出口治明『復活への底力』(講談社現代新書)ーー脳出血の重傷から、立命館アジア太平洋大学学長への復帰の物語。

出口治明『復活への底力』(講談社現代新書)をオーディブルで読了。

出口治明は20歳から100歳までの80年間が大人として生きる期間と考えている。そうすると60歳が折り返し地点となる。大手生保の部長であったが、還暦の60歳でライフネット生命を起業し10年かけて成功に導いた。この間、多くの本も書きファンも多く獲得している。70歳からは大分県別府市立命館アジア太平洋大学の学長に就任し大活躍を始める。

それから2年ほどたった2021年1月に脳出血で倒れる。「学長に復帰する、講演や執筆を行う、単身生活をする」という決意のもと、リハビリに励み、2022年1月からは東京の自宅から都内にある大学の事務所で学長業務に復帰する。2022年4月、別府での学長生活を始め、入学式で挨拶をしている。

この間の、右半身のマヒ、言語障害で話ができない状況を、医師や看護師、作業療法士言語療法士などの医療関係者の支援を受けて、当初の目標を達成するまでの記録である。運命を受け入れ、楽観的に一つ一つの課題を果敢にこなしていく。その間の自分の客観的な観察と知識の獲得と、そして復帰へ向けての克明な記録である。

「還暦からの底力」の威力をみた思いがする、それを出口は医療従事者や編集者の力を借りながら『復活への底力』という本にまとめた。発症、転院、リハビリ、言語をとり戻す訓練、自宅への帰還、学長職への復帰の過程がくまなくわかる。そして今後は、当初の目標に加えて、車いす生活を送るようになった経験から、あらゆる人が生きやすい社会をつくるために、貢献しようとしている。

私は今まで、出口治明の『知的生産術』や『還暦からの底力』を読み、講演録を耳で聴いたりしてきた。そして1万冊に及ぶ読書歴が支える歴史への深い知見と1000都市への訪問という行動力にも感銘を受けてきた。

私が2021年7月に刊行した『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)では、当初出口治明さんに推薦文をもらおうという編集者の意向だったが、諦めた経緯もある。

出口治明さんの人生に取り組む姿勢は大病の後も変わっていない。今後同じような経験をするであろう多くの人々に、大いなる勇気を与える本となっている。新しい世界での体験と新たな知見で貴重な情報を発信してくれることだろう。刮目したい。

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・今週の「幸福塾」の準備。

・参加型社会学会のブレーンミーティング

・力丸さんとの定期ミーティング

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「名言との対話」11月28日。寺田寅彦興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである」

寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年明治11年)11月28日 - 1935年昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者随筆家俳人

高知県出身。東京帝大物理学科を出て東京帝大教授になる。物理学者でもあったが、熊本の五高時代から夏目漱石門下でもあり随筆家、俳人としても著名な人物である。

寺田寅彦は、1923年の関東大震災以後は、東大の地震研究所に移って地震の研究に没頭した。寺田もまた関東大震災によってその後の生き方に影響を受けた一人だった。寺田の名言「天災を忘れた頃にやってくる」は人口に膾炙している。

師匠の漱石につかえる寺田寅彦、寅彦の弟子として大成した中谷宇吉郎も、師匠に刺激を受けたくちだ。中谷宇吉郎東大で22歳ほど年上の寺田寅彦に師事し、23歳で理論物理学から実験物理学に進路を変更する。二人の関係は、夏目漱石寺田寅彦との関係に似ている。「科学で大切なことは役に立つことだ」と寺田寅彦の教えにしたがって、問題解決型の研究に従事した一生を送っている。また独特のふちの厚いメガネがトレードマークでテレビでもユーモアあふれる語り口で親しまれた竹内均(東大教授)は、あこがれ寺田寅彦孫弟子を自認していた。師弟関係の連鎖はずっと続いているのだ。

2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。1.野口英世 2.湯川秀樹 3.平賀源内 4.杉田玄白 5.北里柴三郎6.中谷宇吉郎 7.華岡青洲 8.南方熊楠 9.江崎レオナ10.利根川進 11.鈴木梅太郎 11.西澤潤一 13.高峰譲吉 14.寺田寅彦 15.志賀潔 16.関考和 。以下、朝永振一郎 長岡半太郎 福井謙一 広中平祐 今西錦司などが並んでいる。寺田寅彦は志賀潔よりも上位にきている。日本科学史上に輝く科学者だったのだ。

山折哲雄寺田寅彦 天災と日本人』(角川ソフィア文庫を読んだ。寺田寅彦の名前は受験時代によく見聞きした。試験によく出るのがこの人の文章だったからだ。久しぶりに読むと確かに名文である。寺田寅彦が、地震津波・台風など自然災害の多さを宿命とする日本と日本人について書いた随筆集だ。「慈母のごとき自然」と「厳父のごとき自然」。「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向」。「科学的国防の常備軍」。「短歌と俳句は、日本の自然と日本人自身をを雄弁に物語るものだ。日本の風物と日本人の感覚のもっとも身近な目録索引が歳時記。座標軸としての時間と空間を表すものが季題である」。「好きなもの いちご コーヒー 花 美人 ふところ手して宇宙見物」は寅彦の作品である。生きるスタンスがみえる名句だ。

今回あらためて、オーディブルで、『アインシュタイン』『数学と語学』『科学に志す人へ』『漫画と科学』などの著書や随筆を聞いてみた。やはり説得力のあるやさしい名文であった。

「頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時に、又えらい人の仕事でも自分に出来そうな気がするので、おのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである」。この言葉にも励まされる。そして、「やっているうちに興味がでてくる」は納得できる言葉である。

 

寺島実郎の「世界を知る力」対談篇ーー天野篤先生(神の手)と千葉敏雄先生(胎児医療)

