福岡の玄洋社記念館(頭山満)

九州の実家の客間に2つの額がかかっている。南には「吐鳳」(とほう)という亀井南冥(陳人)の見事な書だ。そして北には頭山満の大きな書がある。大学生の頃、父親に「吐鳳」という字の意味を聞いたことがある。

「鳳(おおとり)を吐くという意味だ。中国の偉い文人がなかなか文章が書けなくて困っていたら、口から鳳が飛び立つ夢を見たという。そうしたら翌朝文章がスラスラ書けた、という故事からきている」との回答だった。文章を書く人に「吐鳳」という文字は縁起がいいので、いずれ私の号にしようと思ったことがある。

この亀井南冥は江戸時代の儒者筑前福岡藩医、甘とう館総裁。門下に日田の広瀬淡窓がいる

また、頭山満は父らの会話の中で何回か耳にした記憶がある。

今回玄洋社記念館を訪問してわかったのは、頭山は南冥の長男・亀井昭陽の息子の亀井玄谷に陽明学を学んだことだ。父は福岡出身だったから、この玄洋社頭山満に関心があったということだろう。


玄洋社記念館(昭和53年開館、58年に社団法人)を訪ねる。館長が玄洋社発祥の地に連れて行ってくれた。今はNTTドコモ九州ビルの一角に「玄洋社跡」という碑が建っている。そこからさほど遠くないビルの2階に記念館はあった。商法制以前、社は志を同じくする人間が集まって研鑽をはかる士族の結社という意味を持っていた。

玄洋社は「皇室を敬載すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」との三原則を基幹とした政治結社で明治12年にこの名前になった。先日佐賀の大隈記念館で大隈外相を襲い条約改正を葬った来島恒喜が玄洋社社員だったことを思い出した。玄洋社は、自由民権運動憲法の新設、国会の開設、祖国の国力伸張に奔走する。また屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基づくアジア民族の自決独立の援助を行う。孫文を助けるなど中国革命における玄洋社の存在は大きく第二次世界大戦終了直後まで日中平和工作を継続していた。記念館入り口の写真や関係者の名簿に度肝を抜かれる。頭山満広田弘毅中野正剛緒方竹虎、進藤一馬などそうそうたる人材が輩出している。1946年に玄洋社は占領軍により強制的に解散される。


その玄洋社の創始者の一人が頭山満である。遠山は1855年生まれで1944年に亡くなっている。「ふるさと博多」シリーズという小冊子には「無位、無冠。在野の頭領。不思議な大きなひと」との評が出ている。萩の乱連座し投獄、出獄後は板垣退助と交わる。向陽社・玄洋社を組織。福稜新報を創刊し社長。大隈外相爆弾事件にかかわる。満州義軍結成を支援。浪人会を結成し大正デモクラシーの風潮と対決。純正普選運動を展開。孫文、ボースら亡命政客を保護。戦前右翼界の長老として晩年は神格化される。


記念館には孫文玄洋社墓地訪問の写真、中野正剛の東条首相への抗議文と抗議の自殺(57歳)の記事、広田弘毅の「春風接人 秋霜自粛」の書、日本相撲協会を応援した写真などが所狭しと並んでいる。ロシア革命時に活躍した明石元二郎などの名前もみえる。歴史の重みと憂国の想いにあふれた不思議な空間である。


玄洋社は向陽義塾を開設、名を藤雲館と改める。それが後の学制改革で中学・修猷館となる。義塾を手放すと同時に柔道の明道館と剣道の一到館を設け文武両道の青年の育成に力を注ぐ。後に明道館から広田弘毅、一到館からは緒方竹虎などが出る。


「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い日とは国でも人でもない」

「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも何時かは奮発する気になるじゃろう。老若真に一瞬の間じゃ、気を許すな」

「青年は圭角がなければならぬ」

「天下の諤諤も君が一撃に如かず」(大隈爆弾事件の来島恒喜葬儀の弔辞)


記念館には頭山満に関する本は無かったので、かわりに「獅子の道 中野正剛」(日下藤吾)を買い辞去する。中野正剛(1986−1943)の政治思想は「天下一人を以って興る」である。