そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。
  • 俺は体が弱いと思ってりゃ体が弱くなる。俺は長生きできないと思っていりゃ長生きできない。俺は一生不運だと思っていりゃ不運になる。つまりあなた方が考えているとおりにあなた方にあなた方がしているんです。
  • 人生も国家の命運も、最終的には個人の根底に流れる精神力による決断力と行動力に委ねられる。
  • 陽気の発する処、金石また透る
  • 「肛門を締める」につれて両肩の力を抜き、静かに息を吐く動作から始まる。
  • ザックリと人生を捉えよ
  • 一芸とは一つの芸事のみを指すのではなく、それに打ち込むことで、「心の修行」に励み、悟りの境地に到達するという意味なのだ。

財団法人天風会『中村天風 一日一話』(PHP)をあらためて読んでみた。以下、抜粋。

  • 人生は笑いで過ごすことです。
  • まず第一に、毎朝目覚めたら「今日もまた活きていたことを心から感謝する」ということを、今日一日の生命への出発の第一歩とする
  • まず第一に「自分が何者か」ということがわからなければだめなんだ。
  • 六十、七十歳になろうと、自分が十七、八歳時代と考えてみて、違っているのは絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さない。
  • 「まいった」「へこたれた」「助けてくれ」「困っちゃった」なんてことは言わないこと。 あくまでも自分の心というものを 颯爽、 溌剌 たる状態にしておくためには、今言ったような消極的な否定的な言葉はだんぜん用いない。
  • どんな場合があっても不平不満を口にしない
  • 朝起きると、まず、第一に、ニッコリと。
  • 「ふたたびは 来らんものを 今日の日は  ただほがらかに 活きてぞ」
  • 「貴さに慣れて小成に安んずる」
  • 運命には二種類ある。天命と宿命である。天命は絶対で、宿命は相対的である。どうにも仕様のない運命を天命といい、人間の力で打ち開くことのできるものを宿命という。
  • 「自己を作るものは自己」
  • 人生を、あまりむずかしく考えない
  • ものを言うときも、 溌剌 とした気分で、丹田の力で、できるだけ勢いのある音声を発するようにし、立ちふるまいも活発にすること
  • 他人と相対する時、常に元気に満ちた態度を保持し、できるだけ積極的な言語を用いて会話することが必要。
  • 「不断」という文字は、日常のことを「ふだん」というのと同意義。
  • 不運だと思えば不運に。
  • 他人の喜ぶような言葉や行いを、人生の楽しみとするという尊い気分になって生きてごらん
  • 本当の幸福というのは、人生がより良く生きられる状態に自分ですること。
  •  「病は怖ろしきものならず、これを怖れる心こそ怖ろしい」
  • つねに、真(誠)善(愛)美(和)を本位とする思考を以って、自己の精神生命の現実の姿とすることに努めること。
  • 自分の人生を軽く見る人に限って、自分の年齢というものをやたらと重大に考える。
  • 要はただ一心不乱に、いったん実践に志したならば、何かの効果事実を把握するまでは、絶対に中止しないと、堅く自己自身の心に誓うべき。

人生観というと大げさになってしまう。1年365日として100年生きたとしても3万6千5百日。この有限の生涯の貴重な今日一日をいかに過ごすべきか。こういう問いを発し、その答えを実践していくことが大事だと天風先生は教えてくれる。積極的、楽観的な精神と、その精神で自らの肉体を支配しようという考え方である。波瀾万丈の人生を生きた天風の言葉は心に沁みるものがある。心身統一法を実践した天風自身は92歳の長寿であった。

 

 

橘川幸夫さんらと神保町ツアー

午後は神保町ツアー。橘川さんたちと伝説の「さぼうる」の前で待ち合わせ。

深呼吸学部の1期・2期生と新たに開講した3期の受講生、そして多摩大の現役生も二人参加。「ジミー」の青海エイミーさんも。

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共同書店「PASSAGE」。鹿島茂がプロデュースした、書評アーカイブサイト「ALL REVIEWS」が運営する話題の「書店」。著書、批評家、出版社などが、コーナーを持ち、自著や紹介したい本などを展示し販売するという仕掛け。

コーナーは月間6000円から7000円程度の賃料で借りる。鹿島茂内田樹井上ひさし、などのコーナーがある。レジはAII REVIEWの会員が担当している。スマホとカードのみで現金は使えない。