本日の東京MXテレビの寺島実郎の「世界を知る力」対談篇。

心臓外科医の天野篤先生(神の手。上皇陛下の執刀医)と胎児医療の千葉敏雄先生(日本初のシュバイツアー医学賞受賞)という二人の臨床医との対談。


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以下、図メモ。

黒字は番組をみながらとったメモ。黄色は大事なポイント。

赤は「聞き逃し配信」で二度目に聞いた補足の情報。赤マルは説明のまとまり。

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千葉敏雄先生は、もしかしたら、料理研究家の千葉真知子さんの夫ではないか。仙台で何度か、会っている気がする。

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「遅咲き人伝」の収録。壺井栄今西錦司

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「名言との対話」11月27日。松下幸之助「自分には自分に与えられた道がある」

松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年明治27年〉11月27日 - 1989年平成元年〉4月27日)は、日本実業家発明家著述家松下電器産業(現・パナソニック)。

大阪西三荘の松下幸之助メモリアルホールを訪問して感じたことは、松下幸之助は哲学、考え方、そしてそれを表現する言葉がすばらしい、ということだ。「経営の神様」松下幸之助については、経歴を語るよりも、言葉を拾うことにした。名言というより、金言と呼ぶべき言葉の数々である。

以下にその一部をあげる。

  • 「広告は善。良い製品であればそれを人々に知らせる義務が企業にはある」「ものをつくる前に人をつくる」「一日教養、一日休養」「自己観照」「人間というものの教育を怠った」「人使いのコツは誠心誠意以外にない。そして長所を見ていく」「自分自身で自分を育てていかなければならない」「社員はみんな自分より偉い人だった」「命をかけて仕事をしても命はなくなりません」「朝に祈り、昼に活動し、夜に反省する」「断じて行えば解決していく」「産業人の使命は貧乏の克服である」「先ず人間としての良識を養うこと」「商売は世の為、人の為の奉仕にして、利益はその当然の報酬なり」「商人に好況、不況はない。いずれにしても儲けなくてはならぬ」「「よい経営の根幹は人であることを知らねばならない」「世の多くの人たちの生活を一日一日と高めていく。そこに生産の使命というものがある。その尊い生産の使命を果たしていくためには会社に資金が必要である。その資金を利益のかたちにおいて頂戴するのである」「企業は社会の公器である」
  • 「運があるという信念ができたら、人間強うおますな。自分は運が強い、そう考えたら、一生懸命やればいい仕事ができる、と思えるようになる。そうすれば将来の展望も違ったことになってくる。自分ではどうしようもない運もあるが、与えられた運をそだて上げていくことも大切でしょうね。」
  • 「悩んだり、腹を立てたり、悲観したりすることが社長の仕事である、経営者の仕事である、そういうものがなかったら経営者の生きがいがないのやと、こういうように考えてからだいぶ楽になったですよ。いまは悩むために自分は存在しているんやな、悩みが本業やなと、こういうような感じをもつようになったんです。」
  • 指導者は地位が高くなればなるほど謙虚でありたい。
  • すべての人を自分より偉いと思って仕事をすれば、必ずうまくいくし、とてつもなく大きな仕事ができるものだ。
  • 寸分の隙もなく、一所懸命やているけれども、余裕綽々としている。これこそ王者の姿だ。
  • 衆知を集めて、事を決するということと、多数決によって、事を決するということは、まったく異なることである。

どの言葉も心に響く。こういう言葉を「金言」というのではないだろうか。経営哲学、経営理念、志、信念、、、。そういう基本が決まれば未来に向けてスタートを切れる。その道は成功への確かな道である。

他のところで拾った言葉。「経営のカンや運を呼び込む力は、経営者自身も現場に足を運ぶことから生まれてくる」。「困難や問題に直面するほどありがたいことはない」「それを克服しようと懸命になることでチャンスが出てくるものだ」

優れた評伝をものしている北康利さんが書いた『同行二人 松下幸之助と歩む旅』という本を読んだ。松下幸之助の人生を一緒にたどることで、私たちは人生を歩いていく杖を手に入れることができる。以下は、私が読みながらしるしをつけた、杖となるべき言葉である。

・お客が帰る際には、相手の姿が見えなくなるまで見送る。そして見えなくなる寸前、もう一度心をこめて深々礼をするのである。
・彼は物事をいい方向に考えてそれを力に変える、いい意味での楽観主義者であった。
・彼は早熟の天才ではなく、努力で成長していく典型的な大器晩成型だったのだ。
・彼は運を信じて逆境でもくじけず、成功したときんは「運が良かった」と謙虚に思い、失敗したときには、、「努力が足りなかった」と反省した。
・彼の場合、スピーチもまた努力でうまくなっていったのである。
・「人に借りをつくってはいかん、『ギブ・アンド・テイク』ではなく、『ギブ・アンド・ギブ』でいかな」
・企業経営の命題のほとんどすべては松下幸之助という不世出の経営者によってすでに見いだされているのかもしれない。
・「5つや6つの手を打ったくらいで万策尽きたとは言うな」
・いつも寝床にノートと鉛筆が置いてあり、いいアイデアが浮かぶと、せっせとそれを書き留めていたという。
・彼の言葉がほかの人の受け売りではなく、自らの経験を通し、自らの頭で考えて血肉としたものだからだろう。それは「学校の秀才」や「生来の天才」ごときのたどり着ける境地ではない。
・彼はいつも、自分たちの仕事は「聖なる仕事」なのだと言い続けていた。
・「台風一過----大将に叱られると、いつもそん清新な気持ちになった」
・「君の専攻してきたことを一言で説明したらどういうこと?」、「君は何がしたくて松下へ入ってくれたんや?」
・定価でなく、「正価」という言葉を使ったのは、「正当な値段だ」という思いを込めてのことであった。
・「それは私や会社が決定すべきことではなく、社会に決めていただくことやと思います」

