古今亭志ん朝--「この空港(ロンドンヒースロー空港)で一番働いているのは、あれかもしれませんね」

落語の伝説的な名人・古今亭志ん生のCDを買って時どき聞いていたら、家内の方がはまってしまって、寝室ではいろいろな落語家の語りを聴きながら眠りに入るし、くるまの中ではいつも志ん朝の落語が流れてくる。


志ん生の落語はゆったりした名人芸で聴いていていい気持ちになる。野田一夫先生が大学生の頃、大学の講義のあまりのつまらなさ、ばかばかしさに絶望して、一時寄席通いをしたときに、志ん生を聴いて「こんなに日本語を上手にあやつることができるのか」と感嘆したという話をしてくれたことがある。その影響だろうか、野田先生の講演や講義には必ず「落ち」のようなフレーズが含まれていて、同じ話でも何度聞いても可笑しくなってしまう。あの名人芸の話術は落語なのだ。


この志ん生の長男が馬生で、次男が志ん朝である。芸風は兄の馬生が継いだが、志ん朝は独特の語り口で多くのファンを獲得し、志ん生はこの由緒ある名跡を次男に継がせたがっていたという。車の中で久しぶりに大きな音にして聴いてみたら、確かにうまい。テンポが軽快で、歯切れがよく、声色の使い方で何人もの人物を描くことができる。CDは実演を撮っているのだが、お客が何度もどっと笑うから、こちらも大きな声で笑ってしまう。


ここまで書いていたら、この志ん朝に会ったことがあるのを思い出した。

まだ20代でJALの派遣員でロンドンのヒースロー空港に勤務していた頃、日本から来る重要人物の乗り継ぎなどのお世話をするという業務に人手が足りない時駆りだされることがあった。上司の総務マネジャーから「落語の志ん朝さんが見えるからお手伝いをしてくれ」といわれて、空港のゲートでお迎えした。当時、落語界には2人の有望新人がいて、一人は立川談志で、もう一人が古今亭志ん朝だった。


乗り継ぎの時間が少しあったので空港内のカフェでミルクティーを2人で飲みながら歓談した。当時のイギリスは労働党のキャラハン政権で、ストライキが頻発する異様な雰囲気だった。英国病などが盛んに論じられた頃だった。イギリス人は働かない、そういう印象を日本人は持っていた。直後の選挙で保守党のサッチャーが首相になるのだが、労働者天国の時代にまだ若い志ん朝さんを空港でもてなしたのである。


カフェではゆったりした時間が流れていた。当時はフライトナンバーは0から9までの数字を組み合わせて表示するのが一般的だった。黒字に白い数字だったか逆だったか忘れたが、しょちゅうクルクルとボードが回っている状態だった。正式の名前ももちろんあるのだが私たち職員は、それを「パタパタ」と呼んでいた。常にボードがパタパタ回っていたからだ。

ブレザー姿の志ん朝さんは人懐っこい顔をしていて、あまり気を使わなくても自然体で接することができた。

そのとき彼は突然こういったのだ。遠くで動いているパタパタを指で指しながら「この空港で一番働いているのは、あれかもしれませんね」と。こちらも思わず噴出してしまった。「一本取られた」という感じだった。親しみを持ったと同時に、この着眼点は只者ではないと感心した。その後、しばらく志ん朝さんの成長する姿をメディアで関心を持って眺めていた記憶がある。志ん朝さんは確か10年ほど前(?)に比較的若く亡くなったが落語界の至宝だっただけに惜しむ人が多い。


一度会っていることを久しぶりに思い出したら、風貌が目に浮かんできて名人芸の落語がまた面白くなってくる。しばらくは落語を聴くことにしよう。