柳宗悦の日本民藝館



棟方志功、芹沢けい介、白州正子、そして武者小路実篤(白樺同人の柳は4つほど年下)といった人々は、この人物から多大の影響を受けて、優れた仕事を成し遂げてきた。

その彼らの仕事の影響を今日の私たちは受けている。


ようやく、東京駒場にある柳宗悦という人物のつくった日本民藝館を訪問する機会を得た。

五百五十坪の土地に、大谷石を材料に使った二百坪の建物が完成したのは昭和10年である。本館は一階6室、二階5室の和堂々たる和風建築で、灯篭のように建つ門の板に「日本民藝館」の名が記されていた。玄関を入ると、大階段が目に入る。スリッパがそろえてあるなど、配慮が行く届いているとの第一印象を持った。大きな木の柱と梁、日本家屋らしい障子の多用、各部屋に備えている木のテーブル、そして日本各地から集めた民藝品の数々。

「室町から江戸」の室では、煙草入れ、状袋、財布、抱鞄、箱、喫煙具、角酒器などの日用品が並べられている。柳の思想をよくものに結実した河井寛治次郎の茶碗、三段重、浜田庄司の作品などと並んで、「朝鮮とその芸術」選集、「蒐集に就て」「美と模様」などの著作も並べてある。ほとんどは芹沢けい介の装丁だった。並べてある小壺、碗、土瓶、手箱など、これらの作品はたしかに正しい姿をしている。奇をてらったものはない。これが民藝品だろう。


柳宗悦の間があり自筆原稿が展示してあった。「模様の意義」としてあった文章の標題を「意義」に線を引っ張って消し、「模様とは何か」に書き換えている。また「一度、、の問題を取り扱ってみたかった・」の後に、「のである」を加えてもいた。そして「蒐集に就ての意見」の意見を赤で消してもいた。「人間をた易く夢中にする」の「す」、に線を引いて「させ」に換えている。文章の推敲の後がみえて興味深かった。

愛用の文鎮や万年筆があったが、「踏マレツモ 人ヲ ミチビク 原ノ路  宗悦」という書もあり、仕事に挑む心意気が見えた気もした。


柳宗悦の仕事は膨大であった。「白樺」での西洋美術評論、英米文学研究、西洋宗教哲学、朝鮮李朝工芸の蒐集、美術史、仏教美学、茶道評論、近代工芸評論、そして民藝運動と実に多彩である。柳の師であった鈴木大拙は葬儀の席で「日本は大なる東洋的 美の法門 の開拓者 を失った」と語っている。

柳は日用の雑器を蒐集した。それらは名もなき職人たちの手によって生れた。これを民衆的工芸、すなわち民藝と名付けた。鏡のように民族の心を映し出している陶磁器、自由にのびのびと描かれた絵漆の美の漆工、全国の金物横丁や鋳物師町で作られていた金工、着物や夜具などの美の世界をつくった布、重さで秤売りされていた和紙を工芸の高みにおいた和紙、手仕事の美の細工物、人間の姿を純化した人形などが柳が見つけた新しい美の形である。


「民藝四十年」(岩波文庫ワイド版)という柳宗悦の書を読んだ。

「日本の眼」という論考を読むと、西洋の眼は完全の美であるのに対し、日本の眼は不完全な美であると主張している。こういった美の形を深く追求した民族はない。日本人は眼がきくこともあって、日常生活では選ばれた器物に囲まれて暮らしている。インド人は思索に長け、中国人は実行に優れ、日本人は鑑賞に長けている。だから日本は日本の眼に確信を持ちそれを世界に輝かせよ、との意見を述べている。

また茶の利休については、権力に仕える茶であり、人格面でも問題があり、俗気の多い人であって、その程度の仕事のレベルでとどまってはいられないとの決意を語っている。


生活に即した器物は強く健康である。そういった美の発見者である柳にとっては、日本全国は完全な処女地であり、蒐集に全力を注いで日本民藝館を創立し民藝運動の拠点とした。

民藝運動の大きな潮流は、現代にでも息づいている。

古民家再生という流れもその一つである。自然素材、実用性、簡素など最大級の民藝品が古民家ということになるのである。

今話題の白州次郎の妻であった白州正子なども柳の教えを受けて、日本の美の行脚を行っている。武相荘という2人の住居には、柳の思想が息づいていたことを思い出した。

今回は日本民藝館の向かいに建つ柳の住居の中は見ることができなかった。もう一度訪れたい。


柳宗悦は「民藝とは何か」「美の法門」などの名著を残し後世に影響を与えたが、日本民藝館という拠点を確保したことによって、長く生き続けていると思う。この館はその後も活発な活動を展開しているようで、現在では世界50カ国とも交流も持っているという。

師の鈴木大拙のいうように柳宗悦は、「大きな思想家、大きな愛で包まれて居る人--このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んで居ない」。