「道」という至言がある。それを最後に掲げる。

  • 自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
    この道がはたしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
    あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
    他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
    それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道が開けてくる。深い喜びも生まれてくる

松下幸之助の成功の秘密は、「たゆまぬ向上心と謙虚さ」と北康利さんは述べている。これはある性格タイプの特徴である「向上心」を極めていったということと、そういうタイプが陥りがちな傲慢さから逃れて「謙虚さ」を身につけたのが成功の原因だと理解できる。人はそれぞれの性格に沿って生きていく。一群の人々にとってモデルとなるべき人物であることは間違いない。そして自分にあった道を歩み続けたということは万人が模範とすべき生き方である。

彼は早熟の天才ではなく、努力で成長していく典型的な大器晩成型だったのだ。

松下幸之助は早熟ではなかった。努力を怠らない、大器晩成の人であった。だんだん器が大きくなっていった。大器は晩成する。松下幸之助も遅咲きだったのだ。

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原尻淳一さんの「知図展」を訪問ーー知のフロンティアの可能性を感じる企画展。

東京立川で開催中の原尻淳一さんの「知図展」を訪問した。サブタイトルは、「面白がり屋が、自由に描いた知の世界」。

日々の生活の中で不思議の種を発見し、それらを観察して記録したノートを「知図」と呼んでいる。自分の眼で見たものを大事にする梅棹忠夫の学びを引き継ごうとする原尻さんを中心とする人たちの記録である。10月に京都の梅棹忠夫旧邸 ロンドクレアントで行った知図の展覧会の作品がそのまま展示されている。

  • 不思議の種の集積。ワタシの好奇心のカケラ。自分の足。観察。五感。一次情報。出逢いのアーカイブセンス・オブ・ワンダー。足下に泉あり。
  • 観察スケッチ図(事実・事象)。情報分布図(つながり)。「あ」の6進法「あるく」「あつめる」「あらわれる」「あわせる」「あらわれる」「あらわす」。
  • 琵琶湖曼荼羅。親子曼荼羅
  • 「知図」の次。なりきり文体法。写経法「鴎外」。知図法「寅彦」。

身の回りを好奇心を持って、歩き、観察し、発見した事実や事象を記録する。その情報同士のつながりを意識して知図として描く。その知図をもとに、文章を書く。

フィールドワークを土台に、新しい知を創造していく。最後は自分で表現し、発表していく。私の提唱する図解文章法の一種だ。

「なんにもしらないことはいいことだ」とする梅棹忠夫の精神を受け継ぐ新たな「知的生産の技術」の誕生だ。総合学習、探求などの教育改革の流れの中で、このやり方は生きてくるだろう。特に、母と子など家族で一緒に学べるところがいい。この運動を推進してる人たちの熱のある説明と具体的な作品は、訪れた人たちに感銘を与えていた。面白がりながら、自分の身近のフロンティアを開拓していくことは、興奮を呼ぶのである。全国に知図の愛好家が育っているようで、大きな運動に育っていく可能性がある。原尻さんたちの動きに注目!

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梅棹忠夫先生の偉業を継ごうとする一人だ。NPO法人知的生産の技術研究会でもセミナーをお願いしたい。

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本を書いていた原尻淳一さんとリアルで出会ったのは2010年の『知の現場』の出版パーティだった。当時はまだ30代後半だった。あれから10年以上たって、50歳になっていた。
2013年に都市と都市をつなぐインターシティメディア「BUAISO」の「図解思考が自らの未来を救う」だ特集で一緒に紹介されたことがある。

「学ぶ姿勢は重要だが、果たしてその方向性は、自分のキャリアにとって正しいものだろうか。自分がすべきことは、自分が見えてこそ分かるもの、どうすれば自分が見えるのか。その有用な方法はどうやら「図」らしい。「図」を使って「自ら」を考える書籍2冊が同時期に発売された。その著者たちに話を聞いた。」という枕がついている。

紹介されているのは、「30代からの人生戦略は「図」で考える」(久恒啓一)と「「キャリア未来地図」の描き方」(原尻淳一・千葉智之)の2冊。

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朝9時から10時はヨガ教室に出席。なんとかでてきてはいるが、ポーズの名前、そして骨や筋肉の動きも知りたいと、本を注文。

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「名言との対話」11月26日。野村かつ子「戦うところから何かが生まれる」

野村 かつ子(のむら かつこ、1910年11月26日 - 2010年8月21日)は、生活協同組合の組織など、消費者運動に取り組んだ日本社会運動家。享年99。

京都市西陣出身。同志社女子専門学校で学ぶ。在学中に結婚し、卒業後に二人の子をもうける。夫の野村治一葉1937年に亡くなってる。同志社大学では社会事業と倫理学を学び、賀川豊彦らの薫陶を受ける。1942年に卒業。

戦後に、日本生活協同組合、婦人有権者同盟に参加し、主婦連合会の創設にも参加して居る。1957年からは総評主婦の会で消費者運動を展開。1971年にはアメリカの消費者運動を牽引していたラルフ・ネーダーを招聘している。1975年、海外市民活動情報センターを設立。その後も一貫して消費者運動に関わりつづけた。

1990年に市川房江基金援助賞、1991年に東京弁護士会「人権賞」、1993年には韓国の「イルガ記念賞」を受賞している。

農業技術通信社のサイトの「農業ビジネス」に、宮崎隆典が「空腹時代の夢と満腹寺代の不安と」というコーナーで、野村かつ子のことを書いている。

戦後の空腹時代には「熱い重湯が腹にしみ、ありがたくもあり、情けなくもあり、涙が出ました」という言葉を紹介している。ハモニカ長屋と共同水場、そして衣類を売って一枚一枚皮をはぐ「タケノコ生活」を述懐している。こういった飢餓体験が消費者運動の原点にあった。

