魯迅博物館再訪

数年前、北京の魯迅博物館を訪問したことがある。その時は、博物館は休日で、旧居も閉まっていて見ることはできなかった。今回、中国最初の名人博物館(個人記念館)を再訪する。

1881年生まれの魯迅は、本名は周樹人である。筆名の「魯」は、母の苗字だったのだ。母方の姓を使うアイデアだ。

1902年から1909年まで魯迅は日本で暮らす。何をしたらいいかわからないことを悩んだ末、船で外国に行こうと決心する。公費留学で、弘文館で新知識と日本文化を学ぶが、講道館牛込分場修行者にも周樹人という名前がのっている。


仙台時代の資料が興味をひいた。

仙台医学専門学校での1年次の成績表が掲示してある。これによると倫理だけが80点台であとはギリギリの60点が多く、平均点は65,5点。142人中の68位と冴えない。医学にはあまり熱心になれない姿が浮かぶ。


「藤野先生」という作品で知られる藤野厳九郎という人物がいる。仙台医専門の先生で魯迅が終生、その恩義を語った人だ。周樹人が日本語でとったノートが展示されていている。関節の授業のようで、骨の絵が描かれている。そこに藤野先生が赤字で直している。このシーンも「藤野先生」に出てきて、周樹人は感激するのだが、そのノートを見ることができた。


「謹んで周樹人様を憶ふ」という藤野弦九郎の手稿があり、「古いことで記憶がハッキリして居りません。」から始まる思い出が書いてある。


藤野先生が書いた履歴書も展示されている。

福井県越前、、、、。平民 医師   明治34年2月  日」「右之通り毛頭相違無御座候也」「明治7年7月 日生まれ]


魯迅故居も見る。中庭を囲み奉公人の部屋、書斎、台所などが配置されている。中庭から続く庭もある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夜は、「中国建国56周年記念パーティ」に参加する予定だったが、ちょっとした手違いと、北京は軍事演習の関係などでものすごく道路が混んでいることもあり、発行済みのチケットが間に合わなかった。胡錦トウ等中国政府指導部が主宰なので、残念な気もするがやむを得ない。このパーティのため天安門広場は警戒のため、人を排除し警官が警備をしていた。