石ノ森章太郎ふるさと記念館

宮城県登米市中田町石森に2000年に建った天才漫画家・石ノ森章太郎ふるさと記念館がある。住所の石森はイシノモリと読む。石ノ森章太郎はふるさとの住所をペンネームにしていたのである。1938年生まれで1998年に逝去しているから60歳と随分と早い死である。師匠であった手塚治、友人であった藤本弘藤子・F・不二雄)も60歳前後で亡くなっているから、漫画家という職業は随分と体力を酷使する商売である。石ノ森章太郎は、比較的短い人生だったが、漫画は900作品以上、映像作品3200話以上というから仕事量は膨大である。因みに名前だけでも知っているものをあげてみみると、「サイボーグ009」「怪傑ハイリマオ」「幻魔大戦」「がんばれロボコン」「仮面ライダー」「さるとびエッちゃん」「秘密戦隊語レンジャー」「HOTEL」「佐武と市捕物控」など仕事の多彩ぶりがうかがわれる。しかし、意外なことに、自分には「世に言うところの会心の作はない」とある本で述べていた


映画監督か小説家という夢を持っていたが、そのためにまず大学に行って新聞記者になり、人生修行雄をしようと考えて高校を出て上京した石ノ森章太郎は、後に多くの漫画家を輩出し、伝説となった漫画家の梁山泊トキワ荘で暮らし始め、8年間を過ごし漫画家になる。意識的に自己表現を職業として選んだということになる。

トキワ荘は 広かった、そうせまい四畳半の小さな机の前で、みんなが大きな夢を描いて暮らしていたのだ」(わが青春の代名詞)という言葉が、館内の「ボクの青春時代・トキワ荘」のコーナーにある。机、レコードプレーヤー、ベートーベンのポスターが貼ってあり、トキワ荘での生活ぶりを垣間見ることができる。


中学3年生から漫画雑誌の投稿の常連となったが、赤塚不二夫はこの頃からの仲間だ。デビュー45周年記念とかで、漫画家仲間のメッセージの入った扇子が飾ってある。加藤芳郎里中満智子ちばてつや永井豪馬場のぼる弘兼憲史藤子不二雄A、水島新司モンキー・パンチ矢口高雄やなせたかし、などの名前が並んでいる。


ライブラリーでは、数々の漫画のキャラクターとなどと並んで「マンガ日本の歴史」(全55巻)「マンガ日本経済入門」「マンガ世界経済入門」が展示されている。「マンガ日本経済入門」は200万部という大ベストセラーになったと記憶している。


1989年に手塚治虫に捧げた「風のように」という作品の最終ページに掲載された「萬画宣言」に石ノ森章太郎の考え方が込められている。

一、萬画は万画(よろずが)です。あらゆる事象を表現できるからです。

一、萬画は万人の嗜好に合う(愛される、親しみやすい)メディアです。

一、萬画は一から万(無限大の意を含む)のコマによる表現です。---従って萬画は、無限大の可能性を持つメディアである、とも言えるでしょう。

一、萬画を英語風に言えば---Million Art。Millionは百万でsが、日本語の万とおなじく「たくさん」の意味があるからです。頭文字を継げれば、M・Aです。

一、M・Aは即ち MA NGAの意。


マンガ、漫画、まんが、劇画、コミックなどの総体を表す言葉として「萬画」という全体をくくる総称を提案したのである。この言葉には未来ヘ向けての意志や意欲が表れている。この志向は、版画の世界を「板画」と呼んだ棟方志勲に通じるところがある。


脚本家・監督・俳優・音楽家の一人でこなすチャプリンになりたかった石ノ森章太郎は、万能の天才・ダ・ダ・ヴィンチに憧れる。このため中学時代は音楽を、そして高校時代にはあらゆるクラブ活動に参加をする。美術部でデッサン、油絵、日本画を習い、新聞部で記事を書き、連載漫画も描き、文学部主催の小説の賞に入選、脚本、絵コンテにも挑戦する。気の多い、そしてエネルギーにあふれた少年だったのだろう。石ノ森章太郎自身は、自らを「チャプリン発、ダ・ヴィンチ経由、萬画家行き」と称している。何でも興味を持ち、貪欲に仕事に邁進する。エニアグラムのタイプ7(冒険者)だろう。


漫画家は、感性で描ける時代を経て、量をこなす中から技術が磨かれ質に転化し感性に磨きがかかる。そして体力で大成するというのが、石ノ森章太郎の時論だった。才能の大部分は技術だと言っていたが、晩年には「才能の8割は、体力である。間違いない」というようになった。

「むりやり手を動かそうとしているうちに不思議とちゃんとアイデアが湧いてくる」とも言っている。頭を動かすのはやはりここでも手だった。息子が親父がゆっくりしていたのは元旦だけだったとも述懐している


日本の若者には自然と共生するという精神性を大切にし、「精神文明の担い手」になって欲しいというのが、自己表現の数々のジャンルを踏破した石ノ森章太郎の遺言だろうか。21世紀を目前にした1998年に石ノ森章太郎は逝く。


記念館の近くにある生家を訪ねる。道路沿いの奥行きの深い家で、母が営む雑貨店のスペースから入る。あがると奇抜な形の瞑想のための回転椅子がある。これで茶目っ気の多い石ノ森章太郎が遊んでいたのだろうと微笑ましくなる。明治末年生れで役場勤めの父は漫画をずっと黙殺し、じっくり話をしたことがなかった。田舎町で「中央公論」「世界」「改造」を読んでいた文学青年であった。後に石ノ森章太郎は「中央公論」から原稿を依頼されたとき、晴れがましく思ったという。

2階では勉強机、伝記スタンド、目覚まし時計などを見ることができる。