戦後はGHQへ押しかけ、食糧供給について何度も申し入れを行っている。この時、生活協同組合法の制定を示唆されて、それが生協の設立につながった。「戦うところから何かが生まれる」と野村は述べている。問題意識をもって、行動に移していくと、新しい視界が開けたり、解決のヒントが手に入ることがある。それが「何か」は事前にはわからないが、行動の後には、「何か」の像が結んでくる。その繰り返しの連続の人生だったのであろう。

野村かつ子は1999年、『消費者運動・88年の歩み』と題した自伝を発表している。当時は89歳であるが、その後も10年以上、99歳まで生きて、世界の食糧問題にも関与しているから、野村かつ子の生涯を総括すれば「消費者運動・99年」ということになるだろうか。人生10年時代を生きた先人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知研「読書会」第5回ーー今回は「情報」と「江戸時代」の本が中心。私は星野道夫のことを紹介。

読書会。

図メモ。黒字は発表者の言葉。赤字は私の書き込み。赤マルはポイント。黄色は本のタイトル。

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参加者の学びから。

  • 今回紹介された本は、次のとおりです。

・鳥海富士夫、山本龍彦『デジタル空間とどう向き合うか』日経プレミアシリーズ。情報過多の社会で、様々な問題が起きている。この根源は、とにかく注目をひきクリック数を増やすアテンション・エコノミーと、自分の好みの情報や快適な情報しか受けようとしない人間の本性であるとしている。それに対して「情報的健康」を提案し、それを保つよう心がけようと呼びかけている。

・畠山健二『本所おけら長屋』PHP文芸文庫。全19巻で165万部も売れている。笑いと涙の時代小説。江戸時代の長屋に暮らす庶民を描いている。義理人情の世界。
・ハンス・ロスリング『FACTFULNESS』日経BP2020年第1位。著者は統計学専門でデータに基づく判断が大切と述べる。いくつかのクイズでいかに我々の考えにバイアスがかかっているか知らせてくれる。
・林雄二郎『情報化社会』講談社現代新書半世紀も前に書かれた本だが多くのことを教えてくれる。情報化社会とは、コンピュータだけでなくものの考え方、社会の変化、人間らしさの社会。実用性よりデザインなどが尊重される。
・圭室文雄『江戸幕府の宗教統制』評論社。徳川家康が幕府を開いたとき、3つの警戒するものがあった。武家・公家そして宗教。宗教の中でもキリシタン一向一揆。幕府は宗教を弾圧するのではなく、寺の檀家制度を利用して骨抜きにして支配した。非常に巧妙で、それが今にもつながっている。
星野道夫『悠久の時を旅する』Crevis、『長い旅の途上』文春文庫。紹介者が偶然知った野生動物写真家の星野道夫は、梅棹忠夫の山と探検賞の受賞者であった。写真家であると同時に詩人でもあった。「きっと、人はいつも、それぞれの光を探し求める長い旅の途上なのだ。」
今回は、偶然、情報に関連した本が3冊、江戸時代に関連した本が2冊紹介された。情報に関する本について、事実と真実とは違う、とか、各自が基準点を持っていること、自己の確立が必要だとか、この読書会のように様々な分野の見方や考え方が必要、など議論が特に盛り上がった。また、江戸幕府の宗教統制については他の参加者にとっても初めてでその巧みさには驚いた。
  • 今日もありがとうございました。 普段あまり読んだことのないような分野の本を紹介して頂き、興味深いお話ばかりでした。 都築さんからは「デジタル空間とどう向き合うか 情報的的健康の実現を目指して」著者:鳥海不二夫と山本龍彦の紹介で、都築さんによる図解による解説がわかりやすかったです。好きな情報だけを見続けてしまうと特定の情報しか受け入れなくなってしまい、多様な情報をバランスよく摂取することが必要というという考えは、確かにそうかも思いました。 小野さんの紹介された「本所おけら長屋」著者:畠山健二の本は、江戸時代の庶民の暮らしを落語を通して描いたお話で、日頃あまり江戸時代の庶民の生活を考えたことがなく、江戸時代の生活を考えることが難しいと感じていましたが、この本なら気軽に読めそうな気がしました 。 猪俣さんの紹介された「FACTFULNESS」著者:ハンス・ロスリングの本で印象に残った内容は、人は、思い込みにかかりやすいということがよくわかりました。私も自分がどんな思い込みをしているかもう一度客観的に見つめてみようと思いました。 黒川さんは「江戸幕府の宗教統制」の本を紹介していただき、江戸時代以降から今日までの寺の存在の意味や江戸幕府の施策など今まで知らなかったので大変興味深かったです。 私は、「情報化社会」著者:林雄二郎の本を紹介しましたが、この本は、単にコンピュータの台数が上がったとかの話でない本ということがわかりました。重厚長大な産業や封建社会的な組織であるハードな社会から、情報産業のような変化が激しい産業や柔軟で自由度の高いソフトな社会である情報化社会に移行するで、人間の考え方や欲求の変化(実用性よりデザインや色など感覚的なことが意思決定時に重視される)、社会構造の変化が生じてくることがこの本に書かれていることを説明させていただきました。この本を読むことで、これからは、表面的なデータや数値や多くの情報に振り回されるのではなく、そのデータのもとになる情報の本質を見抜いていきたいと思いました。 久恒先生からは、「長い旅の途上」著作:星野道夫の本を紹介して頂き、普段世界中を旅をすることもない変化のない日常生活を過ごしているので、熱気球で旅したり、探検家として活動しながら写真を撮ったり、詩を書いたりする星野氏のように、旅が出来たらどんなに楽しいだろうかと思いました。星野氏の本を読んでみたいと思います。 次回も読書会を楽しみにしています。よろしくお願いいたします。
  • 本日も、色んな角度からの著作紹介が有り、大変、勉強になりました。都築様御紹介の「デジタル空間とどう向き合うか」、松本様御紹介の「情報化社会」、私が紹介させていただいた「FACT FULLNESS]と情報に関する著作紹介が多かったことに、情報が氾濫する時代状況を反映していると感じました。多くの情報の中から、事実と判断していく能力とそれらの事実から、真実らしきものに近づいていけるかの議論が非常に参考になりました。江戸時代の関して、小野様から「本所おけら長屋」、黒川様から「江戸幕府の宗教統制」を紹介頂き、江戸時代に対する関心が沸きました。久恒様からご紹介頂きました[長い旅の途上」は自分が関心を持つテーマの広がりの中で、新しい人物に出会う楽しみを理解させて頂きました。

