市川房枝記念室(婦選会館)

長い歴史のある婦選会館の2階に記念室がある。入ってすぐに偉大な社会運動家であった1893年(明治26年)生まれの市川房江の写真とともに、言葉が飾ってあった。そこには「運動は事務の堆積である」という簡潔だが、重い言葉が記してあった。長い長い時間をずっと社会改革の運動に捧げた、類のない型の女性闘士市川房枝ならではの言葉だと感銘を受けた。

 市川房枝の印象に残る言葉をあげてみる。

「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」

「権利の上に眠るな」

「婦選は鍵なり」


明治44年9月にその後の市川の運命を変える女性・平塚らいてうに会う。「原始、女性は太陽であった」という言葉を発した平塚との初対面の印象を市川房江は「物静かな美人で、この人が『新しい女』なのかとびっくりしたのでした」と記している。

 1953年の初当選は、理想選挙を掲げ、東京地方区から出馬し、二位に入った。1974年には全国区で二位、最後の1980年には一位で当選している。1974年は、一位がNHKアナウンサーの宮田輝、三位が青島幸男だった。市川は宮田輝に票数で負けたのを悔しがる。青島は当選後、二院クラブで市川の薫陶を受ける。

1980年の選挙では、278万票で一位。1953年から1981年まで、途中一回の落選はあったものの、参議院議員生活は20年以上に及んでいる。鳩山一郎石橋湛山岸信介池田勇人佐藤栄作田中角栄三木武夫福田赳夫大平正芳鈴木善幸と、10代の総理の時代を国会で過ごしていることになる。1981年2月11日、87歳で死去。

 

ひび割れた深い皺が、年輪と歴史を感じさせる。若い頃から幾多の戦いを経て、だんだん顔をよくなってきているような印象がある。健康法は「よく眠る・冷水摩擦・ラジオ体操」。


「生活」の部門では、アメリカから買って帰ったベッドを配した自宅が再現されている。「上げ下げしなくてすむ」「すぐにゴロンとなれる」からベッドを愛用したが、毎日8時間睡眠をとるようにしていた。

 一時吸っていたタバコのセットやトランプなどもある。ハンドバッグの中には裁縫道具もあった。文豪具、ノリ、ハサミ、クリップ、名刺入れ、裁縫道具。


市川房枝を語る人々の声で、その人柄をしのぶ。


青島幸男

 「私は憤慨しとるんですよ」が口グセ――「憤慨ばあさん」と呼んでい   た。

金森トシエ

 「私の顔って、本当にあんなにしわが多いんだろうか」とおっしゃった。

青地しん

 徳島ラジオ商殺しの被告・富士茂子さんのえん罪を晴らす運動の時に、 「市川さんは名前を出した以上、やるだけのことはちゃんとやる」「会の事務をきちんとやり、その経理については一円単位まで明細な会計報告書を配付した」

瀬戸内晴海

 「言行一致の人だという強い印象を受けた」

紀平 子

市川学校の生徒心得第一条。「運動とは事務の堆積である」という運動哲学です。先生自身まれに見る実務家でした。封筒、ハガキ、の上書きにはじまり会議記録、声明決議の起草、記者発表まで、そして資料を綴じ込む観世さ(?)まで誰よりも上手になさるのです。

一番ケ瀬康子

 社会運動家が心掛けなければならないこと

  自分の主張を明確にし一貫すること

  金にきれいであること

  男女間の問題についてもはっきりすること


年譜を眺めていると、おかしいのは、すぐに会や団体をつくって運動を始めることだ。

26歳:新婦人協会を創立

31歳:婦人参政権獲得期成同盟創立に参加

32歳:婦人問題研究所設立

40歳:東京婦人市政浄化連盟を組織

52歳:戦後対策婦人委員会を結成、新日本婦人同盟を創立

57歳:日本婦人有権者同盟(改称)会長復帰

60歳:参院東京地方区第二位当選(以後連続3回当選)、衆参婦人議員団結成

69歳:財団法人婦選会館を設立

73歳:政治資金規正協議会発足、代表理事の一人

78歳:参院東京地方区、落選

81歳:参院全国区第二位当選

83歳:参院全国区第一位当選

87歳:死去


物凄い活動家だったことをうかがわせる。