北原白秋記念館(福岡県柳川市)

詩聖・北原白秋の記念館は、福岡県柳川市の白秋の生家にある。福岡天神の西鉄電車に乗って45分ほどで水郷・柳川に着く。この電車は九大の学生時代に大宰府や家庭教師をやっていた家まで通うのによく使っていた。薬院など懐かしい駅名が並んでいる。柳川は初めての訪問だ。


国民詩人・北原白秋は1885年(明治18年)生まれで1941年に57歳でこの世を去る。北原家は代々柳河藩立花家11万石の御用達をつとめ、油屋、海産物問屋を商い、祖父の代より造り酒屋も営み栄えていた。その母屋は、座敷、仏間、父の6畳間、茶の間、店、番頭食事場、男衆食事場などがあり、2階には子供部屋がある。80坪(264m)の土蔵造りで、北原家なきあと競売にかけられるが、保存会が活躍し、昭和44年11月1日に復元された。県指定の文化財である。

歌集が展示してあった。母が歌を詠むので眺めていたら、よく知っている名前にいくつも出会った。歌集では「形成」、「波濤」、「地脈」が目に入った。私の実家でよく見かけた名前である。「形成」は白秋の弟子である木俣修が主宰しているし、「地脈」は母の歌の師匠・有野正博創刊だから、私の母は白秋の系統だったことを初めて知った。白秋は佐々木信綱の系統だが、もう一つの正岡子規根岸短歌会)が源流となっている有力なアララギという系統がある。


家の庭から続いているのが、柳川独特のなまこ壁の土蔵造りの北原白秋記念館である。1階は柳川についての展示で、2階が白秋についての展示室だ。ここでは生涯を5つの時代に分け、時代を追って、白秋の業績の全貌を紹介している。生涯を1.【柳川時代】2.【青春時代】3.【遍歴の時代】4.【壮年の時代】5.【豊熟の時代】と5つに分けている。この記念館は生誕100周年記念事業としてつくられ、昭和60年1月25日(誕生日)にオープンした。


19歳、中学を卒業試験中途で退学し、父に隠れて状況。早稲田大学英文科予科に入学。同級生には若山牧水土岐善麿佐藤紅緑らがいて、牧水とは牛込の清致館という下宿に同宿した。これ以降、与謝野寛の新詩社に参加するなど頽廃的な感覚詩を次々に発表し、有望な新進詩人として活躍する。22歳の時には森欧外の観潮楼歌会に出席し、佐々木信綱、伊藤左千夫、斉藤茂吉らと親交を結ぶ。


25歳で出版した処女詩集「邪宗門」は大きな反響を呼んだ。その前に与謝野寛、吉井修、木下杢太郎らと九州の福岡、長崎、熊本を旅行し、キリシタン26聖人殉教地、天草四郎の反乱の地などを訪ねた。邪宗門はその成果である。色彩感覚、官能的な作風である。金沢では室生犀星が感激し読んでいる。石川啄木は「新しい感覚と情緒」「今後は新しい詩の基礎となるべきものだ」と感想を述べている。

26歳第二詩集「思ひ出」を刊行し、高い世評を得る。28歳では、処女歌集「桐の花」を出版する。「私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌は裏面にかすかに動いているテレビン油のしめりであらねばならぬ」と白秋は述べている。

また白秋は「赤い鳥」「花咲か爺さん」「ほうほう蛍」などの童謡を生涯で1200編生み出している。作曲の山田耕作とのコンビも長く続いた。

以後、57歳で永眠するまで実に精力的な活動を続けている。


一方で白秋は女性関係では事件が多い。27歳のときに隣家の人妻・松下俊子と恋愛事件を起している。俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷の未決監に2週間拘置される。翌年夫に離縁されていた俊子と偶然再会し正式に結婚する。29歳で貧窮のうちに俊子と離別。31歳で青踏社の平塚雷鳥のもとに身を寄せていた大分県出身の江口章子(あやこ)と結婚するが、35歳のときに三階建て洋館の地鎮祭の夜に章子が突然姿を消す。36歳、大分県出身の佐藤菊子と結婚しようやく充実した家庭生活を得る。長男が翌年、40歳で長女が生れている。これ以降さらに活発な文筆活動が続いていく。


帰りに隣の大川の古賀正男記念館があることを思いだして寄ってみたがあいにく休みだった。


西鉄柳川駅前のうなぎ屋に入り、名物のせいろ蒸を食べた。今回は川下りができなかったが次にしよう。