 

読書会の様子。

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私の発表した「星野道夫の資料」。

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プール:200m

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「名言との対話」11月25日。石本他家男「トッププレイヤーと言うのは、トップレベルのユーザーである」

石本他家男(いしもと たかお 1901年11月25日ー1988年5月27日)は、デサントの創業社長。

石川県出身。大阪で丁稚奉公をしたのち、1935年、ツルヤを創業。1957年、デサントブランドを創設。翌年スポーツウェア事業の石本商店を設立。1961年、社名を変更し株式会社デサントとする。当初はスキー、その後野球、スケート、自転車競技などに広げていった。1970年代のプロ野球チームのほとんどはデサントのユニフォームになった。1980年東証第一部に上場。海外ブランドの代理店事業も展開。1986年、デサントのウェアを着た中野浩一が世界選手権10連覇を果たす。1988年死去。

デサントは、石本亡きあとも、発展を続けている。直近の業績発表では、2023年3月期の連結純利益が前期比61%増の100億円になる見通しだ。過去最高益になる見込みである。新型コロナウイルス禍からの売り上げ回復に加え、効率的な在庫管理でコストを削減。22年4~9月期の純利益は過去最高となる51億円となっている。

「トッププレイヤーと言うのは、トップレベルのユーザーである」という言葉の後には、「その優れたユーザーが着用して満足する機能性の高いものであれば、一般化しても安心。優れた開発は優れた人間との共同研究から生まれる」と続く。この言葉に、トップアスリートとスポーツ用具メーカーの関係が示されているように思う。

ここで思い出すのは、オニツカ創業者でアシックス初代社長の鬼塚喜八郎だ。「キリモミ作戦」と「頂上作戦」で、4年ごとのオリンピックに照準を合わせて、商品開発を続けていく。メルボルン、東京、ローマ、ロサンゼルス、メキシコ、ミュンヘンモントリオール、、、。1964年の東京オリンピックでは、オニツカの靴を履いた選手が体操レスリングバレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得している。多くの金メダリストとライバルメーカとのエピソードは『念じ、祈り、貫く』という書に紹介されている。それは国際化の道でもあった。マラソンシューズでは、寺沢徹、アベベ円谷幸吉ラッセ・ビレン、高橋尚子野口みずき、、、。

裸足でオリンピックで金メダルを獲得したアベベに靴をはかせたエピソードも面白い。アベベ印象は単なるマラソン走者ではなく、一人の哲人だった。鬼塚は「アベベに靴を履かせたい」と考え、シューズをはかせることに成功し、アベベは優勝した。鬼塚は生涯でアべべから感謝された時ほど嬉しかったことはないと語っている。

ヨネックス株式会社創業者の米山稔も同じ戦略をとった。世界のバドミントンのレジェンドになっていたインドネシアのルディ・ハルトノをラケットを改良することで応援し、全英オープン選手権7連覇を果たした。現在ではヨネックスは世界のバドミントン界で圧倒的な支持とシェアを誇っている。テニスでも「頂上作戦」を敢行する。キング夫人。マルチナ・ナブラチロワ伊達公子マルチナ・ヒンギスセレシュ大坂なおみ、などトッププレイヤーの信頼を得ている。

アシックス、ヨネックス、そして石本他家男のデサントなど、世界で成功したスポーツ用具メーカーは、「頂上作戦」を敢行していることがわかる。一人のスーパースターが誕生すると、そのスターが武器とする用具を皆が買う。それはなぜかというと、イメージもあるが、優れた使い手が満足する機能性の高いものは安心だからだ。「優れた開発は優れた人間との共同研究から生まれる」のである。

こういう観点からサッカー、ゴルフ、水泳、野球など、あらうゆるスポーツをながめてみると納得する。これはスポーツに限らない。文筆活動をする作家でも、万年筆、原稿用紙、インクなどは文豪の愛用品に皆が目がいく。優れた製品の開発の物語は、つくる人と使う人の共同研究の成果なのだということがよくわかった。

 

『図解コミュニケーション全集』第6巻を校正中。八王子。大相撲。

『図解コミュニケーション全集』第6巻を校正中。

6巻は「展開編3」で、テーマは「ライフデザイン(人生戦略)」。

以下、5冊が入っている。最厚の668ページ。30代、40代、50代のライフデザイン、そしてライフプランの立て方の実例、女性のためのライフプランへの応用という構成。

  • 『30代からの人生戦略は「図」で考える!』(PHP研究所
  • 『図解で考える40歳からのライフデザイン』(講談社+α新書)
  • 『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)
  • 『書くだけで人生が好転する妄想ノート』(成美堂出版)
  • 『図解でスッキリ! 働く女性の成功ノート』(成美堂出版)

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原論編1。技術編1。実践編1。展開編3巻「ワークデザイン」「キャリアデザイン」「ライフデザイン」が終了した。後、4巻の応用編で、計10館になる予定。

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八王子の子安神社。

 


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昼食は八王子駅近くのイタリアンの「CANTINA」。

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大相撲。

 