この棚を確保したいが、条件のいい場所は空いていなかった。

 

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神保町周遊。

 

東京古書会館の地下のイベントスペースで開催中の我楽多市。

ここは金曜・土曜に開いている。

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『沖縄学の父 伊波普猶』。神谷美恵子『若き日の日記」。『文芸春秋 現地報告』(昭和14年)。内田魯庵『書斎文化』。井伏鱒二『文士の風貌』。林望『書斎の造りかた』。以上を購入、2400円也。

多摩大グループ。橘川客員教授とその授業を受講中の4年生。

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20時からの亀田さんの食のセミナーを聴く。レベルが高い。

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「名言との対話」7月29日。重光葵願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」

重光 葵(しげみつ まもる、1887年明治20年7月29日 - 1957年昭和32年1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本外交官政治家である。
大分県安岐町出身。第五高等学校から東京帝大法学部を卒業し、外交官となる。1929年上海領事。1931年駐華公使満州事変)。1932年、上海で行われた天長節天皇誕生日)の祝賀式で「式台に並んだ重光葵公使らが"君が代"の斉唱中、爆弾が投げられた。爆発で下半身を強打され、重光は倒れた。右脚がちぎれるように痛い」(豊田穣「孤高の外相 重光葵」)。傷口は大小160幾つあり、非常な精神力で何とか乗り切るが、最終的に片足を切断することになる。片足を失いながらも、翌年外交官として復帰する。1933年外務次官(46歳・広田外相)。1936年駐ソ大使。1939年駐英大使(日独伊三国同盟の危険性を主張)。1941年駐華大使。1943年外務大臣(東条内閣・小磯内閣。終戦木戸幸一内大臣と話し合う)。1945年外務大臣(東久邇内閣。日本全権としてミズリー号上で降伏調印)。戦犯になる。1952年改進党総裁。1954年日本民主党副総裁、鳩山内閣副総理・外務大臣。1956年日ソ交渉(不調)、国連加盟総会演説(「日本は東西の架け橋になる」)。1957年死去。

2006年、私はハワイの「戦艦ミズーリ博物館」を訪問した。ミズーリは米国最後の戦艦で、第二次大戦中は太平洋を中心に活動し、硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行った戦艦だ。この戦艦は昭和20年8月29日、東京湾で降伏文書調印式が行われたことで有名だ。マッカーサー元帥率いる連合国に対し、日本側は重光葵全権率いる日本政府の代表団との間での調印式である。ハワイのミズーリ号での降伏文書では、政府代表重光葵と日本皇軍代表梅津美治郎代表のサインを見ることができた。当時、重光は外相、中津出身の梅津は参謀総長だった。この二人とも大分県人である。米戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した重光は、大分県の誇りになっている。

マッカーサーのサインの後には、米国、中国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表のサインがみえる。2番目は中国だった。あの戦争は太平洋戦争でもあったが、大東亜戦争でもあったのだ。真珠湾攻撃より10年前の1931年には満州事変が起こっていた。日本は中国にも負けたのだ。

2005年には安岐町にある山渓偉人館でその生涯を追うことができた。

2013年、湯河原の別邸が記念館になっていて訪問した。「志四海」(向陽)という額が飾ってあった。四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。重光はこの言葉を外交方針としていたのである。 

今回読んだ重光葵『外交回想録』の「序にかえて」の次に「父と母」という文章がある。重光は極貧の中で育ててくれた父母への感謝をつづっている。父は大分県の三浦梅園『贅語』と帆足万里を好んだ漢学の徒であったが、「大いに英語を勉強するがよろしい」と言い聞かせていた。母は子どもの教育を片時も忘れる人ではなかった。「御用とあらば会わなくても心残りはない」が母の最期の言葉だった。重光は中国への赴任時に、「汝らの芝居は世界が舞台ぞと 老いたる父も笑みて送りぬ」という歌を詠んでいる。そのとおり、厳格な父と慈悲深い母の死に目には会えなかった。外交官の宿命である。

戦艦ミズーリ号上での屈辱的な歴史的役割を果たした重光葵は「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」と詠んでいる。私は三渓偉人館、湯河原の別荘の記念館、ハワイのミズーリ号記念館、そしていくつかの伝記を読んできて、重光葵の志の高さとそれを実現しようとした生涯の軌跡に感動を覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳で聴く半藤一利の遺言:『人間であることをやめるな』『漱石と司馬遼太郎の日本』『戦争というもの』(オーディブル)。

