「遠メガネ 一人で持てば 罪つくり」(後藤新平)

 後藤新平(1857--1929年)は戊辰戦争で敗れた伊達藩の支藩の出身である。後藤が世に出た最大の要因は、安場保和という胆沢県の大参事(副知事)だった人物である。 12歳の悪童・新平を見て「この子は将来、参議(大臣)にもなりうる人材だ。新平の性格をたわめることなく伸ばすように指導してもらいたい」と部下であった阿川光裕に命じて面倒を見させている


  医者としてドイツ留学時代に会ったビスマルクが「見たところ君は、医者よりも政治 に携わるべき人間である」と看破したように、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、 逓信大臣、鉄道院総裁、内相、外相、東京市長、帝都復興院総裁、東京放送局総 裁、、、と、仕事師としての切れ味の凄みを髣髴とさせる多彩な経歴を持つ。日本初 の植民地経営だった台湾統治は成功だったと評価されているが、総督は児玉源太郎、 民政長官は後藤新平、殖産局長は新渡戸稲造という豪華版だった。記念館には、後藤 の死去に当たり「伯は実に智・仁・勇の三徳を程よく兼備した人と思う」と新渡戸が 評している大阪毎日新聞の記事が展示されている。