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「名言との対話」11月24日。川合玉堂「日曜も絵を描くし、遊ぼうと思えばやはり絵を描く」

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年明治6年)11月24日 - 1957年昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家

愛知県一宮市出身。筆墨紙商の長男。14歳で京都の四条派・望月玉泉の門に入る。3年後に円山派・幸野楳嶺の画塾「大成義会」に入る。第3回国内勧業博覧会で入選。17歳で「玉堂」と改号。

23歳、上京し橋本雅邦に師事。岡倉天心創立の日本美術院には当初から参加した。1907年、文展審査員。1915年、東京美術学校教授。1917年、帝室技芸員。フランス政府、ドイツ政府から勲章を授与される。日本画壇の中心人物の一人となった。67歳、文勲章

戦時中は東京都西多摩御岳に疎開。その住居を「寓庵」、画室を「随軒」命名していた。日本の四季の山河と、人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描いた。

2008年、御岳(みたけ)にある日本画玉堂美術館を訪問した。この美術館は死後4年後の1961年に開館している。到着したとき、突然の豪雨に襲われた「滝のような雨」という表現があるが、まさにそのとおりの雨が降ってきた。美術館の近くにあるレストランで食事を摂ろうとするが、雨宿り組が多く時間がかかりそうなので、日傘をさしながら美術館まで走る。すぐそばを走る多摩川上流の渓谷に水があふれて激流となって流れている。枯山水の庭に雨が降り注ぐ。閃光と落雷の轟音が鳴り響く。この景色も玉堂は何度も目にしたのだろうと思いながら、雨に煙る庭と林とその先に見える川の流れを眺める。

川合玉堂は19歳ほど年下の吉川英治とも親しかったそうだ。この玉堂も横山大観と並び国民的画家といわれた。この奥多摩には同時期に吉川英治青梅市)も住んでいた。国民的作家と国民的画家が住んでいたことになる。

玉堂は書も、俳句、短歌も巧みであった。「河かりに孫のひろひしこの小石 すずりになりぬ歌かきて見し」。これは孫が拾った石を硯にして、座右の珍としたときの歌である。

武蔵小金井」という駅名にひっかけて、「あの剣豪の宮本武蔵には子供があったかね」と尋ねていたという。玉堂はしゃれの名人でもあった。

冒頭の言葉は晩年のインタビューで「先生、日曜日はどうしていらっしゃいますか、絵をお描きにならないときは何をしていらっしゃいますか」と聞かれたときの玉堂の答えだった。1年365日、絵のことを考え、ひたすら絵を描くという一直線の生涯であった。

 

 

 

恵比寿の東京写真美術館「星野道夫 悠久の時を旅する」展。ーー「今、目の前で起きていることに集中して心をまかせ、身をゆだねてみてください」

昨日訪問した恵比寿の東京写真美術館「星野道夫 悠久の時を旅する」展。


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星野道夫の言葉から。

  • 私はいつからか、自分の生命と、自然とを切り離して考えることができなくなっていた。
  • 全体としての生態系は、微妙なバランスで保たれてた本当に強い自然なのである。その食物連鎖の単純さに代表されるように、地球上で最も傷つきやすい自然だろう。その一つの鎖が途切れても、全体に回復することができない破局を与えてしまう。
  • われわれの生活の中で大切な環境のひとつは、人間をとりまく生物の多様性であると僕はつねづね思っている。
  • 狩猟であれ、木の実の採集であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を、自分自身の中にとり込みたくなるのだろう、そうすることで、よりその土地に属してゆく気がする。

身近な関係者の星野道夫像から。

  • 今森光彦(写真家)「実在する人や動物を旅先案内人にして、宇宙の扉を開いていること、ディテールにこだわりながら背景をみてゆこうという手法だ」。
  • 村田真一(NHK自然番組・プロデューサー)「村田さん、5分でいいから、仕事のことはすべて忘れて、今、目の前で起きていることに集中して心をまかせ、身をゆだねてみてください」。
  • 星野翔馬(息子)「好きな一節「無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、なんと粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残り惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐりあえるのか。その回数を数えるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません」。

星野道夫については、2018年8月8日のブログで書いている。さらに理解が深まった。

「名言との対話」。8月8日。星野道夫「きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ」

星野 道夫(ほしの みちお、1952年9月27日 - 1996年8月8日)は、写真家探検家詩人

千葉県市川生まれ。慶應義塾大学経済学部へ進学する。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。1978年、アラスカ大学野生動物管理学部に入学するも中退。1989年『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞する。1993年、花の世界に身を置いていた萩谷直子と結婚。1996年、ロシアカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントヒグマの襲撃に遭い、死去。43歳没。

星野道夫という名前は、2016年9月に訪問した中国・広州の広東財経大学で初めて知った。外国語学院の建物の廊下に、古今東西の偉人たちの写真と彼らの言葉が飾ってあった。マンデラ大統領、シェイクスピアアウンサンスーチー女史、モーツアルト、レオナルドダビンチ、ゴッホショーペンハウエルマルクスなど。日本人も飾ってあった。小野小町、鈴木晴信、柿本人麻呂鴨長明柳宗悦。存命の人では、宮崎駿大江健三郎の二人が掲げてあった。こういう人たちが中国においては日本人のイメージなのだろうか。宮崎駿は、「私には紙と鉛筆があればよい」。大江健三郎は、知る、分かる、悟るを分けて説明をしていた。

この人々の中に知らない名前があった。星野道夫という写真家であった。どういう人だろうか興味を持った。今回、星野の遺稿集『長い旅の途上』(文春文庫)を読んで、人となりと彼の志を知った。極北の自然とそこに生きる人間と動物、植物への愛情。そして大地に注がれる深いまなざし。人間とは何かを考える日々、、。みずみずしい感性で語りかけてくる星野の文章は心に響いてくる。