ここ数日、オーディブル半藤一利の著書を聞いた。

『人間であることをやめるな』『漱石司馬遼太郎の日本』『戦争というもの』を聴いた。本職の方の読み上げである。歴史探偵・半藤一利の遺言である。

2014年にオーディオブックの半藤一利『昭和史』(1926-1945年)と『昭和史』(1945-1989年)全68巻を全編聴いた。約2カ月間、徒歩通勤の途上。著者の半藤さんが語るのを聴くというスタイル。勉強と健康の一石二鳥である。一つ30分としても34時間以上の時間がかかっている。実に充実した時間だった。

 

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進行中の出版プロジェクトのZOOMでの打ち合わせ。

  • 「名言の暦」(大正から昭和へ。 誕生日編)。2021年。執筆量が多く2分冊に。
  • 「図解塾第2期 レポート」(久恒啓一&図解アルチザン)

東京都立大学の国際館のレストランで妻の誕生会の食事。

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「名言との対話」7月28日。大原孫三郎「仕事は三割の賛同者があれば着手すべきだ。5割も賛成者があればもう手遅れだよ」

 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は日本実業家倉敷紡績クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。

2014年に倉敷の美観地区を訪ねた。倉敷は河岸に倉庫が立ち並ぶ町で、蔵屋敷、蔵敷地などと呼ばれていた。それが蔵敷となり、いつの間にか「倉敷」となった。徳川時代は幕府直轄の天領であり、代官所跡に倉敷紡績ができた。それが近代の発展の原動力になった。「倉紡記念館」は1967年に創業記念事業でつくられた倉敷紡績の歴史記念館である。

大原美術館は、エルグレコの受胎告知、モネ、ピカソロダンなどの傑作が並ぶ素晴らしい美術館である。一歳年下の親友・児島虎次郎が欧州で買った大量の絵が基礎になっている。

30歳で二代目社長となった大原孫三郎は、社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。
  大原孫三郎は「従業員の幸福なくして事業の繫栄はない」という労働理想主義を掲げ、敷地内に小学校や工手学校などの学校をつくるなどユニークな労務管理を行い、飛躍していく。人道主義、人格主義、キリスト教社会主義社会改良主義と、その思想は移行していく。高い業績をあげた大原社会問題研究所は現在は法政大学に移って存続している。倉敷労働科学研究所は、(財)労働科学研究所となっている。
大原孫三郎は、1万人の従業員のために倉敷中央病院、倉敷高松病院倉敷販売利用組合、若竹の園などもつくった。最盛期には1200人を擁した岡山孤児院をつくった石井十次(1865年生)と親交を持った。倉敷中央病院は、治療本位の設計、明るい病院、東洋一の病院という考え方で造られ、開所式には後藤新平が来て祝辞を述べている。

1932年にリットン調査団の一部が大原美術館をみて驚き、二次大戦で空襲から免れた。また若き孫三郎は倉敷の陸軍の連隊の配置に反対し計画を流したため、空襲を避けることができた。二重の意味で、倉敷の恩人である。

城山三郎『わしの眼は十年先が見える』(新潮文庫)を読んだ。孫三郎の語録を拾ってみよう。

「わしの一生は、失敗の連続だった」「わしの一生は、反抗の生涯だった」「学校の先生に 褒められるような 奴 に、ろくなのは居「すべてが建設でなくてはならぬ、創作でなくてはならぬ」「下駄 と 靴 を片足ずつ履いていた」

「わしのいちばんの傑作は總一郎じゃ」とする長男の總一郎が晩年の父孫三郎からよく聞かされたのは、 「十人の人間の 中、五人が賛成するようなことは、たいてい手おくれだ。七、八人がいいと言ったら、もうやめた方がいい。二、三人ぐらいがいいという間に、仕事はやるべきもの」という言葉だった。

「わしの眼は十年先が見える」と言った孫三郎は、十年先どころか、百年先のフィランソロピーの登場を見ていたのではないかと生涯を眺めると思えてくる。仲間の半分が賛成するような施策はすでに手遅れであろう。未来へ向けての決断がテーマである経営は、多数決で行っては断じてならない。