「小説 佐藤一斎」(童門冬ニ)

小説家の童門冬ニが「小説 佐藤一斎」という本をものしている。77歳になる著者は88歳まで生きた佐藤一斎に学ぶという姿勢で書いた。童門は現代では90歳を超えてベストセラーを連発した日野原重明先生も励みにしながら小説の執筆を続けているそうだ。


門弟三千人といわれ、幕末・維新の英傑たちを育てた人間通である佐藤一斎は、西郷隆盛(西郷は弟子ではないが一斎の書物を繰り返し読んでいた)、渡辺崋山、川路聖あきら、佐久間象山山田方谷横井小楠などに大きな影響を与えた儒学者である。朱子学陽明学の大家だ。一斎の主著である「言志四録」は、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志てつ録」の四書である。この中にある言葉には励まされる言葉が多い。


この本でもいくつか紹介されている。

・無文の武は真武ではなく、無武の文は真文ではない

・人の言はすべからく居れて之を択ぶべし。はばむべからず。又惑うべからず。

・学、問、思、弁はこれ知の事。篤行はこれ行いの事、程朱既に定説あり。ただ拘執すべからざるのみ」(「掲示問」)



美濃岩村藩藩主の三男の松平乗衡が大学頭である林家の養子に入り、松平定信寛政の改革の大きな柱であった「文教改革」を担当することとなった。この林術斎は林家所管の湯島の聖堂(昌平坂学問所)を幕府官立の大学に昇格させた。林家には別に私塾があって兄貴分の術斎から頼まれて塾長になったのはこの私塾であり、昌平坂学問所ではなかった。その後、術斎が74歳で亡くなった1841年に70歳だった一斎が昌平坂学問所(後の東大)の実質的な総長に任命された。「陽朱陰王」といわれた教授法、表向きは正式な朱子学を教え、陰では陽明学を教えたというこのやり方が実行できたのは、私塾においては陽明学も教えたということになる。これが童門冬ニの仮説である。

朱子学は賢愚それぞれ順序を追って進むことができる。陽明学は心を主体にしているので愚か者が学ぶと危険、賢い者が学ぶと人間性の本質に迫ることができる。こういう説明をこの本ではしている。


童門冬ニは都政の大立者だった。東京都庁の広報室長や企画調整局長などを歴任して52歳で退職し、以後本格的な作家活動に入った。この本を書いた時点で77歳だから四半世紀にわたって小説を書いた。歴史に題材を求めて「組織と人間」をテーマにすえた作品を多く書いている。この人も役人として個人と組織の葛藤に関心が深かったのだろうと思う。

童門は「生涯の師」の存在が重要だと考えている。童門の心の師は、太宰治山本周五郎で、二人の書いた作品は単発のものでも全集でもすべて購入し手元に置いているという。


確たるテーマと、仰ぎ見る師匠の存在も本物になるための条件である。