・誰かと出会い、その人間を好きになった時、風景は、はじめて広がりと深さをもってくる。

・川開き(ユーコン川)の瞬間、、、冬の間眠り続けていた河が、ボーンという音と共に無数の巨大な氷塊と化し、いっせいに動き出す。

・この土地の自然は、歳月の中で、いつしか人間を選んでゆく。

・アラスカの本当の大きさは、鳥の目になって、空から見ないとわからない。

星野は日本の子どもたちをアラスカ山脈のルース河氷河に連れてゆく旅を毎年続けている。岩と氷だけの無機質な世界で満天の星を見上げているだけで誰もが言葉を失う。そういう体験をさせる旅である。

アラスカとニューヨークは似ていると星野は言う。苛酷な自然と混沌とした人間社会。半端でない世界だ。どちらも緊張感を持って暮らさねばならない。10代の頃北海道にあこがれた星野道夫はアラスカの大自然の探検家になった。世代が近く、同じ探検部出身の私は、人間ジャングルの探検家になったともいえる。

2016年8月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した巡回写真展が開催されている。東京、大阪、京都、横浜、長崎、久留米、東大阪。静岡の伊豆では2018年9月末まで開催している。それを観たい。

日々の暮らしの中でかかわる身近な自然と、創造力と豊かさを与えてくれる遠い自然という二つの自然があり、慌ただしい日常の時間と漠とした生命の時間の二つの時間がある。そう語っていた星野。染織家の志村ふくみと作曲家の武満徹の言葉に静かに耳を傾ける星野。鳥の目になり、自然も人間の営みも同じに見えるようになっていた星野。43歳で逝った「光」を捜し求める星野道夫の旅は、長くはなかったが、充実した旅であったろう。

長い旅の途上 (文春文庫)

長い旅の途上 (文春文庫)

 

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「名言との対話」11月23日。久米正雄「微苦笑」

久米 正雄(くめ まさお、1891年明治24年)11月23日 - 1952年昭和27年)3月1日)は、日本小説家劇作家俳人

一高時代から菊池寛(3つ上)と芥川龍ノ介と親しかった。この3人の師匠は夏目漱石であった。「牛のように図図しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います」とある。 これは大正五=一九一六=年八月二十四日、芥川龍之介久米正雄(25歳)宛書簡にある漱石の言葉である。久米は41歳、石橋湛山の後を継いで鎌倉市議にトップ当選。46歳、東京日日新聞学芸部長。日本文学報国会事務局長。54歳、鎌倉文庫社長。鎌倉ペンクラブ初代会長。桜菊書院『小説と読物』を舞台に、漱石の長女筆子の夫となった恋敵・松岡譲と夏目漱石賞を創設したが、桜菊書院の倒産でこの賞は1回で終わっている。

福島県郡山市の文学の森にある久米正雄記念館は、鎌倉から移設した和洋折衷の74坪という大きな邸宅だ。記念館の近くにある久米の銅像は愉快そうに笑っている顔だった。銅像が呵呵大笑しているのは珍しい。

ゴルフ、スキー、社交ダンス、将棋、花札、マージャン、俳句、絵など趣味は極めて多く、親友の菊池寛の後を継いで日本麻雀連盟の会長もつとめっていた。酒席での得意芸の歌は、酋長の娘、船頭小唄などだった。ほうじ茶でウイスキーを割った番茶ウイスキーを発明したり、愉快な人だったらしい。久米が入ると座が楽しくなるという人柄だ。

久米正雄には友人が極めて多い。里見頓、大仏次郎今日出海佐藤春夫広津和郎、、、。久米の長男昭二は昭和2年生まれだが、同年生まれの野田一夫先生の父上はゼロ戦の技術者、私の母の父は旧制中学校の校長だったというから、その時代の空気がなんとなく見える気がする。

芥川は「その輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義ロマンチシズム。、、」と久米の人柄を語っている。また「久米正雄氏の事」というエッセイでは、「久米は官能の鋭敏な田舎者」であるが、「久米の田舎者の中には、 道楽者 の素質が多分にあるとでも云って置きましょう」と語っている。

久米正雄 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (久米正雄文学研究会)を手にして、いくつかの短編を読んでみた。「良友悪友」というエッセイでは、「俺はかうして彼らと肩を並べるために、伸び上り〳〵警句めいた事を云つてゐるが、そんな 真似 をして何の役に立つのだ」という正直な反省も述べている。「受験生の手記」という短編小説では、一高受験で2年連続して落ちた主人公のゆれる心情を、1歳違いの弟との微妙な関係を軸に書いている。

「微苦笑」は久米自身の造語であった。小谷野敦の書いた久米の伝記『久米正雄伝--微苦笑の人』では、この微笑とも苦笑ともつかない、かすかな苦笑いを浮かべながら日々を過ごした人とその生涯を総括している。

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『橋本陽子と青藍工房展ーール・サロン2022入選記念』ーー「お花がにっこりと笑ってくれる」 「藍色に魅入り酔ってしまって、頭へ来て阿呆になったという訳です」 「作品を残したい」

『橋本陽子と青藍工房展ーール・サロン2022入選記念』に出席。銀座かねまつ6F 。16時半から。

パリの伝統ある世界最古の公募展(ルノアールセザンヌなども)で入選を果たした橋本陽子の企画展。橋本陽子は「藍ろうけつ染め」という独特の技法で作品を生み出している工芸作家である。海や山、草花、木々など自然を題材に、自由に図案化している。藍の濃淡をろうけつ染めで表現する。入選作品の鳴門の渦を屏風に描いた「上巳の渦」では、18回も染色を重ねている。ル・サロンの代表者は葛飾北斎を思い起こさせるとし「動物の爪が獲物を捉えるかのような渦巻の表現が素晴らしい」と語っている。

