波頭亮「プロフェッショナル原論」を読んで、プロフェッショナルの論理と倫理を考える

著名な経営コンサルタント波頭亮さんから「プロフェッショナル原論」(ちくま新書)という新著をいただいた。表紙の裏には「自由と誇り」という言葉と本人のサインがしてある。自己決定と自尊こそがプロフェッショナルの神髄であるということだろう。

この本を読んで考えたのは、プロフェッショナルの論理と倫理ということである。


まず、プロフェッショナルの論理とはいかなるものであろうか。

プロフェッショナルとは、職業形態として「高度な知識と技術によってクライアントの依頼事項を適えるインディペンデントな職業」と定義されている。そして厳しい掟を遵守しながら公益への奉仕を使命とするものである。具体的な職業のイメージとしては、医者、弁護士、会計士、建築家、経営コンサルタントなどを指している。これらの職業の魅力は、仕事を選べる自由と一人で仕事ができる安心という基本的な価値であり、自尊の念を持ちつつ社会からの敬意を得ることができる高次の価値も持っている。


実際に仕事をする場面では、5つの掟があると筆者は言う。

顧客利益第一(全てはクライアントのために)、成果指向(結果が全て)、品質追求(本気で最高を目指す)、価値主義(コストは問わない)、全権意識(全て決め、全てやり、全て負う)である。


プロフェッショナルは、資格の認定と品質の監督と権益の確保のためギルド(協会)を結成して、プロフェッショナル業界特有のファームという組織で仕事をする。出資者が経営者となり合議制によるコンセンサスで意思決定が行われる。彼らのは自ら営業はしないし報酬は個人の格に時間単価をかけたものである。その仕事ぶりは極めてハードであり、その行動特性は行動的で意欲的で個人主義的で論理的である。


またプロフェッショナルの倫理については次のようにある。

このような高度な仕事であるがゆえに、仕事はブラックボックスとなっており、そこには特権もあるが、安逸に流れる危険性も常に潜んでいる。その職業特性から不正や手抜き、不祥事や事件を引き起こしてしまいやすい職業でもある。現在のように経済価値が他の価値を抑えて突出してしまった日本社会では、そういった誘惑に駆られることも多い。耐震構造偽装事件やライブドア粉飾決算事件などのプロフェッショナルが起した事件は、こういった文脈の中で発生した。現在のプロフェッショナルも経済至上主義の進行の中で、彼らの価値であった自由と安心がなかなか確保できなくなってきている。


このような中でプロフェッショナルはどのようにすべきだろうか。「プロフェッショナルはさらに自らの職能を磨き、プロフェッショナルの掟を一層厳しく守るのみ」という明快かつシンプルな答えを筆者は用意している。高が知れているカネと引き換えに、自由と誇りを売るべきではない。不当な要求を断固退ける勇気と職能を持ったものが大きく長く活躍している。プロフェッショナリズムをまっとうすることによって人生とキャリアの成功を目指すべきである。

公益に奉仕する喜びと充足感、仕事を通じて得る自尊の念と自由、そうした非経済的価値によって人は最高の幸せを享受することができるというモデルになれる。

プロフェッショナル達へのこのような励ましの言葉で終わっている。


プロフェッショナル達の考えや行動、苦悩が見えた気がするし、経営コンサルタントらしく処方は明快で説得力がある。



この本を読んで私が感じたことは二つある。

一つは「自由と誇り」についてである。これは論理に属すことだろう。自由と誇りは高度な職能を持つプロフェッショナルに限らず、程度の差はあれどのような職業においても、目指すべき指針ではないかということだ。組織の内部においても昇進に連れて仕事を選ぶ自由は増してくるし、それに伴って誇りも増えてくる。突き詰めるとプロフェッショナルに到達するのではあろうが、誰しも仕事の中で自由と誇りを持つことを目指すべきだろう。

もう一つは「非経済価値」についてである。これは倫理に属すことだろう。カネが唯一の社会的評価の尺度になりつつある現在、そしてその行き着く先が品格のない社会であるという流れの中で、経済価値にかわるものとして自己実現や人間を磨くという修養の考え方、家族という価値の再構築、そして仕事を通じて組織と社会に貢献するという生き方などを本気になって考えるべきときだろう。


波頭亮さんは、プロフェッショナリズムというテーマを語りながら、現代人の生き方について一石を投じたと解したい。この快著は大いに話題にのぼるだろう。