吉田茂記念室(外交資料館別館)

 外務省飯倉公館(外国の賓客をもてなす場所)の隣に建つ外交資料館別館。この別館は財団法人吉田茂記念事業財団(現 財団法人吉田茂国際基金)から外務省に寄贈されたものである。入り口を入った真正面に和服姿の大きな吉田茂の上半身像が体の前で手を組んでおり、「宰相吉田茂像」とある。製作者は誰かと探したがわからなかった。また階段の上り口には、昭和27年11月のメガネをかけた吉田の写真が飾ってある。


 受け付けの前に貼ってある年譜をみる。吉田茂は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれている。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁を発見する。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。

この養子制度を含む日本の「家」に思いを馳せる。確か斉藤茂吉も養子だった。江戸時代から家は法人格的な性格を持っていたから、優秀な番頭に実務を任せたり、子供がいない場合にはできのいい子供を養子に迎えて家の存続を図るなどの工夫が見える。明治維新後、株式会社が輸入されたが日本人は違和感無く導入して大きな成果をあげている。要するに会社というものに慣れていたのだ。日本の家は実は会社と同じだったのである。


 明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だったことを系図を見て発見する。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、小泉内閣麻生太郎総務大臣というわけだ。


 サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。吉田は「歴史を知らない国民は滅びる」という言葉をよく使った。



 89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった

昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。昭和の20年代は吉田ワンマンに率いられた時代だったのだ。在任期間一位は2798日の佐藤栄作、3位は1806日の中曽根康弘である。

 吉田の後を襲った鳩山一郎とは協力と競争の関係にあったようだ。吉田は日米安保をやり、鳩山は日ソ国交回復を実現している。