青藍工房は徳島、蓼科、東京、宮古島にあり、娘や教え子たちに引き継がれている。


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1831年徳島市生まれ。銀行員の夫の転勤に付き添う。お茶、お花、踊りなどの他に、草木染などの手仕事を趣味として楽しむ。1965年、明石朴景に師事し本格的に藍染の道に入る。1971年、生家に藍窯をもうけ「青藍工房」を設立。ピカソの青へのあこがれが命名に関係している。以降、銀座や関西を中心に個展を開催している。

藍染めは子どもひとり育てるのと同じくらいの労力がかかるから、相当な熱意がないとやりきれない。

「お花がにっこりと笑ってくれる」

「藍色に魅入り酔ってしまって、頭へ来て阿呆になったという訳です」

「作品を残したい」

リケジョの長女・初子(メタモジ専務)は7年前の父の他界後に、母との距離を縮めるためもあり、「藍染めをやろう」と決心し、藍染めと、自然を描く水墨画、自然を詠む俳句も母・陽子と一緒に学びながら、活動を共有していく。橋本陽子がル・サロン2022年に入選。翌年に初子も応募したところ、母娘ともに入選を果たしたのである。

初子は夫とともにジャストシステムを立ち上げた最先端を走るコンピュータ・エンジニアであるが、藍染という伝統芸術に入っていった。エンジニアとして「脳」に強い関心があり、その影響で脳をヒントにした抽象画を藍染めで描いた作品を描いたと発言している。昨年亡くなった歌人の私の母・久恒啓子の「いづこの部分が夫のことばを奪ひしや抽象画のごとき脳の影像」という短歌を思いだした。

藍染めという伝統の中に生き、ろうけつ染めという革新技法を編み出した母。そして精魂込めたその技術を受け継いでいこうとする娘。母娘の交歓を伴った生命の流れを強く意識するイベントであり、「伝統と革新」を担おうとする高い志に感銘を受けた。

ライフワークという言葉がある。「ライフ」には、生活、人生、生命という3つの意味が込められているが、母の生活そのものである藍染めは、やがて人生そのものになり、そして次の娘の生命に引き継がれていくことになった。「藍ろうけつ染め」がライフワークとなった物語である。


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このイベントは私にとっても意義深かった。今年の初めあたりから旧知の「メタモジ」の浮川初子専務から「図解ソフト」の相談があった。そのプロジェクトの担当部長の松田さんと担当エンジニアに会うことができ、進捗状況を聞くことができてよかった。ジャストシステム時代に、「図解マスター」というソフトの監修をしたことがあり、それを一段と進化させることになる。近々、プロットを見せてもらうことになった。

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上記のイベントの前に、恵比寿の東京写真美術館で開催中の「星野道夫 悠久の時を旅する」展をみた。詳細は明日。

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「名言との対話」。11月22日。谷口雅春「考えを発展してくれるなら、我が教えも、我が人生も無駄ではなかったと思う」

谷口 雅春(たにぐち がしゅん・まさはる、1893年明治26年〉11月22日 - 1985年昭和60年〉6月17日)は、新宗教生長の家創始者

兵庫県神戸市出身。早稲田大学文学部中退し、大本教の専従活動家となる。出口王に三郎の『霊界物語』の口述速記、機関誌の編集主幹を歴任。1922年の第一次大本事件を機に脱退。1922年、「今起て!」との神の啓示を受けて、『生長の家』の執筆に着手する。ニューソート自己啓発)流の成功哲学を世界に広めようとした。

1949年、宗教法人格を取得。政治活動に積極的であった。建国記念日の制定、元号の法制化、優生保護法の廃止。帝国憲法の復原・改正など。玉置和郎、村上正邦などを参議院に送り込んでいる。

教義をみていこう。

  • 「万教帰一」。神道、仏教、キリスト教など諸宗教は根本は一致。目玉焼きの黄身が本当の神、白身はそれぞれの神。大本教と同じである。
  • 「現象世界は存在しない。実相があるだけである」。「仮想人間。実相人間」。
  • 大東亜戦争は「偽の日本」の敗戦であって、「神州日本国」は敗れたのではない。
  • 日本国憲法は無効であり、明治憲法に還るべきである。アメリカは、日本を愛国心の減少、家庭崩壊、性的退廃で、自滅させようとした。
  • プロライフという生命尊重の考え。優生保護法の廃止。「人類の平和は先ず生物を殺さないことから始まらなければならない」。肉食と殺生をやめよ。
  • 現在の生長の家エコロジー活動に熱心。最も積極的に環境問題に取り組んでいる。緑の保守主義脱原発立憲主義
  • 平成29年度。会員は3.7万人。信徒は46万人。

スピリチュアルメッセージ集37『プロティノス 谷口雅春』を手にした。この中で谷口雅春に語らせている。

  • 日本の神道ギリシャ神話などは多神教である。情欲もある人格神だ。「それぞれの神々たちが工夫を凝らし、自らが責任を負うエリアにおいて、地域において、さまざまな主教と信仰において、多くの人々を指導してこられた。
  • 生長の家は戦後、大きなブームとなった。多くの人々の力になった。また高邁な神理を含んだ数多くの書籍を遺した。その両方を達成できた。
  • 書籍を、集大成である『生命の実相』などをたくさん残したとしても、実際に読ん者は数少ない。その考えを発展してくれるなら、我が教えも、我が人生も無駄ではなかったと思う。

谷口雅春は著書を400冊以を書き、主著の『生命の実相』は1900万部を超えるほど多くの人々に読まれている。しかし、その威力には限界もある。谷口雅春は自らの考えを継承してくれる組織や人々の存在が大事であり、宗教法人格を持った「生長の家」を残したのである。

人は何を残すか。谷口雅春は、膨大な著書に込められた大思想と、宗教法人という大事業を残したのだ。