「ウェブ人間論」(梅田望夫・平野啓一郎:新潮新書)---外的世界の拡大は内的世界を深化させる

昨年読んだ本の中で一番面白かったのは梅田望夫ウェブ進化論」だった。

この本は話題となってウェブ2.0という言葉が飛び交う契機となった。

今日はその続編である「ウェブ人間論」という平野啓一郎と梅田の対談本を手にした。


対談という手法はそれぞれの特徴や主張を際立たせるため、双方が本音で対峙する必要に迫られる。このため主張や思想がくっきりと浮かび上がるという方法論である。

そういう意味で年齢が15歳下の作家・平野の切込みに対する梅田の丁寧な説明や反論によって、読者は新しい世界に対する理解がすすんでくる。


この対談を読んで、内容以前に人間の気質というものを強く感じた。

京大在学中に芥川賞を受賞した鬼才・平野の人間の暗部に対する拭いがたい不信感と、ウェブ2.0という革命の最前線の優れたウオッチャーである梅田の楽観論という対照は、取り組んでいるテーマというより、それぞれの気質に影響を受けているように感じる。むしろそういった気質がそれぞれの関心を呼び込んでいるといった方が正確かもしれない。


1975年生れの平野の立場はウェブ世界を当然のこととしている世代であるにもかかわらず、人間に対する問題意識が先行するが、この平野が読者に代わって突っ込み、最終的には人間総体をトータルでは信頼する梅田がそれに答えていく。私は気質的に梅田の方に近いようなので、読みながら梅田の議論を中心に追うことになった。


梅田望夫の日常のスタイルを追ってみた。


ブログはネット上に置いてある自分の分身である。少しまとまった時間があればいつもチェックしている300-400人の日常や考えていることをシャワーのように浴びるため英語と日本語のブログを覗く。毎日2時間くらいかけて読んだ最先端の情報蒐集の成果を1時間かけてブログに書き、そのエッジの情報を無料で公開する。書いた内容が検索エンジンに拾われて新しい出会いがある。旧来のメディアである本を書くとネット上の書き込みが多くなり、その内容もすべて自分で読んで考える材料となる。そういった様々なそしてレベルの高い反応をもらうことによって、謙虚になると同時に深く考える術を獲得する。

ネット空間に自分の書いたブログの反応の量が増えてくると、ネット空間をある程度支配できるようになってリアルな自分を防衛してくれるという面も出てくる。悪意や中傷はもちろんあるが、やり過ごしたりする中でネット空間で生きる術も自動的に身についてくる。実名でリアル世界との連続性の中で活動することによってネット世界とリアル世界は自身の中で統合されていく。

こういったスタイルを持つ人々はネットという能力の増幅器を使いこなしながら、成長し変容を遂げていく。


1995年が日本のインターネット元年で、1997−8年時点ではホームページの永続性は前提とはされていなかったと梅田は言っている。そうすると梅田より10年ほど年長の私が必死になってホームページ(図解Web)を開設したのが1999年2月だから、その先端の動きに何とかくらいついていたということもいえるかもしれない。その後、メルマガ、ブログ、SNSといった新しい波にも何とか乗りここまでやってきたのだが、梅田の日常の動きに近い形で自分も進化を遂げてきたような気もしている。


「本、iPod、グーグル、そしてユーチューブ」という章では、本の未来も語られている。ネット情報はフローとして最先端を切り拓き、本は構造化された知識をパッケージという形で提供され続ける、そしてアマゾンやグーグルというネット企業と既存の出版社とはリーズナブルなゾーンに入る、いうのが梅田の予測である。


梅田がいう「構造化」もキーワードである。世界を構造化するのが書物であるというのだが、それは構造と関係を用いて世界を解釈するということだろう。私の取り組んでいる図解コミュニケーションもそういうことを強く意識した方法論である。


私自身もホームページ、メルマガ、ブログという一連の流れの中に何とか振り落とされないように棹さしているが、もうこの流れから遠ざかることはできなくなっている。それは自己の増殖という感覚、自己成長の確認、世界の中で生きているという実感などが織り交ざった世界に生きているからだと思う。「ウェブ人間」という言葉は若い新しい世代のことをいうのだろうが、自分自身も間違いなくウェブ人間であると思う。

外的世界の拡大は内的世界を深化させる。この言葉は大学生時代の探検部のときに大事にしていた言葉であるが、ここでいう外的世界とは、ネットも含んでいると考えるのが自然だろう。

私たちは外的世界の拡大のための乗り物を手に入れた。今後、人間は一気に豊かな内的世界の旅に出ることになるだろう。